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その後、リョウはわからねえと言いつつも、立ち位置だ喋り方だ、様々なアドバイスをし、数度も練習を行うと、ミリアも目に見えて自信をもって発表ができるようになった。
「……ま、こんなもんかな。後は学校で先生に見てもらえよ。」
ミリアは笑顔で肯く。
しかしすぐに、もうこれは単なる自分だけの問題ではないのだと、その事実に思い当たり、打ちのめされそうになった。もしここで失敗をすれば海外公演に行くことはできない。ヘルプを雇うなどと言ってはいたが、リョウのことである。キャンセルをするに決まっている。自分を置いておくことはない。しかしそれはリョウと園城の夢を破ることとなってしまう。失敗は許されない。必ずや成功の結果を、リョウと同じ日に出すのだ。
それが希望となってミリアを奮い立たせた。
リョウはミリアの頭を撫でつつ、「お前は他のガキどもが鼻垂らしてる小学一年の時から美桜ちゃんのお母さんに教わって、本格的な料理やってんだ。お前の作った料理程旨いのはどこのレストランだってねえし、お前のお蔭で俺は、治療でくたばってた時も食欲を喪わず体力付けて病気と戦えたんだ。ステージⅢのがんを治す料理だぞ? 相当なモンじゃねえか。お前は俺の命を救ったんだ。お前がもう、十年以上も前か? 俺の所に来てくれなかったら俺は死んでたっつうことになる。命を救う料理だぞ? 自信を持て。その最高の笑顔振り撒いて堂々と発表すりゃあ、大学の二三十ぐれえ向こうから頭下げて来てくれっていうだろ。」そう切々と言い聞かせた。
果たしてそれは完全なる虚妄ではなかった。
一通りミリアがパワーポイントを用いながら発表の練習を終えた後、担任教師は腕組みしながらううむと唸り、「いいな。内容も発表自体も。相当練習してきたろう。」と賛嘆したのである。
「はい。家で。リョウ……兄が見てくれました。」
担任は頻りに肯く。「後は、面接試験では専門的な質問があるかもしれないから、そこは調理部の顧問の先生に見てもらいなさい。一般的な質問に対しては今ので大丈夫だ。志望理由も、今まで尽力してきたことも、それから昨今読んだ本も、何の問題もない。それから声の大きさ、速さ、言葉も申し分ない。黒崎はあまりしゃべるのが得意ではないから心配だったが……、随分しっかり克服してきたな。凄いぞ。」
「ありがとうございます!」ミリアは身を乗り出して言った。「大学合格したら、台湾行くんです。」
「ほう。何だ。卒業旅行か何かか?」
ミリアは静かに首を横に振り、「ライブに行くんです。初めての海外公演なの。リョウ……兄と、それからお友達の、長年の夢だったの。」
「そうか!」担任は目を輝かせた。「それで必死んなって練習してきたんだな。頑張れ。……遂に黒崎も海外からお呼びがかかったかあ。こりゃ凄いぞ。サイン貰っておいてもいいか?」
「はい!」ミリアは目を輝かせながら肯く。
「でも合格発表の日……。」ミリアはみるみる顔を強張らせていく。「リョウの検査があるんです。もし再発してたら……どうしたらいいか、わからない。」顔を覆う。
「そうか。……確かにがんは発症してしばらくは再発の惧れがあると聞くな……。」
担任は眉根を寄せて腕組みをし、暫く考え込んだ。
「でもな、……お前が今から胸を痛めてたってしょうがない。それで結果が良くなる訳じゃなかろう。黒崎も、黒崎のお兄さんも、一度は二人して協力して乗り越えたんだ。これからどんなことがあったって、二人で家族として団結すれば乗り越えられるんじゃあないのか。」
担任はミリアの左手の薬指に嵌められたダイヤの指輪を眺めながら言った。
ユリやカイトから聞いたこともあったし、広く噂になっていたことでもあった。すなわち、ミリアは兄を異性として愛し、結婚のまねごとをしているということを。異性という身からあまり立ち入ったことは聞けなかったが、しかしそれが悪影響を与えているというのでもなさそうである。少なくとも三者面談で会った兄の印象は、容貌こそバンドマンそのものであったが、礼儀正しく妹の進学を真摯に考えるよき保護者であった。ミリアが心底慕っているというのも頷けるように、ミリアを何よりも大切に考えている風であった。
「先生、知ってるの?」ミリアは恥ずかし気にちら、ちら、と担任の目を見ながら言った。
「知ってるって、何を?」
「リョウと、……結婚してること。」
兄妹では結婚できないよ、と安易には言い出せないミリアの真剣さと純粋さがそこにはあった。
「……そうなのか。」ごくり、と生唾を飲み込む。
「本当には、結婚できませんけど。」ミリアは悪事を告白するかのように、再びちらと上目遣いで担任を見遣った。
「……そうだな。」
「でも……、好きなんです。」
「い、いいことだ。」
ミリアは目を瞬かせた。「いいこと?」
「まあ、あんまりな、先生も恋愛は得意な方ではないんだが。でも人を愛するってことは素晴らしいことだろう。色々な芸術の主題としても描かれている。美だ。まあ、とりわけ誰かを傷つけたりするのでなければ、愛というのは賛美されるべきものだろう。」
ミリアは安堵したように頬を緩め頷いた。そして微笑んだままじっと担任の顔を見詰めた。
「何だ。」幾分焦燥して答える。
「ありがとうございます。そう言ってくれて、嬉しい。」
「何で。当たり前じゃあないか。」
「でも、兄妹で好きになったりするのはおかしいから。日本だと、禁止だから。」ミリアは両手を摩り始める。「でもミリアは昔、小さい頃、パパにいっぱい蹴られたり殴られたり、……暴力、受けていて、いつもお腹も減らしてて、毎日辛くて辛くて仕方がなかったのを、リョウが助けてくれたんです。だからその時からリョウが大好きなの。ダメって言われても、ずっと好きなんです。」さすがに最後は照れくさくなってミリアはノートで顔を覆って言った。「だけど、傷つけなければいいって言ってくれて、嬉しかった。よかった。」紅潮した顔でぱっと立ち上がり、「リョウのためにも受験絶対受かるように、今から香西先生の所に行ってきます。ちゃんと専門的な発問の練習、してもらってきます。ありがとうございました!」
ミリアはそそくさとUSBを引っこ抜き、ノートを胸に抱き、ぺこりと頭を下げるとそのまま廊下を走って行った。
担任教師は暫く唖然としてミリアの後姿を眺めていたが、先ほどのやり取りを反芻し、ほっと安堵の溜め息を吐いた。