47
リョウは来週頭からギターレッスンを再開するべく、かつての教え子たちにメールを送り、退院の報告をした。すると日中であるにかかわらずすぐさま何通ものメールが次々と返ってきた。いずれも待ち望んでいたと、復帰を祈っていたと、決して世辞や儀礼ではなく、拙いながらも熱烈にそればかりを書き連ねるものばかりであった。
それに伴い早速来週からのレッスンは次々に埋まり、リョウはとりあえずほっと胸を撫でおろした。
もう十か月近く休んでいるのである。自分の存在など忘れられているのではないか、最早自分の鈍ったギターテクなど不要であると拒絶されるのではないかと、そんなことばかり考えていたのである。
しかしいつまでもミリアの稼ぎに頼っているのは、もう、どうしたって耐え難いというほとんどそれだけの思いで、リョウはかつての教え子に連絡を取った。その結果、自分の想像をはるかに超えるものであったことにリョウは己の僥倖を痛感せざるを得なかった。
となれば続いてリョウが胸を痛めるのはミリアのことである。
幾らモデルの仕事があるからといって、まだ高校生であるのに兄だか夫だか知らぬが、家族の治療費を全額出すというのは並大抵のことではない。しかしミリアは愚痴一つ溢さずそれをやり遂げたのである。--やり遂げた? その背後には事務所の社長の存在があったことをリョウははっとなって思い出す。こうはしておれない。リョウは慌てて携帯を繰り、社長秘書のアサミに電話を掛ける。たしか退院の報告はそうと決まった直後にミリアがしたようであるが、自分の口からは未だ何も言っていなかった。何という不義理、何という恩知らず。
リョウは頭を掻き掻きコールを待った。
「はい、榊田です。」
「ああ、アサミさん、俺です、黒崎亮司。あのですねえ……」たしかミリアは金を借りたことは内密であったとか、言っていた気もするがそれどころではない。「社長にお礼を言いたいんですよ、と言っても金は無し豪勢なご馳走とかはできないんですけれど、せめて……」そこまで言ってリョウは自分に何ができるのか、全く考えもせずに電話をしてしまったことに気付き口籠った。「その……会ってお礼を……。」
電話口でアサミはふっと噴き出した。「一体何のお礼です?」
「あのねえ!」リョウは片目を瞑って地団太踏む。「金貸してくれたでしょう。俺の入院費、それから諸々。そんでミリアのAV取りやめさせてもくれたでしょう。本当に、本当に、……ありがとうございました。」リョウは部屋の真ん中で深々と頭を垂れた。
「ああ、そのことですか……。」アサミは観念したように言った。「そんな大きなお金ではありませんし、ミリアさんのお給料からもう今月からかな……? とにかく返金して貰うことになっているんですよ。ですから全然こちらとしてはマイナスではないんです。ですからそんなにお気遣い頂くとかえってこちらが恐縮ですから……。」
「否、ですから、大変だった時に金貸してくれて、ありがとうございました。って、それを社長に言いたいんですよ。……俺は金がなくて治療ができなくて死ぬ分には、まだ我慢できるんです。でもね、あいつがAVなんか出たら俺は間違いなく発狂してましたよ。頭コンクリに打ち付けるか、他どんな間抜けな方法かはわからねえが、とにかく自殺モンですよ。そこをよくぞよくぞ、……思い留まらせてくれました。」
「だって!」アサミは再び噴き出す。「絶対ミリアさんには無理じゃないですか! 誰が見たってわかりますよ。そういう発想に至っただけでも、一体何があったんだという感じじゃないですか。」
「……たしかに。」リョウの脳裏には真っ先にミリアにアダルトサイトを教えたというカイトが思い浮かんだ。あいつが、ミリアにAVに出れば高収入が得られると吹き込んだのか? 否、そんなはずはない。おそらくお守りを買ってきたことに鑑みるに、カイトはまだミリアに恋慕の情を抱いている筈だから。
リョウはジーンズのポケットに捻じ込んでおいたお守りをするりと取り出し、改めてまじまじと見つめた。
「ですから、お礼なんていうのは、本当に結構です。社長もリョウさんが思ったよりも早く退院されて、結局金銭的な援助と言っても大したことではなかったのだから、リョウさんには内緒にって言ってたぐらいですもの。ね。」
「わ、かりました。」リョウは渋々肯いた。「でもとにかく社長にこうして無事に退院できましたって、来週からは仕事再開できますって、本当にミリアをAV思いとどまらせてくれたことは感謝してもしきれないって、それだけ、お伝えください。お忙しいでしょうからまた後日、……一気に全部返すっていうのはできねえと思うんですが、それでもまとまった金できたら一度お伺いしますから。その際には、是非、よろしく。」
「いいですよ、そんなことは。ミリアさんが返すって、言ってましたし。」
「ダメですってば。あいつにこれ以上負担掛けたくねえんですよ。俺のせいなんだから。」リョウの口調は自ずと厳しくなる。
「……でも社長も早く返してほしいなんて、全く思っていませんからね。ミリアさんのお給料から一割ずつ返して頂いて、という形でお話もまとまっていますし。そもそもうちは若いタレントも多いものですから、社員用の奨学金制度もあるんですよ。ですから本当にその範囲を広げただけというか、なんというか。とにかくお気になさらず。」
「本当にすいません。じゃあ、また連絡しますんで。金は俺が返します。」
と言ってリョウは電話を切ったものの暫くは茫然として動けなかった。ガラス窓に映った自分の顔はまだ酷く痩せ、目も何だか大きくぎょろりとしている。頬に手を当て、明らかにそこから肉が削げ落ちていることを感じる。自分は病人であり、そのためにミリアを苦しめざるを得なかったのだ、ということがまざまざと突き付けられる。深々と溜め息を吐いた。
どうしてミリアに報いたらいいものか、そもそも報えるものなのか、ぐだぐだと考えていても仕方がない、とは頭ではわかっていても考えれば考える程気持ちは落ち込んでいく。たとえばミリアが大病を発し、金が底を突いたたら自分は何をどこまで犠牲を払えるのであろうか。たとえばAV男優になると決意できるのだろうか。無理だ、と思う。それを平気で、――平気ではなかったのかもしれないが、何にせよ乗り越えた所にミリアの一種の凄みを感じる。自分が到達し得ない凄みを。
その時、「ただいまあ。」とミリアが荒々しく玄関の扉を開けリビングに飛び込んできた。
リョウは目を丸くしてその姿を見守る。
走って帰って来たのであろうか、額に汗を浮かべ息切らせながら、「ただいま! ね、おかえりって、言って、くれないの?」と言った。
「……おかえり、なさい。」
「きゃあ。」ミリアは鞄を床にぶん投げてリョウに抱き付く。
「今日はね、先生と面接の練習してきたの。今度は発表の資料作るの。ね、だからパソコン貸して。」
「あ、ああ。」リョウは慌ててパソコンを立ち上げた。
「どうしたの、何やってたの、リョウ、元気?」ミリアはリョウの両腕を引っ掴みぶらぶらさせながら、矢継ぎ早に質問する。
「来週からレッスン始めようと思って、その連絡とか……、あとお前、借金返すのに今月から給料天引きなんのか。」
ミリアの腕が止まった。
「アサミさんから聞いたぞ。俺のためにそんなことになってんのか。」
「その……社長にお金、返さないと悪いと思って。いいって言われたんだけど。」
「俺が返すから。」リョウはそう言ってミリアを抱き締める。「レッスンじゃ追いつかなきゃ、今この頭なら結構どんな仕事でもできると思うから、なんでもやるよ。だから、もう、俺の心配はすんな。てめえの心配だけ……」
「リョウを心配するのはミリアの特権でしょう。」ふふ、と笑ってミリアはリョウの手を取り勝手にくるくると躍り出す。
リョウもどこかで聞いたセリフに苦笑を漏らす。ミリアはすらり、と腕をリョウの腕の中から引き抜くと制服を脱ぎ捨て、ベッドの脇でTシャツを着、ジーンズを履いた。そしてパソコンを振り返って、「ねえねえ。パソコン、パワーポイントっていうのにして。」と甘える。
「はいはい。」リョウはマウスをクリックしながら、ミリアの言葉に応じる。
「そんでこれ、どうすれば入るの。」ミリアはすたすたとリョウの真後ろからパソコンを覗き込み、ノートをキーボードの上にどさりと置いた。
「……お前。」リョウは顔を顰めた。「……まさかとは思うが、ノートを勝手にパソコンが吸収でもしてくれると、思ってやがんのか。」
「違うの?」あっけらかんとミリアは笑う。「曲作れるのに?」
「阿呆か!」リョウは怒鳴った。「曲だって一音一音俺が入れてんの! 俺が! この前に座りゃあ勝手に脳みそで鳴ってる音を音符にしてくれんじゃねえの! そんな都合のいい機械ドラえもんだって出せるか!」
ミリアはさすがにしゅんとなって背を丸める。
「じゃ……、どうすればいいのよう。」
リョウはこの時点で既に同情を禁じ得ない。
「それはな、キーボードで文字を一つ一つ打っていくの。図とか写真を入れるところはこっちの、これ、プリンターで読み込むの。」
「……だから、来週まででいいって言ってたのかあ。」と誰へともなく呟いた。
リョウは暫くミリアの顔を見詰める。小さい頃からギターばかり弾かせ、偏った自分の趣味を追うように知識も技量も偏波な少女。ミリアは自分の鏡である。ミリアだけを責め立てることはできない。
「……わかった。俺が、来週までに作っておいてやる。」
ミリアは目をぱちくりと瞬かせた。「本当に?」
「ああ、このまんまで作っておきゃあいいの?」できるだけぞんざいに言い放つ。
「あのねあのね、10ページぐらいにしてほしいの。全部は入れられないの。だからね、大事な所だけなんだけど、どこが大事かなあ。」
「へえ。」
リョウはそう言ってペラペラとノートを捲る。そして全て見覚えのある料理ばかりなのに思わず瞠目した。そしてそれは料理ばかりではない。いちいち自分の当時の病状や反応が併記されているのである。熱は何度、顔色はどうだ、医師から言われた事柄、全て。リョウは生唾を飲み込む。
ページを捲っていくうちに、何故だかメインのメニューが消え、スープばかりのページが続いていく。自分が無菌室で何も食えなくなり、骨と皮ばかりになった時舐めたスープが、何種類も書かれていた。口内炎だから刺激のないもの、吐き気がしているからすっきりするもの、これは二舐めしてくれた。これはコップ半分も飲んでくれた。今日はちょっと笑ってくれた、今日は辛そう。液体ばかりのを、吐いた。リョウは目頭が熱くなるのを、頻りに瞬きしてどうにか堪えた。
「まあ、……適当に作っておいてやるよ。そんで先生にダメ出し喰ったら、またやり直せばいいし。」
リョウはミリアから視線を外す。
「ありがとう!」ミリアは後ろからリョウを抱き締めた。無論まだ背中は骨ばっていてごつごつしていた。しかしミリアにとっては世界一心地の良い、愛すべき背中であった。