46
翌朝ミリアは学校へ向かう途中、たまたま校門の手前で背を丸くしながら登校するカイトを発見した。
「カイト。」ミリアはにっこりと微笑んでカイトの目の前に身を翻す。
「おはよう。」カイトはそう言って旭日とはまた違った眩さに目を細めた。「元気そうだね。」そう言うカイトの手元には使い込まれた英単語帳が開かれていたが、すぐにそれを鞄の中へとしまい込む。
二人は並んで昇降口へとグランドを横切って歩き出した。
「そうなの。毎日美味しいご飯食べてぐっすり眠っていますから。」ミリアは昨日のリョウが作ってくれた夕食を思い出し、ふふ、と思わず笑みを溢す。しかしまじまじとカイトの横顔を見詰める内に、何だかいつもとは違っていることに気付いた。「カイト、元気ないの? 何かあった?」と眉根を寄せた。
「何もないよ。……ただ、」苦笑を浮かべ「睡眠時間がなかなか取れなくて。センター試験まであと半年だろう? たった六か月で何ができるか、焦っちゃってなかなか寝付けないんだよ。」
「寝ないとダメでしょう。」ミリアは詰るように言う。
「わかってはいるんだけどね、いざ布団に入って目を瞑ろうとすると、単語覚えきったか、とか公式ちゃんと使えるかとか、色々不安になってきて……。でもミリアは元気になってよかった。お兄さんも無事退院して。」
「そうなの。カイトがお守りくれたでしょう。毎日肌身離さず持たしてあんの。そんだから大丈夫なの。お礼しなきゃって言ってるよ。」
カイトは俯き、「そんな、お礼だなんて……。」と呟く。一度は感情的になってミリアのことで偉そうな口を利いた身である。それから映画に三人で行くという、今考えても相当な珍事を成し遂げたが、今はできることなら顔を合わせたくはなかった。お互いに病後、受験前と、ナーバスになっている時期であろうことに鑑みるに、一層。
「でも、カイトが大学合格してからだねえ。」
「合格かあ。まだまだ遠いな。この間の模試でやっとC判定だったし……。」と苦笑いし、「ミリアは志望校決まってんの?」と尋ねた。それはカイトが長らく聞きたいと願っていたことであった。
「うん。栄養とお料理を勉強するの。女子大よ。」
カイトは女子大、という単語に思わず飛び上がらんばかりに歓喜した。男と席を並べることがない、男とゼミで話し合いをすることもない。それはこの上なく素晴らしい案に思われた。
「……へえ。」とカイトは生唾を飲み込むと同時に、どうにか膨れ上がろうとする歓喜を収め切る。「伊達に、あれだ。……調理部に小学生の頃から入ってた訳じゃないね。」
「うん。お料理は好きなの。」それをいつか自分も口にしてみたいなどとカイトは思う。調理部の練習で食べたことは幾度もあれど、ミリアが台所に立って一から考案し作り出した料理はまた格別であろうな、と思うのである。
「そんでね、先生がね、せっかく今まで料理一生懸命やってきたんだから、とにかく全身全霊AO入試に掛けて面接とプレゼンテーション練習してみろって。一般受験よりもそっちの方が勝算、あるって。そんで今日から練習始まるの……。はあ、できるかなあ。」ミリアは不安そうに瞬きを繰り返す。
「へえ、そりゃあ頑張って。準備しっかりやれば大丈夫だよ。」
「そう。だからいっぱい本読んだよ。料理の本、栄養の本。ユリちゃんに借りて、色々。でも英語とか国語とかよりも料理の勉強のが合ってるみたい。どういう風にすれば体にいいのかなとか、どういう風にすれば美味しく食べてもらえるかなとか、そういうの考えるとワクワクするし。」
「凄いねえ。」カイトは全く自分とは異なる方向性にひたすら感嘆する。
「でもカイトは高校入学した時から、毎日真面目にコツコツ勉強してたもんねえ。国公立行くって言って。そんで今は一番の進学クラスになったし、カイトが一番偉いよねえ。」
「……俺は、他にできることないから。」カイトは寂し気に呟いた。
自分はギターはおろか楽器一つ弾ける訳でもなし、調理部だってミリアやユリと一緒に騒ぎたくて入ったようなもので、無論自宅で料理をすることなんぞ一度もなく、毎日母親の作った食事を当たり前の如くに食べているし、ましてや容姿端麗な訳もなくモデルなんてどう逆立ちしたってできやしない。その点ミリアは勉強こそ少々不得手かもしれないが、既に専門的な知識を得、将来社会で生き抜いていく力は既に備わっているような気がする。大体この美貌さえあれば、どんな男だって捕まえることができるんじゃあないか、そんなことを思いなしカイトは溜め息を吐いた。
「そんだけ毎日勉強できたら、何だってできるわよう。」ミリアはそう言って教科書だの参考書で膨れ上がった鞄を指差した。
「その勉強がなあ。……志望校にはまだまだ届かないんだよなあ。」
「大丈夫よ、カイトなら。」ミリアは何の根拠もないはずだのに、飛び切りの笑顔を見せてカイトに確信を植え付けた。
昇降口を入ると二人は別々の教室へと向かっていく。カイトはゆっくり上靴を取り出すふりをしてミリアが元気いっぱいに廊下を歩いていく後姿を見守った。
今まで毎回第一志望欄に書いていたとはいえ、自分がT大学に通うなんてどこか夢物語だと思っていたのに、ミリアの今の笑顔を見た瞬間、不意に自分が四月にはスーツ姿でT大学の正門を入り並木道を歩いているに相違ないと思った。そんな思い込みをしている自分がおかしくてならず、カイトは咳込むようにして笑った。
ミリアはまだ人気もまばらな教室でノートを開いた。そこには細かな字でびっしりと料理の栄養素について説明が書かれている。AO入試に向けてミリアが学校の休み時間や放課後を使ってまとめたものだ。家ではギターを弾かなければならない。ライブは近く迫ってきているのだ。だからこそ朝少し早く登校したり、あるいは休み時間、放課後と空き時間を活用しながらミリアは大学受験の準備を行った。
リョウが入院していた頃から丹念に書き溜めたノートには、がんに効く料理が半年分記載されている。無論その中には重複するメニューもあるが、分量は多い。これらをパソコンに入力し資料を作成し、更にそれらをしっかりと暗記して面接、プレゼンテーションに臨まなければならない。そうしてうまく秋の内に合格を貰えれば一月からは登校しなくて済むのだし、そうすればライブも予定も週末限定ではなく、いつだって入れられる。もしかするとリョウが懇願している海外のライブにだって行けるかもしれない。もういつまでも高校生だからとリョウに配慮させる必要はないのだ。
そう考えると一般入試で二、三月まで結果を引き延ばすよりは秋で結果が出るAO入試はすこぶる自分に合っているような気がした。
ミリアは気合を入れて再びノートを睨むように読みながら、重要な点をマーカーで引き、小声で呟きながら勉強を始めた。
「ミリア、おはよう。あ、練習今日から?」とユリが教室に入るなり口早に話しかけてくる。
「そうなの。」ミリアは不安げにユリを見上げる。「まだ覚えきってないから、ちょっと心配。」
「大丈夫。私昨日先生と一対一で練習さしてもらったけど、結構時間も余裕だったし、ま、人間と同じで中身が薄いって言われたけどね。あははは!」
ユリはそう言って自分のノートを取り出す。ユリはファッションを学ぶのだと言って民族衣装ばかりを切り貼りしたノートを持ち歩いている。そうして今は面接で披露する浴衣を作成中なのだという。
「せっかくファッション誌出てる、ファッションのプロのミリアに手伝ってもらおうと思ったのに、ミリア全然わかんないっていうんだもん。」
「だって……。」ミリアは口をとがらせる。「いつも現場に用意されたお洋服着るだけなんだもの。ひとっつも選んでないんだもの。」
「あれは? 私物紹介みたいなコーナー。」
「あれもミリアは用意してもらってる。他の人はちゃんと自分のだけど。」
ユリは目を丸くする。たしかにミリアのファッションセンスやら持ち物のセンスやらを賛美したくなったことは一度もなく、そればかりか休日遊びに行くのに得体の知れぬ禍々しいバンドTシャツでやって来た時には、思わず絶句してしまったこともあった程だ。
「まあ、とにかく! 合格勝ち取るために頑張っていこうよ。そしたらさあ、どっか遊びにでもいこう。」
「そうね。」ミリアはにっこりと微笑む。「頑張らないとねえ。今もねえ、ユリちゃんに借りてる本、すっごい勉強になってる。リョウ退院したけど、もうちょっと貸してね。」
「ああ、あれ。」とユリは微笑む。「もうおじさん元気いっぱいだし、がんに効く料理の本なんてもういらないっておばさん言ってたよ。だからあんたに全部あげるよ。」
「ええ、本当に! あんなにいっぱい?」
「下手にあんなもん返されて、おじさんまたがん再発しちゃったら、困るし。」
ふふ、とミリアは笑って「ありがと。あれほとんど全部作ったのよ。それを今ね、ノートにまとめて、ほら、こうやって暗記してる所なの。」
「へえええ。」ユリはまじまじとミリアのノートを覗き込む。「役に立ったんならよかった。あの時ミリア、死にそうな顔してたから。最近は、元気になったね。」
「そうよう。」ミリアは両手で頬を覆いながら「だってリョウがおうちに帰って来たんだもん。昨日はご飯作って待っててくれて。リョウのご飯は世界一美味しいの。ふふふ。」満面の笑みを浮かべる。
「そうだったそうだった。あんたには夫がいたんだった。……なんか、忘れちゃいがちだけど。」ユリは半ば呆れた顔でミリアを見詰める。
「さっさと大学合格して、今度はね、海外でライブやるの。」
「何それ。」ユリは身を乗り出す。
「そうなの。だってリョウが言ってたもん。これからは海外にも出てくって。海外フェスの参加依頼は今までにももう何回か来てたみたいなの。でもミリアが学校あるでしょう。だから全部お断りしてたって。でも大学決まれば来年から自由登校だし、もうそういうお話を受けられるっていうの。楽しみ!」
「凄いねえ。……なんか普段接してると全然凄い気はしないんだけど、……よく聞くとミリアって、凄いよねえ。」
「ミリアは全然凄くないよ。リョウが好きなだけの。リョウがギターを弾いてたからミリアもギターを始めただけだから。リョウがもし、スノーボーダーだったらミリアも雪山を滑りまくってるし、ゴルファーだったらミリアもぼかすか球を打ちまくってるところだったわ。」
ユリは唖然としながらミリアを見下ろす。その時チャイムが鳴り、担任が教室に入って来る。ユリは慌てて着席した。