44
「来月末、ライブやらせてくれるってよ。」とシュンが電話を寄越したのはその晩のことであった。
「マジか。」リョウは思わず椅子から立ち上がり、信じられないとばかりに部屋の中をうろうろとし出した。ソファに座ってミリアが弾いていたギターのヘッドに右足をぶつけ、イタタ、とびっこをひきながら、しかし声は朗々とライブの詳細について尋ねていく。
「早くねえか? 一体どこにそんな急に予定ぶっ込めたつうんだよ。」
リョウは歓喜と困惑の入り混じった顔で早足に歩き回っていたが、立ち止まって叫んだ。「何ぃっ!」
その大声にミリアは思わずびくり、と身を震わせる。
「ユウヤか、ユウヤが入れてくれたんか!」
「ユウヤ?」ミリアはぱっとリョウを見上げた。
「マジかよ、レコ発ワンマン予定の所にか……。ユウヤ、お前はどこまでいい奴なんだ。あいつは大馬鹿だったミリアを高校生にもしてくれたんだぞ?」
ミリアは眉を顰め、大馬鹿? と復唱する。
「そんでどこでどこで。……聖地? さすが俺の故郷! 俺が死んだら聖地に骨埋めてくれよな!」
ミリアは顔を顰めてリョウを見上げる。
「死んじゃダメ!」
「わかってるわかってる。」とミリアに向かって笑顔で肯く。「そうか、あいつそんなに俺らのことを押してくれたんか。マジでいい奴過ぎるな。」
「じゃあ早速告知してくれ。Last Rebellion完全復活ライブだって銘打ってな。俺が本物の地獄を覗き込んできた、その成果をステージにぶち上げてやるってな。」と言ってガッツポーズを取った。
「張り紙? 抗がん剤治療してたので、髪はありませんってかあ? ……ま、なんでもいいけど、精鋭たちならわかってくれんだろ。長ぇ付き合いだしな。つうかそれよか新曲だよ新曲。今回は凄ぇぞ。俺の曲だが俺の曲じゃねえ。何、もうすぐできっからさ、来週頭にもデータ送るわ。そしたらスタジオ押さえて……。ああ、再出発だ! 声の調子もだいぶ上がって来たしな! 明日はスタジオ入って歌入れやってくるわ。曲に、命を、吹き込む!」
電話を切るなり、ミリアは「ライブ、ユウヤとやるのね!」と飛び上がった。
「ああ、速攻決まってビックリだよな!」リョウはミリアとハイタッチを交わす。「ユウヤが自分のレコ発でワンマンでやる所に、無理やり入れてくれたらしいぞ! 俺はユウヤに何をしてやったらいいんだ? 何もできねえのに、あいつは俺の復活を一刻も早く見てえっつってな、メンバーとライブハウスに掛け合って、俺らを入れてくれたらしい。ああ、俺はまたあそこへ戻っていけるんだ! 俺の生まれ故郷であり死に場所に!」
「死なないで。」ミリアは真剣な眼差しで請うた。
「たりめえだろ、当分死ぬつもりはねえよ。」リョウは微笑む。「お前とツインギター弾きてえばっかりに、俺はNORTHERN HELLから生還してきたんだからよお。」
「リョウ!」ミリアは感極まってリョウに抱き付く。
「あ。とすりゃあ、もう一秒たりとも猶予はできん。曲作りやんねえと。」
「新曲ね。」
「これが仕上がんねえと、俺は何のために病気になったのかっつう話だ。お前のことも犠牲にして、追い詰めて、何も得るものありませんでしたじゃ、お前と精鋭たちに愛想つかされても何も文句言えねえしな。」
「愛想つかないわ。」ミリアは真剣な眼差しで抗議をした。
リョウは唇の端だけを持ち上げて微かに笑んだ。
そうして早速パソコンに向き合い、曲作りに没頭し出す。ミリアもその下でソファに座りながらギターを弾き始めた。こういう日常をどれだけ求めただろうとミリアは不意に目頭が熱くなるのを覚えた。これからしばらくは再発の可能性があろうとも、絶対にリョウを喪ってなるものかと、決意にも似た思いが沸々と沸き起こって来るのであった。
リョウはそれから三日部屋に籠って、ようやく新曲を仕上げた。その間スタジオにも入り、久々にデスボイスを発しその具合に自身もだいぶ満足がいったようであった。
「俺は不死身かもしれねえぞ、ミリア!」
ミリアが学校から帰るなり、そう意気揚々と言い放つ。
「不死身? 不死身って死なないことね! 凄いわ、リョウ!」ミリアはどさっと鞄を投げ捨て、パソコンの前に座るリョウの両手を取って、踊り出す。
「今回の新曲はな……」こっそりと耳打ちをするように、「完璧、俺ががんにならなかったら書けなかった曲だ。ミリア、俺はこの曲を書くためにあの体験をしたんだよ。はっきり、それが理解できた。」と言った。
きゃー、とミリアは感極まった声を上げながらそのままリョウを立たせ、くるくると回る。チェックの制服のスカートがひらひらと舞った。
「お前には散々迷惑かけて追い詰めて、マジで返しきれねえぐれえの恩義を貰ったが、こういうやり方でしか返していくこともできねえんだ。……ごめんな。」
「迷惑じゃあないわ。妻だもの。それに大好物はリョウの新曲だもの!」ミリアは更にくるくる回り続けるのを、リョウが抱き締めて動きを止めてやる。
「……目ぇ、回った。」げんなりしながらミリアは呟いた。
「回ったじゃねえよ。」ふらふらとよろめくミリアを叱咤し、「あとちっと音入れて完成だから。そしたら久しぶりのライブだ。お前も気合入れて練習しろよ。病気が治って良かったですね、おしまい、なんつう生っちょろいライブになったら俺はマジで俺を許さん、激昂する。」と言って眉根に皺を寄せた。
「ミリアだって、ミリアだって」負けじとミリアも早口に喋りかける。「今回リョウがいなくなっちゃうかもしれないっていう絶望を初めて知ったんだわ。あのね、幸せをもともと知らないのと、知ってからなくなっちゃうっていうのは全然違うの。リョウにいっぱい幸せをもらっておいて、そんでそれがなくなるのは、もう、地獄なの。耐えらんないの。そういうことを、ミリアも知りました。」
「……そうか。」真顔でリョウは肯く。
たしかにミリアも辛い思いをしてきたのだ、とリョウはまじまじとミリアの顔を真正面から見据えた。顔色悪く、酷く痩せたこともあった。AV女優になるのだと勝手に決意したことも。それにこの九か月間、始終泣き顔ばかり見せられていた気もする。
リョウはしっかとミリアを抱き締める。「……辛い思いさせたな。」
ミリアは目を瞑って満身にリョウの肉体を感じる。
「でも俺らはいつだってそういう地獄を糧にして生きてきた。そういう強さが俺らの血の中には流れてんだ。だからこれからもどんな苦しいことがあっても、大丈夫。乗り越えればもっともっと凄い景色が待ってる。俺らにはそれを悠々と見下ろせる強さがある。」
ミリアは目を瞑ったまま、肯いた。
それからリョウは再び曲作りに没頭し出し、隣でミリアはギターを弾き始める。時折ミリアはリョウの背中を見上げる。ぴん、と伸びて何やらカチャカチャとデータを更新している時と、顎を手に乗せたままだらりと曲がっている時がある。その双方をミリアはとてつもなく愛している。
「できた。」という微かな呟きをミリアが聞き逃さなかったのは、常にリョウの傍にいてギターを弾き続けていたからに他ならない。
ミリアは颯爽と立ち上がり、パソコンの画面を凝視した。リョウはふう、と溜め息を吐いてヘッドフォンを外す。
「なんて曲?」
「『Blind Night Sorrow』。盲目の夜の悲しみ、っつう感じ。」
マウスをクリックするとすぐさま曲は流れ出した。
扇情的なリフが怒涛のように始まる。
それはかつての曲とは明らかに違っていた。何が違うのか、ミリアは暫く考え、強靭さと闘争心の中に一種の弱さが前提として含まれていることに気付いた。リョウは今までそんな曲は絶対に作らなかった。いつだってあたかも百獣の王の如く、絶望も悲痛も全てを圧倒的に乗り越える強さを主題としていた。こんな曲を出していいものなのか、ミリアはぶるぶると背筋の震え出すのを感じた。
リョウはそれを察知して、しかし不敵な笑みを浮かべたままミリアの背を撫でてやる。
ミリアはリフが展開するにつれ、自ずと拳に力が入っていった。
リョウは死を見たのだ。あらゆる生物が打ち克つことのできない、死を。しかしそれを前にしたリョウは決して敗北感に苛まれている訳ではなかった。むしろ死さえもやがて悠々と越え行く、そういう自由の境地が次のリフには示されていた。それにミリアは突き動かされるような衝動的な感動を覚えた。
今までだって、リョウの曲は興奮と期待とを無限に覚えさせてくれたけれど、これは、まるで違っていた。自由さが、柔軟さが、最大の強さとなり得るのだと語っていた。悲しみはだから、夜の内に終わる。朝が来れば悲しみは霧散していく。
ミリアはそれに気づいてはっとなった。
そうしてこれを自分が弾くのだと思いなして、ミリアは緊張感を覚えながらじっと音の一つ一つに集中した。この曲からリョウは何を表現したがっているのか、機械的な音の羅列からその奥にあるものを聴取しないでは、音を単に取っただけでは、ギターを弾き始めることはできない。しかもリョウはいつもそんなことは決して言葉にはしない。隣で黙って、心地よさそうな疲弊感を漂わせながら、曲を一緒に聴いているだけなのである。
リフが終わり、ソロに入る。それはあまりに劇的で、ミリアは息ができなくなった。リョウはどうした、とでも言わんばかりに微笑みを湛えたまま、優しくミリアを見下ろす。ミリアは再び音に専念する。たった一人、五感も喪失し心の声だけが生きる世界で死という完全なる未知の大穴に吸い込まれていこうとする、その感覚が厭という程に籠められていた。
ふとその瞬間ミリアは自己の役割をはっきりと見出した。傍にいる、ここにいる、そう伝えればいいのだ。
安堵の溜め息を漏らした瞬間、曲は終焉へと収束していった。
静寂が訪れた。
「……どう?」いつまでも言葉を発しないミリアにリョウが不審げに尋ねた。
ミリアは暫く茫然としていたが、眼を瞬かせ、「最後ね。最後なんだけど……、ミリアはいつもリョウの傍にいます。だからひとりぽっちで穴の中に落ちていかない。」ときっぱりと言った。「最後のソロはリョウでいい。でもリフはミリアが弾く。リョウをそんで支えてあげる。いつまでも。」
ミリアの肩は細かく震えていた。曲の持つ残忍さを、孤独感を、ミリアが一人で全て請け負っているような気がした。どうしてこんな少女が自分の曲を正確に解するであろうと、リョウは驚嘆する。
「お前ってさ、……俺の曲を俺以上に理解するよな。」
ミリアは不審げにリョウを見上げる。
「俺はお前に理解されたくて曲作ってんのかなあ。なんかそんな気もしてきた。」
リョウは手を伸ばし、テーブルの上に置いていた冷めたコーヒーを呷った。
「じゃあ、あいつらに送ってやっか。今度のスタジオでしっかりやり込んでいかねえと次のライブで間に合わなくなっちまうからな。」
ミリアは目を閉じてリョウを真横から無理やりに抱き締めた。
「ミリアは絶対リョウのこと、ひとりぽっちにしない。ずっと一番傍にいる。」
リョウはふっと鼻で笑うとミリアの頭をぐしゃぐしゃに撫でまわした。「そりゃどうも。」