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ミリアはリョウの入院前も後も、長らく、スーパーでは目を皿のようにして半額シールを探すのをほとんど己の義務としていたものの、そんなことも今日はお祝いだとばかりにかなぐり捨て、シュンとアキに一つずつ買い物籠を持たせ、それぞれが溢れ返るまで食料品を買い込んだ。
車の荷物置き場をいっぱいにしながら自宅に到着すると「おお、俺のドラッグスター400!」と感極まった声を出してリョウはバイクに縋り付いた。
「なんか、……綺麗じゃねえか?」その光沢に触れながらリョウは呟いた。
「だってミリアが洗車しておいてんですもの。リョウが戻って来た時にね、すぐブーンって走り出せるように。」
リョウは「マジかあ。」と頭を抱え、その直後ミリアを抱き締めた。ミリアはリョウの腕の中でうっとりと目を閉じる。ふふ、と笑い声を漏らした。
早速二階の自宅へ上がると、ミリアはいつもにも増して、ちらし寿司にお吸い物、それからリョウの好物である豚の角煮とカレー味の肉じゃがを作るのだと腕まくりして勢い込んだ。
その後に続いて家に入ったシュンとアキは部屋の壁から大切な物々がすっかり姿を消していることに気付いて、驚嘆の声を上げた。
「おい、ギター!」
「ギター売っ払ったんか!」
リョウは笑顔でソファに座り込む。「ああ、やっぱ家はいいよなあ。落ち着く。病院の消毒くせえ空気とは、違うんだよなあ。」
「おい、それよりギター! ギターどうした! リョウ!」シュンがリョウの目の前に歩み寄り、凄んだ。
「ああ。……売ったよ。」リョウは伸びをしながら満足そうに答えた。
「だって、あれ、METALLICAの限定エクスプローラーとかあったじゃねえか!」アキも血相を変え、いまだ信じられないとばかりに部屋を見渡す。
「ああ、あれな。いい金になったよ。お蔭で手術もできた。さすが世界最高峰のビッグバンドMETALLICAだよな。そりゃあクビんなった大佐も嫉妬に駆られて『Angry Again』とか歌うわ。あはは。」
「うわああ、もったいねえ。あれ、シリアルナンバー入りの限定品だろ? もう手に入んねえんじゃねえ? 何だよ、言えよ。金ぐれえ貸してやったのによお。」シュンが頭を抱え出す。
「マジか、早く言ってくれよー。」リョウはそう言いながらくつくつと笑い出す。「金がねえばっかりに、ミリアがどんな暴挙に出たか知ってんのか。」
「言わないで!」ミリアは台所から包丁を振り上げて怒鳴った。「リョウ、言っちゃダメ!」
「何だよ、何だよ。」シュンはリョウとミリアの顔を交互に眺めた。
「それはそれはとんでもねえ騒ぎんなった。俺なんかなあ、それを知った時点滴チューブに血が逆流したぐれえだ。」
「そりゃ、……凄ぇな。」シュンが顔を顰める。
「で、ミリア何やらかした?」アキがソファに仰け反りながら尋ねる。
ミリアは諦めたように背を丸めて、何やら野菜を切り刻むのに没頭し始めた。それを言っても構わない、という風に解釈したリョウは、小声で、「あいつな、自分の事務所にAV出せって乗り込んだんだ。」
アキは激しく咳き込み、シュンは体を硬直させた。
「そんで契約金とっとと寄越せってな。」
「……は? はあ?」ようやく人間らしさを取り戻したシュンが叫んだ。アキが慌てて台所に駆け寄る。「あの、お前……知ってんのか? AV女優って。つまり、その、……何やるか。」
ミリアはちょうど電子ジャーから米をあけた所で、一瞬真っ白な蒸気の中に見えなくなった。
「知ってるもん! 知らなくって言いやしないわよう!」
アキは唖然としながらも、「……そうか、知って、んのか。」と腑に落ちぬとばかりしかし肯く。
「カイトにサイトを教えてもらったんだもん。それでちゃあんと、観たんだもん。」
これにはさすがのリョウも瞠目せざるを得ない。「マ、マジか!」
シュンとアキの脳裏にも、あの、純粋にミリアに好意を寄せている生真面目そうな男子高校生が同時に思い浮かび、一体どういう顔をして好きな女子にエロサイトを教えたのかと頭を抱えた。無論恥知らず、という人間でもなさそうである。だとすれば恥も外聞もなく、ミリアの要望にこたえたいと、それだけを願ったのであろうか。形はとんでもないが、それも愛、なのかもしれないと二人は溜め息を吐いた。
ミリアはやけになって全身使って飯を混ぜ始める。「だって、だって、しょうがないじゃないのよう! お金ないんだし、リョウがいつ治るかもわかんなかったんだからあ!」
「そうそう、ミリアを責めちゃいかん。」シュンが肯き肯き言った。「ミリアは、いい子だ。ただ、……馬鹿なだけだ。」最後だけはさすがに小声で言う。
「でも、お前、それ観て本気で自分ができるって思ったのか。」アキが台所に向かって首を伸ばし、恐る恐る問うた。
ミリアはぶんぶんと激しく首を横に振った。「ゲロ出ちゃう。泣いちゃう。って思った。」
「で、マネージャーがてめえには無理だっつって、説得してくれたのか。」アキが続ける。
「ううん。社長が来て、ミリアは性的関心がないし、胸がペタンコだからダメって言われた。」
シュンが二の腕に口を押し付けて必死に笑いを堪える。どうにか収まると、「……で、どうしたのよ? 金は。」と尋ねた。
「社長が貸してくれたの。でも、これは内緒ね。社長がリョウと軽口叩き合えなくなるから、内緒って言ってたの。」
「お前、早速ばらしてんじゃねえか!」シュンが立ち上がって怒鳴った。
ミリアはひととおり飯に具を混ぜ終えると、大皿に盛り飾りを乗せ、乗せ、「だって、つい、うっかり、言っちゃったんだもん。しょうがないんだもん。リョウに内緒ごとするのって、むつかしいんだもん。」と呟いた。
「でも社長イケメンじゃねえか。普通そこまでするか? いい人過ぎんだろ。それともこいつで、そんなにこれから金儲けできるって見込んでんのか?」アキがそう言って首を傾げる。
「デスメタルギタリストファッションモデルって、どっかに需要あるか?」シュンも頭を捻った。
「社長は、売れる売れねえで判断してんじゃねえだろ。結構マジでイケメンなんだよ、あのお人は。」リョウの脳裏には、ミリアと母親との間でトラブルが生じた時弁護士を手配してくれたこと、ミリアが精神的に危うくなった時入寮をさせてくれたこと等、あらゆる面において手を貸してくれたことが次々に思い浮かぶ。
ミリアもふと手を止めて、桜でんぶにイクラの鮮やかなちらし寿司をぼうっと眺めた。「社長はね、家賃払えなかったらただで寮に入ってもいいよって、言ってくれたんだけど、おうちでリョウを待つからって言って断ったの。でもそれから色々心配してくれて。アサミさん撮影の現場に来て、パンとかお菓子とか、果物とか、いっぱいいっぱいくれて、社長もお食事券くれたりご飯連れてってくれたりしたし。そんでちょっと肉付いて来た。」
そうだったのか、とリョウはがくりと頭を下げる。確かに昨今ミリアの顔色が良くなってきたように、感じていた所ではあった。一時は痩せ、顔色も悪いようであったが、抗がん剤治療で自身の生死も危ぶまれる状況ではそれをどうしてやることもできなかったのである。
しかしその恩義にどうやって報いていったらいいのか。金銭的にも人脈的にもリョウは即座に到底不可能であることを思い知り、己の無力感に深々と溜め息を吐いた。
「そんな大変だったのかあ、ミリア!」シュンがよろよろと台所のミリアに接近し、そのまま抱き締めた。「俺にも言ってくれよお。まあ、社長とは比べモノになんねえぐれえ貧乏だけどよお。日雇い増やすぐれえ、するからよお!」
リョウも空の一点を見詰めながら何やら考え事をしていたが、ふと焦点を定め直すと、「そうだ。俺、曲作るんだった。」と呟いた。
「早すぎんだろ。今日帰って来たばかりだぞ? もうちっとゆっくりしてろよ。」アキが忠告する。
「違ぇんだよ。手術中に凄ぇフレーズが思い浮かんだんだよ。キラーチューンの予感がバリバリすんの。だからこれをひとまず曲にして、世界への架け橋の第一歩にしようと思ってな。そう思ったからこそ、三途の川からUターンして来たんだよ。」
「リョウ、三途の川見たの?」ミリアが驚いてリョウを見た。
「キレイな花がいっぱい咲いててなあ、そこに川が流れてて、そこを渡っていこうとすると、死んだばあちゃんが川の向こうから、『まだこっちに来ちゃいけねえ』っつってな。」
ミリアが包丁を置いて悲鳴を上げた。
「……嘘だよ。ばあちゃんなんざ知らねえよ。」リョウに呆れられ、ミリアは瞬きを繰り返した。
「まあ、とにかくあの衝撃をだな、曲にしねえことには死にきれねえ。」そう言ってリョウは立ち上がり今しがた持って帰って来たばかりのJacksonVをケースから取り出し、ギターを爪弾き始めた。
ミリアも料理を完成させ、「できた」と歓声を上げると、シュンとアキが待ち切れないとばかりに台所にやってきて、同じく感嘆の声を上げ、次々にそれらをテーブルに並べていく。みるみるちらし寿司を中心に華やかな食卓が完成した。
シュンが買って来たペットボトルのジュースを注いでやり、それぞれのグラスを満たすと「リョウ、退院おめでとー!」というシュンの言葉を皮切りに、乾杯をし合った。
「ミリアもよく頑張った。」グラスを鳴らすついでにそのままシュンはミリアの頭を撫でてやる。「さすが、妻だ。」
「あとは復活ライブをいつにするか、だな。」アキがにやりと笑んで、箸を割り肉じゃがを頬張る。そしてそのあまりの旨さに目を丸くする。
「新曲やっから。」当然の如くリョウが言ったので、ちらし寿司を頬張ったシュンが咳き込んだ。「マジかよ!」
「たーだ寝腐ってたって思われたら癪じゃねえか。ちったあ身のあることも、してましたよって証明しねえとな。精鋭たちを落胆させたくはねえんだよ。」
「ミリア、ギターの練習しないと……。」
ミリアがどこぞ寂し気に呟き、シュンが目を剥いた。「何お前、ギター弾いてねえの?」
「実は……。」しょんぼりと頷く。
「なあにやってんだよ。リョウ、よそ様のレッスンしてる場合じゃねえぞ! まず、こいつの稽古つけてやれ! じゃねえと世界どころじゃねえぞ、これからのバンドが立ちいかねえからな!」
「わーかったよ。」
ミリアは目を輝かせながらリョウに張り付いた。「リョウと稽古すんの?」
「何か、稽古って変だよな。相撲みてえじゃねえか。はっけよーい。」リョウはそう言ってちらし寿司を頬張る。
「ミリアは稽古でも何でもいいわよ。リョウが教えてくれるんだものねえ。子供の頃はよく教えてくれたわねえ。」
「そうだなあ。うちにはおもちゃがなかったからなあ。」
「何、おもちゃ代わりにこいつにギター教えたんか。」シュンが瞠目する。
「たりめえだろ。」リョウは当然だとばかりに即答する。「人形のひとっつもねえ家で六歳児留守番させんのに、お前どうすんだよ。ギターしかねえじゃねえか。」
「そういうもんか……。」シュンは茫然と呟いた。「よくお前もそれでおとなしくギター練習したな。」
「だってリョウが教えてくれたんだもの。タブ譜の読み方でしょ。それから楽譜も色々書いてくれたわよねえ。ミリアが好きな讃美歌のギターも書いてくれたわねえ。」ミリアがうっとりと両手で頬を押さえながら言う。
「ああ、そうかいそうかい。つうかお前、ギターはサボったかもしんねえが、飯は旨いな。」シュンががらりと態度を変えて微笑む。
「だって毎日作ってたもの。」
「お前さ、そういや、ギターもそうだけど勉強は……?」リョウが恐る恐る尋ねた。
「やってない。」ミリアは先程よりかは堂々と答えた。
「なんだよそれ。そんでお前大学行けんのかよ……。」リョウががくりと肩を落とす。
「行ける。……ミリアね、栄養学を学ぶの。そういう大学に行くの。女子大だよ。」
「え、もう決めてたの?」リョウは目を丸くする。
「うん。料理の発表で、行くの。先生と決めたの。」
いつの間に、とリョウは思わず言葉を喪う。自分が停滞している間にミリアはどんどん先に進んでしまっている、その事実に嬉しさを覚える反面どこか寂しさも覚えた。
「……へえ。でも近くにしとけよ。……その、都内ぐれえで。」
「大丈夫よ。ミリアは東京でこれからいっぱいライブをしなきゃいけません、だからおうちは出れません。リョウをひとりぽっちにはできません、って先生にも言ってあるの。」
「何だそりゃあ!」
「だってリョウはお病気治ったばかりなのですから、ミリアが傍にいて面倒を見てあげないと。」
リョウは顔を顰めた。「お前なあ、俺は三十路だぞ。オッサンだぞ!」箸をかち、かち、と鳴らす。
「さてリョウが退院できたから、そろそろ受験の練習しませんと……。」これみよがしにミリアは微笑む。
「何だそりゃあ?」
「ううん、こっちの話。」
「何だよ。」
ミリアは含み笑いをして、美しく箸を持ち替えた。
「ミリアも大人になってんだよ。もう、なんでもかんでもお前にくっちゃべりやしねえの。」シュンが嘲笑しながらリョウの横腹を突いた。
「たしかに、あの、お守り持ってきた子はなんだか大人びてたな。お前の同級生なんだろ? 高校三年ともなると、変わってくんだなあ。」アキが問う。
「お守り?」リョウはポケットに捻じ込んだ藤の花のお守りをするり、と取り出した。術後からミリアに持ってろと言われ、とりあえずポケットに入れておいたのである。
「これ、誰かが持って来てくれたのか。」
「うん。カイトがね、リョウが手術してる時に持って来てくれたのよ。学校サボって。あのカイトが。」
「マジか。」リョウはそう言って、今更ながらまじまじとお守りを見詰めた。
「……礼ぐれえ、しねえとな。」
「やめろ。突然理由も解らずてめえに呼び出されたら、あの純朴少年絶対びびるから。」シュンが掌をぴたり、と見せ付けて言った。
「大丈夫よ。前一緒に映画も行ったもんねえ。」
「可哀そうになあ。」シュンが口いっぱいに肉じゃがを頬張りながら頻りに肯く。「ミリアを好きになったばっかりに、こんなおっかねえ兄貴と接点作ることになっちまって……。」
「あのな。」リョウはシュンを睨みつける。「もともとはあいつがな……」と言いかけてミリアとちらと見、暫く逡巡し、「ミリアを幸せにできんのかって難癖付けてきたんだからな。コンビニ出た所でいきなりよお。俺からは行ってねえぞ。そこは絶対。」
「やるな!」アキが賛嘆の声を上げる。「なかなかお前に正面切って文句言うのはできねえぞ! しかも赤っ髪ロン毛の時だろ? やるな! ただのいいところのお坊ちゃんじゃねえってことか!」
ミリアは暫く何やら考え込んだ。以前カイトになぜ一年生の頃から受験勉強に熱心に取り組んでいるのかと尋ねたことがあったのだが、その時にカイトはたしか同じようなフレーズで答えていたのであった。つまり、好きになった人を幸せにするには、いい大学にいかないといけないのだ、と。ミリアはその対象がもしかすると自分であったのかもしれないと思い、不意に頬を紅くした。慌てて首を横に振る。
「ミリアはリョウといるから幸せなんだもん。リョウがいなかったら死んでたか、生きてても死んでるのと同じだったんだもん。」
「そうだよなそうだよな。」シュンがミリアを抱き締め、背を盛んに撫で摩る。
「お前がよその男なんぞの元に走られたらリョウは荒れるだろ? そしたら元の木阿弥、リョウはまた欠陥人間になっちまうだろ? あれ、ひっでえんだぞ? そしたらバンドは立ちいかねえ。」ううむ、と腕組みをしてシュンが唸る。「なあミリア、リョウが一番だよなあ? 俺もリョウが好きだ。」
「気持ち悪ぃ。」リョウがあからさまに顔を顰めた。
ミリアはにっこりと微笑み、「リョウが世界一かっこいい。初めて見た時から、ずっといちばん好き。」と言った。
ミリアが精魂傾けて作った食事もあっという間に各々の胃に収まり、シュンがミリアと一緒に片付けをしながら、リョウは久方ぶりにパソコンに向き合い新曲を作り始めた。その隣ではアキがほくそ笑みながらやたら賛嘆の声を上げている。
「なんにせよ、良かったよな。」シュンが腰を屈めてミリアに囁く。「とりあえず、あいつが家戻ってこれてよお。」
ミリアは手を泡だらけにしながらこっくりと肯く。「毎日寂しくて辛くて、苦しかったの。」
シュンは泡だらけの手ではさすがにミリアに触れず、肘で頭を撫でた。
「お前もよく頑張った。まだこれから本格的な復帰には時間かかっかもしんねえけど、これからはよくなっていくばっかりだからな。」
「……園城さん。」ミリアの手が止まった。「園城さんは、もうよくならない。」
シュンも手を止めてミリアを見下ろした。たしかに、そこは自分の中でも未だ暗い闇となって凝っている部分でもあった。
「俺もさあ、まだ信じられねえけど……」かちん、と皿を置き、「縁があったと思うんだよな。特にミリアはよくしゃべったりも、したんだろ?」と問いかける。
ミリアは遠くを見る眼差しで肯いた。
「ほら、よく、人は二度死ぬっつうだろ。一度目はその、物理的な死で、二度目は忘れ去られることによる死だって。だから俺らがその、二度目を食い止めればいいんじゃねえか。実際、」と言って、笑顔でパソコンに向かい音を入れているリョウを見遣る。「あいつは園城さんの夢を叶えるために、世界世界って言い出したんじゃねえの。」
「世界……?」
「あわよくばワールドツアーみてえな。まあ、最初は単発のフェス参加とかだろうな。でも楽しみじゃねえか。海外にも精鋭が待ってると思うと。」
二人は耐え難いような笑みを向け合った。
「よくわかんねえが、リョウの曲引っ提げて言葉も文化も違う人と向き合うなんて、俺は凄ぇわくわくする。」
ミリアは泡だらけの手で口元を押さえてくつくつ笑い出した。