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リョウが目覚めたのはシュンとアキが帰ってから数時間後であったが、暫くは意識もはっきりとせず、訳のわからぬことを言い、痛みもあるようであった。
ミリアはリョウが痛苦の声を漏らすたび、己が使命とばかりしっかとリョウの手を握り、丹念に励まし続けた。看護師も痛み止めは打っているので、痛みは幻覚であろうとのことで手の施しようがないのである。
「リョウ。ミリアよ。わかるでしょう? もう痛いことも怖いことも、何にもないから。だから、リョウ、もう安心して。」
頬を摩り、肩を摩りしてやると不思議とリョウは安堵し、再び寝入る。
「有能な看護師さんですね。」そう看護師から誉められ、ミリアは頬を染める。
「……リョウがいたから、ミリアは生きてこれたんです。だから、リョウはミリアにとってとってもとっても大切なの。」ミリアは囁くように言った。
「黒崎さん、自慢の妻だって仰っていましたよ。」
ミリアははっとなって顔を上げる。嬉しい、ような、気がする。しかしそれに心から肯くことは、できない。
「その……、ミリアは、本当の妻じゃあなくって……。」
「そうなんですか?」看護師はおもしろそうに言った。「でも、ギターがとっても上手で、モデルのお仕事もされてて、料理もお上手で最高の妻だって、自慢していましたよ。」
嬉しいのか、悲しいのか、理由の知れぬ嗚咽が襲い来る。ごくり、と生唾を飲み込んで、どうにかそれを抑え込んだ。
「そろそろ意識が戻られると思います。またすぐに、来ますね。」看護師はそう言って席を外した。
再び静寂が訪れる。外は月も星もない。
そう言えば今日の天気がどうだったのか、ミリアは全く知らない。とにかくこの堅固な病院の中で、リョウの無事だけを祈り続けた。あの手紙を見つけたのは、今日のことであったか、随分遠い昔のことのように思える。
ミリアはうっとりとリョウの顔を眺め、世界にたった二人きりになったような感覚に率先して身を投じた。
「リョウはさ、……ミリアを妻だって思ってんの? 本当に?」
返事は無論ない。
「ミリアは、夫とか結婚とか、本当は、よく、わかんない。でも、リョウと離れ離れになるなんて考えらんないし。いつもリョウがいてよかった、幸せって思ってる。昔々は幸せって、わかんなかった。パパに殴られたり、蹴られたりしてた時、いつもパパが早く死にますようにって、そればかり考えてた。他には何にも考えたこと、なかった。だから幸せも、よく、わかんなかった。」
ミリアは続ける。
「でも、死ぬってどういうことなのか、その時、ミリアはわかってなかったの。突然パッと消えていなくなっちゃうぐらいにしか、思って、なかった。でも、パパが本当に死んで、いっぱいいっぱい苦しそうになって、そんで目が濁って汚くなって、そして冷たくなって、骨になって、初めて死ぬっていうことが、どういうことなのか、わかった。死ぬって、怖い。ミリアも誰も、世の中の人は誰も最後はああやって死ぬんだって、わかって、すごくすごく、ショックだった。お釣りが来るぐらいいっぱいいっぱい幸せでないと、あんなの、乗り越えらんない……。」
ミリアは俯いたまま膝の上で固く拳を握りしめる。
「まだリョウはこれからやることがいっぱりあるでしょう? ……海外行ってライブやって、これからもいっぱいいっぱいキラーチューン作って、精鋭たちが大暴れして、それ観てニヤって笑って、ミリアのことも抱き締めてくれて、……そうやって生きてかなきゃいけないでしょう? だから、まだ、死んじゃダメなんだよ。あんな風にくるしくなって、目が汚くなるのはダメだよ。全部やり切ってからじゃあないと。その時には、ミリアがちゃあんと傍について送ってあげる。……でもね、これからリョウはね、キラキラ輝いて世界を照らしていかなくちゃあいけないの。デスメタルの音楽を世界に届けなきゃあいけないの。絶望を乗り越える強さを、与えていかなきゃあいけないの。そんでその隣ではね、ミリアがギターを弾いてるの。」
ふふ、とどうしようもなく笑みを溢す。
「リョウが行く所、どこでも一緒に行くの。だってミリアのギター、必要でしょう? 全然知らない言葉しゃべる国行ってもね、地球の裏側行くことになってもね、ミリアはどこまでだって一緒に行くよ? リョウとおんなじ音を弾いて、一緒の世界を創るの。世界にはいっぱいいっぱい精鋭が待ってて、みんなリョウって叫ぶの。それをミリアも隣で聴いてるの。ふふふ。ミリアは、世界でいちばん幸せね。」
ミリアがそう言って体をくねらせた時、ふと見上げたリョウの顔を見てミリアは硬直した。リョウははっきりと、目を開いていた。
ミリアは思わず口元を手で覆った。
リョウは固く、不器用そうに頬を歪めた。それが笑っているのだと解した瞬間、ミリアの目からは滂沱の涙が零れ落ちた。ごくり、と生唾を呑み込んでからミリアはリョウの胸に飛び込み、力の限りに抱き締めた。
「リョウ! リョウ!」
その叫びを聞いてナースステーションにいた先程の看護師は立ち上がり、微笑みながら病室に入って来た。
下弦の細い三日月が、病室の窓の端をちらと飾っていた。