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BLOOD STAIN CHILD Ⅳ  作者: maria
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 ミリアを筆頭に四人が手術室の前で息を呑んでいる間に、ゆっくりと扉が開いた。そしてそこから野上医師が出てきた。

 「先生! リョウは!」

 医師は目の前に現れた長髪男三人の姿に一瞬瞠目したが、ミリアを見てにっこりと微笑み、「無事に終わりましたよ。」と告げた。

 「無事? 無事って、どう無事?」

 「最初喉を開けた時には腫瘍が複雑に神経に絡んでいて、相当難しい手術が予想されたんですよ。でも実際触ってみたらね、奇跡的に、腫瘍がゼリー質になっていて、するっと綺麗に取れて。こんなことってあるんですね。ほら、時間も予定より一時間も早いでしょう?」

 ミリアは待合室の時計をちらと見上げた。

 「先生、ありがとう、ありがとう。」ミリアが再び医師に向き合い、顔を覆ったまま崩れ落ちそうになるのを、後ろにいたシュンが慌てて支えた。

 「まだ眠ってますからね。意識がちゃんと戻るまでは混乱することがありますので、暫く付いていてあげてください。」

 「先生、お久しぶりです。」ユウヤが照れたように、片手で髪を撫でつけながら前へと進み出た。

 「あら、樋口さん!」

 「あっはー、名前覚えてもらって光栄です。否、お蔭さまでデスボイスが調子よくて調子よくて。」

 「まあ、それは何より!」

 「兄貴も治りますよね?」ミリアのためにそれは発せられた。

 「ええ。若いですし、辛抱強いですし、何より愛する妻がいるのですもの、大丈夫でしょう。」

 ミリアは真ん丸に目を瞠った。「……妻?」

 「妻、でしょう? 黒崎さんそう言ってましたよ。自慢の妻だって。いいですねえ、私には一生縁がない言葉だわ。またお二人には明日の朝、手術の説明と今後の流れをご説明いたしますので。それでは失礼。」

 ミリアは一気に頬を染め上げると微動だにせずに、女医が右肩を回しながら去っていくのをただ茫然と眺めた。

 そこに看護師にベッドを押され、未だ眠ったままのリョウが出てくる。喉には包帯を巻き、顔色は幾分青白く見えた。

 「リョウ!」ミリアはそう叫んで慌てて駆け寄る。

 「手術、大成功でしたよ。」見慣れたいつもの看護師がそう言って微笑む。「ひとまず、ナースステーションの前の部屋に移動しますね。今晩はそこで、こまめに様子を見ることにしますから。」

 ミリアは不安げにリョウの顔を覗き込む。表情はない。深淵なる眠りに落ちているようである。

 「大丈夫ですよ。手術は大成功です。ドクターも言っておられませんでした? もうぱっと、鮮やかに腫瘍を取り除くことができて、見ているこちらが感動したぐらいです。ミリアさんの祈りが通じたんですね。」

 ミリアは唇を震わせる。

 「良かったじゃねえか。」シュンはミリアの背を撫でた。「お前の祈りは最強だもんな。」

 「リョウが、」ミリアは潤んだ瞳で微笑んだ。「リョウが最強なの。精鋭たち熱狂させるんだもん。いちばん、強いんだもん。」

 「たしかにそうだ。」アキはぷつん、と呟くように言った。

 

 眠ったままのリョウを筆頭に、看護師、それから四人が後に続く。

 「いつ起きるんですか?」ミリアが尋ねる。

 「そうですね。麻酔が醒めるのは、だいたいあと三時間後ぐらいでしょうか。その後も暫くは意識が混濁すると思うのですが、でも、心配はありません。」

 「そう……。」

 「悪いんだけど。」ユウヤがミリアの肩を抱きながら言った。「俺、これからリハでさ。実は明日ライブなんだよ。そろそろ行かねえとなんねえんだ。」

 「うん。ありがとう。もう大丈夫だから、行って。もう、リョウは大丈夫。」

 「だな。」ユウヤはミリアの頭を撫でまわした。「また時間できたら来るから。なんかあったら連絡して。」

 「うん。」


 ようよう落ち着いたリョウの寝顔を見下ろしながら、ミリアは「早く起きないかな。起きて、ああ喉すっきりしたって、笑ってくれないかな。」と言った。

 「ホント今日は一日悠長に寝腐ってやがんな。……でも、ま、今まで引っ切り無しに働いて来たんだから、ちったあ許してやるか。」アキが安堵の笑みを浮かべたまま言った。「今まで唸る程曲作って、ギターにボーカル、ライブじゃフロント張って、挙句の果てにゃジャケットだ、グッズだ、あれ、全部リョウのアイディアだかんな。リョウがいなけりゃあ、バンドは一秒たりとも存続できなかった。ようやくがんに休ましてもらったってところだよな。」

 「そうね。」

 「お前も、……大変だったな。」

 ミリアは驚いてアキを見上げる。「ちっとも大変じゃあないの。」

 「なあんで。毎日飯持ってきたんだろ? 病院でも飯出んのに、がんに効く飯わざわざ作って持ってきたってリョウに聞いたぞ?」

 「だって……」ミリアは口ごもる。何かリョウにしたかった、ただそれだけであった。かつてボロボロだった自分を蘇生させてくれた、命の恩人であるリョウだから。しかしそんなことをわざわざ考えるまでもなく、自分はリョウを愛していた。リョウの傍にいたかった。リョウに自分のことを少しでも愛してもらいたかった。そのためなら、何でもやりたかった。

 「ま、さすが中学生の分際で、結婚式を本人の承諾も得ずに挙げちまう奴は違うよな。」

 ミリアは頬を染め再びリョウに向き直った。そこに看護師がやって来る。

 「まだ眠っていますね。」機械やら点滴をチェックしながら、「もしよろしければ、私たちで観ておりますから、今日はお帰りになって頂いても構いませんよ。」

 「シュンとアキはもう、おうち帰って。」

 シュンとアキは目を見合わせた。たしかに外はもう暗い。面会時間の終了も近づいているのであろう。

 「ミリアは、どうする? ……送ってくぞ。」シュンが尋ねた。

 「ミリアはここにいる。」ミリアは幸福そうにリョウを見詰める。

 「何時まで?」アキが尋ねる。せめてその時間までは付き合ってやらなくては、と思うのである。

 「今日、ここでお泊りする。」

 「え。」看護師が驚きの声を上げる。

 「ミリア、これ、持ってきたの。」そう言ってミリアは下に置いたリュックから、大きなビニール製の袋を取り出した。

 「おい、これ!」その正体に気付いたシュンが一緒にそれを広げてやる。それは、大きな黒い寝袋だった。

 「これ、大昔にツアー行った時、車中泊すんのにあまりに寒くて買った奴じゃねえか。たしか……、仙台かどっかのホームセンターで買ったんだぞ。うちにもある。」

 「うん。こないだおうちで見つけたの。これあれば寒くない。」

 「い、いいんですか、こんなの勝手に持ち込んで、泊まっちまって……。」アキがおそるおそる看護師に尋ねた。

 「そ、そうですねえ。その、……個室ですし、他の患者様のお邪魔にならなければ、まあ。」

 「ありがとう。」ミリアは幸福そうに微笑む。「だって今日は記念日だもの。だって、もう、リョウの喉の中でがんがむくむく膨れ上がったりしないかとか、あちこち分裂しやしないかとか、見えない所をあれこれあれこれ考えて胸がどきどきして、勝手にくるしくなったり悲しくなったり、そんなことしなくってよくなったんだもの! だってリョウの喉の中からがんは消えたんだもの! そんな日ぐらい、リョウの傍でいたっていいじゃない! ……ねえ、手、握ってもいい?」

 「いいですよ。」看護師は優しく肯いた。

 ミリアは布団の中にそっと手を入れて、ぎゅっと掌を握り締めた。

 温かみのある、手。ミリアは安堵する。ちゃんと血が通っている。生きている。数多の曲を奏で、客の胸を打ってきた、あの手だ。自身に生きる希望を与えてくれた、手。何にも代え難い手。

 その手がぴくり、と動いたのをミリアは感じた。ミリアは驚いて中腰になり、顔を覗き込む。

 「リョウ? リョウ? 起きた?」

 「え、どっか動いたか?」シュンも慌ててリョウの顔を覗き込む。

 しかし睫毛一本動くわけでもなく、唇は相変わらず固く閉じられ、起きる気配はない。何かの間違いであったのか、ミリアは少々落胆しつつも再び語りかけた。目は閉じていても、耳は聞こえているはずだ。届くはずだ。ミリアにはそんな確信があった。

 「ねえ、ここにミリアいるよ。わかる? 見える?」それはすぐに堪えようのない鼻声になる。「リョウ、私はミリアです。リョウの妻で、リョウのバンドのギタリストです。リョウの隣でツインギター弾いてます。リョウとそっくり同じ音って言われます。だってそうだよね? リョウがギターを教えてくれたんだもの。それに血だって半分同じだし、それから、……辛い思いしたのも、一緒でしょ?」

 リョウはしかし微動だにしない。ミリアはどうして起きないのだろう、実は手術で失敗があったのではないかと焦燥し始め、それからそんなはずはない、お医者様は成功したと言っていたものと奮起し、しかしリョウが相変わらず目覚めぬのに再度落胆し、心か激しく逡巡した。そのうちにもうほとんど文面を暗記してしまいそうなほど読み込んだ、あの手紙の内容が思い浮かんでくる。それと同時に怒りが再び沸き起こって来た。

 「ねえ、そういえばリョウ、こればっかしは言っておかなきゃなんないんだけど、ミリアは幸せなのよ?」

 シュンは腕の中に顔を埋めて噴き出すのをどうにか堪えた。ミリアがあの手紙のことを言っているのは明白であったから。

 アキは何を言っているのだといわんばかりの不思議そうな顔でミリアを見詰める。

 「ねえ、ミリアがどんだけ幸せか、わかる? 大好きなリョウといっつも一緒にいられて、ギター弾けて、最強のキラーチューンを一番に聴かしてもらって、何が可哀想なの? 何が幸せにできなかったなの? おかしいじゃん!」

 リョウの手がぴくり、と再び動いたような気がした。先ほどと全く同じ感覚である。中指と親指が、ミリアの手を握り返そうとしている。錯覚ではない。ミリアは突き上げるような歓喜を覚えた。

 「リョウ? リョウ? 目覚めそうなのね。ミリアよ。いつでも目覚めていいのよ? 遠慮しないで、さあ、どんどん目覚めて!」

 今度はリョウの唇がほんの少し、開いた。ミリアは全身全霊もってそこを注視した。するとやがて唇は何かを言おうとするかの如く、動いた。

 ミ、リ、ア。

 ミリアと、自惚れでも何でもなく、唇の形が確かにそう形作った。ミリアの心臓は高鳴った。肩で息を繰り返す。自ずと涙が零れてくる。シュンに頭を撫でられながらミリアは目をこすり、こすり、リョウの顔を見詰めた。

 「そう。ミリアよ。わかったのね? ここにいるよ! お喉痛かった? もう手術終わったから何の心配もいらないよ。先生もね、すっごいすっごい大成功だったって、言ってた。がんはもういなくなったよ? リョうがメタルの神様に愛されているからだよ。リョウが頑張って今まで生きてきたからだよ。キラーチューン山ほど作るし、フロントマンだし、全部全部バンドのことやってきたし。」ミリアは口早に捲し立てた。

 「そうだ、リョウ。もう何も気にせず起きてこいよ。お前の愛しのミリアが一日中気を揉んで待ってんだぞ、わかるかー?」シュンも応戦してやる。

 「リョウ、ほら、さっさと起きて曲作ってくれよ。精鋭たち楽しませてやってくれよ。ついでに俺らに生きる希望を与えてくれよ、お前がいねえと、からきしつまんねえよ。」アキも小声で囁いた。

 リョウの頬は一瞬、弛んだかに見えた。唇は閉じた。ミリアは瞳を滲ませ、再び布団の下でリョウの手をぎゅっと握り締めた。

 「ミリアが守ってあげるからね。もう、なんも怖いこと、ないからね。本当だよ? 怖いことあってもミリアが絶対断じてどうにかしてあげる。リョウのことが大好きだから。リョウのことがいちばん大切だから。」ミリアは布団に顔を突っ伏して呟いた。

 「ミ、リ、ア。」ほとんど空気の漏れのような発声ではあったが、再びリョウは呟いた。ミリアははっとなってリョウの顔に接吻せんばかりに近づけて凝視した。目が、開いている。うっすらとであるが、開いている。その瞳は焦点を定めていないように見えたが、ミリアにはそんなことはどうでもよかった。ただただリョウの意識が戻ってきたであろうことが、嬉しくてならない。

 「なあに? なあに、リョウ? 今、ミリアって言った? 言ったよね? 声出るの? 声。」

 「……曲。」

 「曲?」即座にミリアが繰り返す。

 リョウの睫毛が細かく震えた。「で、きた。」

 「曲? 新曲、出来たの?」

 リョウは小さく肯いた。

 「手術してる間に、曲が思い浮かんだのね! リョウ!」ミリアは目を輝かせ、リョウに抱き付いた。その拍子に点滴がぐらぐらと揺れ、慌ててアキは瓶を押さえる。

 リョウは再び目を閉じていく。ミリアは再び布団の中のリョウの手を握り締め、いつまでもいつまでもその寝顔を見詰め続けていた。

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