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手術は三時間半に及ぶと聞かされていた。つまり終了予定は夕方である。もし、腫瘍が変質していれば、神経に絡んでいれば、その他悪条件が判明すれば、半日掛かりになるとも聞かされていた。
ミリアは待ち時間の間何度も手紙を読み、リョウの手術の成功を祈り続けた。それは時折憤怒や悲嘆の形を取りもしたが、三人もほぼ同様にそれぞれリョウの復帰を脳裏に浮かばせていた。そこに再び新たな足音が近づいてきた。
「ミリア?」
顔を上げると、そこにいたのは制服姿のカイトであった。
「カイト! どしたの?」ミリアは思わず立ちあがった。
カイトは見慣れぬ長髪の男三人に会釈をしながらおそるおそる待合室に入り、ミリアに近づくと、ポケットの中から小さなお守りを取り出した。「……これ。」
差し出されたのは『病気平癒』と描かれた、藤の花のお守りである。
「どして?」ミリアの声は信じられないとばかりに掠れていた。
「ミリアが休んでたから、……どうしたんですかって小久保先生に聞いて。そしたらお兄さんが手術だって聞いて、それで病院教えて貰って……。そんで、その、神社行って……。」
苦しんでいるミリアにできることが、アダルトサイトの紹介だけではさすがに友人として、男として、あまりに哀れにすぎる。どんな些細なことでも、もう少しまっとうなことをしたかったというのが本音である。
それから、とかくミリアに会いたかった。別のクラスになってしまったからといって、ここ二年培ってきた友情を、決して恋情には到達し得ぬとはわかってはいるものの、それでも失うことはないのだとはっきりと伝えたかった。
「ありがとう。」ミリアはそう言って、大切そうにそのピンク色のお守りを胸に押し頂いた。「……でも、学校は?」
「うん。……最後の授業だけ、ちょっと、サボって。」
ミリアは顔を顰め、「ダメじゃん。カイトは国公立大学行くんでしょ?」と言った。
「大丈夫だよ、一時間ぐらい。これから予備校行くし。」
「そうだよ。」シュンが説教臭い顔をしてずい、と二人の間に進み出る。「お前リョウに人の気も知らねえって怒る割には、お前も男心に鈍感すぎんだよ。せっかくお前を心配してきてくれたんじゃねえか。ちったあ嬉しがれよ。せめて怒んじゃねえよ。」
カイトはそのあまりに直接的な表現に気まずそうに俯く。
「嬉しいに決まってるよ! だって、これ……リョウの手術、無事に済むように買ってきてくれたんでしょう? そういう意味でしょ?」『病気平癒』を字をなぞりながらミリアは言った。
「もうちょっと早くお兄さんのこと知って、渡せればよかったんだけれど……。」
ミリアは首を横に振って、「そんなこと……。カイト、ありがとうね。」と言った。
カイトはその言葉で全てが救われたとでもいうような、耐え難い笑みを浮かべた。
しかしその目は先程から、ミリアが握りしめている手紙を凝視していた。聞いていいものだか悪いものだかわからずに遠慮していたが、とかく視線がそこから離せないのだ。
ミリアはそれに気づき、「これ。……リョウがミリアに書いた手紙なの。」と言った。
「そう、なんだ。」
笑みさえ剥がれ落ちる激しい落胆ぶりから、シュンは即座にカイトのミリアに対する特別な思いを汲み取った。
そして慌てて、「ほら、いつまでもんな所突っ立ってねえで、こっち来て、ほら。ユウヤ、一本くれてやってもいいだろ?」と椅子を引いてやる。
「いいっすよ。」
シュンは緑茶のペットボトルをカイトに渡してやる。
「どうもありがとうございます。」シュンは受け取ると、引かれたミリアの隣の椅子に腰を下ろした。
「リョウの手術終わるのがね、どうも夕方ぐれえになりそうなんだ。もしちょっと時間あったら、ミリアといてやってよ。落ち込み方が半端なくって、見ちゃいられねえんだよ。」
「落ち込んで、ない。」ミリアが拗ねたように言った。
シュンは心配そうにミリアを見詰めた。
「それ読んで怒ってやがんの。遺書。なあ、ミリア?」
ミリアはその単語を聞いてぎくり、と肩を震わせた。
「い、い、遺書じゃないもん! 何それ酷い! ラブレターだって、言ったじゃん!」
「そうだっけ?」シュンはひょうきんめいた顔をしてそっぽを向く。
「リョウがミリアを愛してるって、書いてあんの。大事なの。だから誰にも見せらんないけどね、遺書じゃあないの、遺書じゃ。」
カイトの脳裏には真っ赤な髪を腰まで伸ばし、大きな黒いバイクに跨りながらミリアを後部座席に自慢げに乗せている姿が思い浮かぶ。あの人が、ミリアを愛していると言うのか。そんなことを、恥ずかしげもなく言えるのか。自分には到底、できない。ミリアがいるから今の高校に進学を決めたということも。いつもミリアの出ている雑誌をチェックして買っているということも。ミリアに笑ってほしくて、そのためならどんな無様なマネでもできるということも(AVを観たことがあるという恥辱が露呈してしまっても)。そう思うと胸の奥が痛んだ。ミリアの兄とは、まるで雲泥の差だ。
生まれて初めて授業をさぼり、慌てて近くの神社で、病気平癒のお守りの売っている場所はないか携帯で探し、走って買ってそのまま病院にやってきた。しかしミリアの胸中にはいつもいつも、あの赤髪がいるのだ。そこに入る隙間は誰人にも、ないのだ。そう思うとカイトは今にも泣き出してしまいそうで、慌ててお茶をと共に勢いよくそのすべてを飲み込んだ。
「お兄さん、大丈夫だよ。」カイトはどうにか自身を落ち着かせると、ふう、と息を吐き出しながら言った。「この病院はとても評判よくって、それで全国から患者が集まってきてるんだって。」
「そうなの。」
「だから、大丈夫。」
ミリアが安堵しているのがシュンやアキ、ユウヤにもはっきりとわかった。端から見れば似合いの高校生のカップルである。少々感情的な彼女に、包容力のある優しい彼氏。しかしミリアの右手にはリョウからの愛が記された手紙がしっかと握りしめられ、左手の薬指にはダイヤの指輪がはめられているのである。それらをはっきりと見据えながらミリアの相手をし続けるカイトの精神力に、三人は内心驚嘆さえした。
「カイト君、昼飯は、食った? これ食べていいよ。」ユウヤがコンビニで買い込んできた食料を見せる。
「あ、大丈夫です。昼飯食べましたし、すぐ予備校行くんで。」
「行っちゃうの?」ミリアが寂し気にカイトを見上げた。
クソッタレ、とシュンは一瞬ミリアをぶん殴ってやりたくなる。そういう思わせぶりな言動が、表情が、男を惑わせるんじゃあないか。モデルだからといって、許されると思っているんじゃあなかろうな、とシュンは鼻息を荒くする。
「お前と違って勉強熱心なんだろが。お前と違って。」シュンは直接的には表現し得ぬ怒りを纏わせながら言った。
「ミリアは勉強得意だよなあ? 高校受験時一緒に勉強したもんなあ?」ユウヤがそう言って微笑む。
カイトはこの人がミリアのよく言っていた家庭教師か、と目を丸くした。それにしては随分類に違わず髪が長く、到底、ミリアの言っていたW大学のエリートとは思われない。
「あ、……ミリアさんの家庭教師をされていた?」
「そうそう。まあ、大したことはしてないけどね。」
「頭、いいんですね。」カイトは声を潜めるようにして言った。偏差値の僅かな上下に一喜一憂し、それで自分の人生が決定すると信じて疑わないカイトにとって、有名大学卒というのはこの上なく眩く目に映じた。
「いやいや、俺はデスメタラー兼ただの社会人。」
「ユウヤも頭いいけどねえ、カイトは頭いいクラスで、そうだからミリアとはもう違うクラスになっちゃったの。だのにお守り持って来てくれんの。」ミリアは嬉し気に語った。
シュンの怒りはますます募る。そりゃあお前のことが好きだからだろうよ、そう怒鳴りつけてやろうかと思う。
「ありがとう。これ、とっても綺麗。」ミリアはそう言ってお守りを撫でた。
カイトはほんの少し口の端を上げて、「否、俺、今日先生に聞くまで全然お兄さんのこと全然知らなくて。これからも力になれることがあれば何でも言って。」と答えた。さすがにAV以外のことで、という条件は付与できなかった。
それを聞きがらシュンは地団太踏みたくなる。そこだ! そこで愛の告白をするんだ! 今だ、言え! そう絶叫したくてならない。
「うん。ありがと。」
カイトは照れ笑いを浮かべ、「じゃあ、また。」と言って待合室を出て行く。
「おいおい。」シュンはミリアの耳にコソコソと話しかける。「いいのかよ。送ってやれよ。」そう言ってミリアの背を押し出したが、「ダメ。ミリアはここにいないと。リョウが出てくるの、待ってるんだから。」と言下に拒否された。
「けどよお。」
「いいよ、放っとけ。」アキが向こうの窓際からそう言った。「こいつがどうのこうの周りから言われて、リョウ以外の男を男と認識するか?」
「そうすよ。ミリアちゃんはインプリンティングなんだから、兄貴以外はどうしたって無理すよ。もう、本能レベルで。」ユウヤまで参戦してくる。
「何だよインプリンティングって。」
「卵から孵ったばかりの鳥が、初めて見た動くものを親だと思い込んで、生涯どこまでも付いて行っちまうっていう習性。ミリアちゃんにとって初めて優しくしてくれたのが兄貴なんだから、生涯付いて行くのはもう決定事項。しょうがねえ。」
「そんなんじゃないもん。」ミリアは顔を顰める。「リョウは最初からずっと優しくて、かっこよくって、ギターが上手で、そんで優しくて、」
「それ二度言ったぞ。」
「そんで焼きそばの天才で、髪の毛が真っ赤なライオンみたいで、でも笑うとニヒって感じてかっこかわいくて、そんで……ああ。」
そこまで言って突如低く獣のように呻いたので、どきりとして三人はミリアの顔を見た。ミリアは突如ぐしゃり、と顔を歪めて泣いていた。
「な、何で泣くんだよ……。」シュンが慌ててポケットを探る。ハンカチ、のような気の利いたものはやはり、ない。
「リョウ、リョウ。どこに行ったの。ミリアを置いてかないで。リョウ。」
「リョウはそこ、すぐそこにいるじゃねえか。ほらそこ、そこだよ、そこ。」シュンが顎をしゃくって手術室を示す。
「そうだよ。喉おっ広げて、綴じてすぐ戻ってくるよ。」ユウヤが言った途端、泣き声は更に大きくなった。
「お前、軽くグロいこと言ってんじゃねえよ!」ユウヤはアキに頭を叩かれる。
「だって、実際そうじゃねえっすか。」
その時、ミリアが請うように見上げた眼差しの先、『手術中』の点灯がぱっと消えた。
ミリアは一瞬目を疑ったものの、息を呑んで惑わず外に向かって駆け出した。