32
園城は半分もコーヒーを残して、そろそろ検査があるから、と去っていった。ミリアは不思議そうにカップの中を覗き込む。
園城が店の外に出たのを見計らって、シュンが「具合、悪そうだなあ。」と呟いた。「コーヒー一杯も飲めないなんて、何つうか……、気の毒だ。」
ミリアは自分のことを言われているような悄然とした顔をして、「リョウもご飯あんまり食べなくなった。」と言った。
「でも」アキがコーヒーカップを置いて、「……こういう言い方悪いが、園城さん、リョウよりもだいぶん悪そうに見えるな。」と呟いた。
「だって、二年も入院してるんだもの。……そんなにずっとがんって治らないものなのかな。」
「そりゃあ、人によるだろ。」シュンは不安の暗雲を払拭するように立ち上がった。「さあ、そろそろだ。我らがリョウが手術室入るのは。行くぞ。」
落ち窪んだ眼差しを眺めながら、ミリアはただ茫然とリョウを目で追った。ベッドに寝かされたまま手術室へと搬入されるリョウは、既に意識も無く麻酔の利いた状態であった。ミリアは胸に痛烈な痛みを覚えながら、目の前を通り過ぎるリョウを足早に追いかけ、ただただ見詰めた。
「行ってきます。」リョウの後ろに続いて、医師はそう言って精悍な感じに微笑んだ。「無事に終わるよう、祈っていて。」
ミリアはそれには何も返せぬまま、「リョウ、リョウ」と呼ぶばかり。
リョウが手術室に入り、そこで非情にも扉が閉まろうとする。呆然と立ち尽くしたミリアの肩をシュンが支えた。
ミリアは扉に顔をくっつけそうになりながら、最後の一言を発した。「リョウ……。」
シュンはそのまま手術室の外にあるベンチまでミリアを押し、腰を下ろさせた。
「大丈夫だ。」
ミリアは落ち着かぬ様子で己が身を抱き締める。
「ミリアが代わってあげたい。ミリアはリョウに甘えられればそれで充分だから、がんの一つ二つあったって、全然悲しくならないのに。」
「んなこと言ったってしょうがねえだろ。」アキが仁王立ちしたまま扉の向こうを見据えるようにして言った。「っつうかよお、リョウなら、そのうちもっともっと凄ぇ曲仕上げてきて、この曲作るために、こういう経験が必要だったとかって、言いそうだぞ。」アキはそう言って口の端を歪めた。「あいつは、何だって呑み込んで音楽にしちまうんだから。てめえが死にそうな経験だろうが、何だろうが。そうやってここまで上り詰めてきたんじゃねえか。」
手術中のランプが点灯した。
「……いよいよだな。」シュンが呟く。ミリアはぎゅっと目を閉じて、溜息を吐いた。
これから何時間かかるのだろう。リョウの腫瘍は無事に取り除けるだろうか、リョウはそれに耐えられるのだろうか、考えればミリアの体は自ずと震えていった。それを察したシュンはミリアの背を摩ってやる。
「大丈夫だよ。リョウだぞ?」
ミリアは涙ぐんだ瞳を伏して、肯く。
「史上最強の男じゃねえか。」
ミリアはしかし相変わらず震えながら俯いていた。
「寒いのか? 病室にひざ掛けあったろ。持って来てやるか?」
「自分で行ける。」ミリアはか細い声でそう答えると、ふらふらと立ち上がった。シュンは心配そうにその後姿を見守った。
リョウの喉はもう切られてしまったろうか。その腫瘍が外気に晒されているのだろうか。リョウは痛みを感じてはいないだろうか。幸福な夢を見ている内に全てが終わってくれるように。ミリアは滲む視界を振り払うように瞼を擦り擦り、とぼとぼと歩いた。
辿り着いた病室で目に入った空っぽのベッドは、やたら寂寥を覚えさせた。しかしそこにリョウのぬくもりがまだ残っているような気がして、ミリアはそっとベッドに上半身を横たえた。すると寝そべって見たテレビ台の下に何やら紙らしきものが見える。ミリアは不審に思って起き上がるとテレビを退け、その下に入っていた白い封筒を取り出した。封筒には「ミリアへ」と書いてあった。
心臓が縮み上がった。
これはリョウの字だ。リョウが自分に手紙を書いた。それはかつてないことであったので、ミリアの鼓動は自ずと早まり呼吸は荒くなった。
読んでいいものだろうか。何せテレビの下に隠して置いてあったものだ。読まれることを想定していないのかもしれない。ミリアは一瞬手紙を戻しかけたが、その時目に飛び込んできた「ミリアへ」の文字によって再び手が止まる。
他の誰でもない、自身に宛てられた手紙なのである。読んでも、構わないのではないか。たまたま郵便局員が届けてくれなかっただけで、リョウが、自分に、宛てたものなのである。一体、何が書いてあるのだろう。リョウは自分に何を言おうとしたのだろう。ミリアは手紙を離せなくなった。もう一度テレビの下に置くという当たり前の行動が、どうしても、取れない。
ふと、無意識に動かした指先で容易に封筒はズレた。封はされていない。ミリアは息を呑んで、それから深呼吸を幾度も繰り返し、目を瞑ってからそうっと指先で封筒を開け、中に紙が入っているのを指先の感覚で確認すると、それを取り出した。