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BLOOD STAIN CHILD Ⅳ  作者: maria
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 「手術?」ミリアは頓狂な声を上げた。「リョウ、手術、するの?」

 巡回に来た野上医師は静かに頷いた。「はい。抗がん剤治療によって腫瘍がだいぶ小さくなってきています。手術をするのなら、今です。」野口医師はリョウのベッドの脇でCTの写真を凝視しながらそう淡々と告げた。

 リョウはぐったりとベッドに凭れたまま、黙っている。ミリアは心配そうにその姿を見詰めた。「そうしたら、……治る?」ミリアが請うような眼差しで、医師に問いかける。

 「はい。腫瘍さえなくなればとりあえず退院をして、通院によって様子を見ていくという段階に入れます。」

 ミリアの顔が歓喜に輝いた。「おうちに帰れるのね!」

 しかしリョウは諦観しているような、疲弊しているような眼差しで女医を静かに見上げるばかり。

 「リョウ、……手術、頑張れる?」ミリアは恐る恐る尋ねた。

 「マジで、……治るの? もう抗がん剤治療しなくても、いいの?」

 「ええ。手術が成功して、がんを完全に取り除くことができれば。しかし……、これはどんな手術にも言えることではありますが、絶対に成功する、という保証はありません。腫瘍が周辺の重要な血管に絡みついている場合、また腫瘍の性質が粘着質になってしまっているような場合、全てを取り除くことが困難というケースも、稀にですが、あります。前者はCTである程度確認は取れますが、後者、腫瘍の性質については開いて実際に扱ってみないと正直わかりません。そういった理由により、仮に取り除けなかった場合には、再び抗がん剤治療を継続していくこととなります。」

 ミリアは眉根を寄せた。抗がん剤治療とやらを行うたび、リョウの容貌は峭刻となり、髪はまばらとなり、そして恐ろしく痩せた。どれだけ痩せたのだかは想像もつかない。とかく今リョウの優し気な眼差しはほとんど人を射るようなそれへと代わり、顎もほとんど鋭角に肉が削げ落ちていた。あんなに力強くリフを刻んだ指でさえ、皺が寄り、骨ばったように思われた。その死を彷彿とさせる姿に、ミリアは昨今不安、どころではなく恐怖を覚えていた。

 リョウが死ぬはずがない。リョウはこれだけ自分に優しくしてくれた、救ってくれた、愛してくれた、そう思い返すことで襲い来る恐怖を払拭しようとした。それから、リョウを熱狂的に会いする精鋭たちのこと、シュンやアキ、バンド関係者、誰もが誰も、リョウのステージ再来を冀っているのだから、死ぬはずがないのだと、そう思いもした。

 しかし抗がん剤治療に入るとリョウは酷く辛そうで、言葉も発さずただ呻き吐き、顔を顰めているのを見るのは忍びなかった。それでミリアは何度も何度も、自分が代われる術はないものかと思案もしたし、がんが自分のところにやってくるよう、一晩中祈り続けたこともあった。そして何よりリョウを完全に治すためにAVにも出ようとさえ決心したのである。

 しかしそんな日が、手術によって終わりを告げるようになるのであれば――。ミリアは立ち上がってリョウの顔を覗き込んだ。

 「リョウ、頑張ろうよ。」ミリアはそう言って布団の中のリョウの手を握り締めた。「大丈夫。がん、取れるから。全部、きれいにきちんと取れるから。」ミリアは語気を強めて言った。「ミリアが付いてる。どこまででも、リョウに付いて行く。だから……。」

 リョウはその真っ直ぐな瞳から顔を反らす。

 「もちろん、このまま抗がん剤治療を継続して、最後まで消滅させる、というのも手ではあります。しかしもう既に5クールも行っているので、このまま継続させると他の細胞を破壊する段階に移行してしまう、ということも考えられます。それに体力的な問題も。黒崎さんの場合、やはり副作用はかなり重篤な問題と言えます。ですから私としては……」野上医師は眉根を寄せて、「手術の持つ危険性を考えても、可能性としては抗がん剤治療よりも手術をした方が、寛解は早くなると考えています。」そう静かにではあるが、はっきりと言い放った。

 「金は、……かかるんすか。」喉の奥に絡みつくような声がようやくリョウの口から発せられた。

 「何言ってるのよう!」ミリアは甲高い声を上げた。

 「この間売ったギター代で賄えるか……。」

 「お金なんか、お金なんか!」ミリアは怒りを滾らせながら言った。「社長が山ほどくれたわよう!」

 そう言ってしまってから、あ、とミリアは口元を両手で抑えた。リョウも唖然としてミリアの顔を見上げる。そしてお互いに見詰め合ったまま目を瞬かせ合う。

 「……お、お前、何? 社長に、借金したの?」

 ミリアはわなわなと唇を震わせている。

 「俺のために……?」

 「ち、ち、違う!」ミリアの頭は真っ白になっていく。社長との約束はともかく、とにかくリョウのプライドを傷つけてはならない、そう強く思った。

 「それは、それは、……ミリアがAV女優になるって言ったら、それは才能ないからやめろって社長が言って、代わりにお金くれた。」

 リョウは目を見開いた。肩が激しく上下し始める。

 「……は? ……え、AVだあ?」リョウは渾身の力でもって上半身を起こした。ミリアはその瞬間、リョウが元気になったと思わず笑みを溢す。「お前、んなこと勝手に考えてやがったのか? 何考えてんだ! てめえはよお、あああ?」リョウの顔がみるみる赤くなっていく。

 「あのね、……でも、でも」ミリアは両手をばたつかせながらも、笑顔で必死の弁明を試みる。「ミリアは性的関心がなくって、胸がぺたんこだからダメって言われて、そんで、そんで……。」

 リョウは点滴を繋いだ腕で頭を掻き毟り始めた。

 「お前、お前、最初にモデルやる時、俺が何つったのか忘れたのかよ、クソが! 裸んなるのと男と絡むのはダメだって、俺が社長に最初からブチ切れて迫ったろうがよ、ああ、もう! なんてお前は馬鹿なんだ! 正真正銘のクソ馬鹿野郎!」

 「落ち着いて下さい。」点滴のチューブに血が逆流しかけたのを見て、慌てて医師がリョウの腕を押さえ、下ろさせた。

 「とにかく、……手術について考えておいてください。」

 「します、します! 手術します!」勝手にミリアが怒鳴った。

 「だから、金が!」

 「金、金うるさい! そんなの山ほどあるわよう!」ミリアは地団太踏んで主張する。「ミリアは、ミリアは、リョウに早くよくなって欲しいの! 怖いんならミリアがずっとついててあげる! だってそうしないと、みんなみんな待ってるんだから! 精鋭たちも、シュンもアキも待ってる! 園城さんだってライブ来たいって言ってたじゃん! それに、それに……」唇を震わせて、「ミリアだってまいにちまいにち、早くよくなってって、祈ってるのよう! リョウが辛そうだから、リョウがゲロ出したり熱出したり、大変で苦しいから、ミリアが代われるようにまいにちお祈りして、ミリアん所にがん来て、リョウを助けてくださいって。……でもリョウだけ治ってミリアが死んだら、やっぱりミリアはリョウに会えないから結局おんなじぐらい辛いからどうしようって思ったり。だのに、お金かかるのなんか心配して、リョウのがクソ馬鹿野郎だわよう!」涙を振り払いながら叫んだ。

 リョウは唖然としてミリアを見上げる。そうしているうちにゆるゆると唇が半開きとなり、やがて、ぽつりと、熟柿が落ちるかの如く言葉が発せられた。

 「……わかった。」

 ミリアははっと息を呑んだ。

 「……わかった。……やる。」

 ミリアの目が無理な輝きを帯び始める。

 「……本当に? ……本当に?」ミリアはベッドに両手をついてリョウの目の前に迫った。

 「よろしくお願いします。全部、先生に任せます。」静かな声であった。

 「全力を尽くします。」医師は固く微笑んだ。

 ミリアの唇が震え出した。そして大粒の涙がぽろぽろと零れ出す様を見ながら、リョウはどこか自分が冷静になっていくのを感じた。

 挑戦の気概を忘れた者がステージに上がる資格はないのだと、そう、偉そうに言い放ったのは誰であったか。安住だけに見舞われた者の堕落を、何よりも軽侮してはいなかったか。緊張感のないリフ、これを一番自分は毛嫌いしていた。しかし、今、自分はそれに堕そうとしていた。それに、ミリアが気付かせてくれた。

 ミリアが言うように、自分には、幸運にも復帰を待ってくれている人たちがいる。ステージに上がり、再び狂獣の叫びと、ギターの奏でる慟哭のメロディーに身を震わせたいと懇願する人々がいる。それに何より――、自分の復帰を叱咤激励しながら懇願し続ける家族がここにいる。たった一人、頼りにすべき家族が生死を彷徨い続けているというのは、どんな思いがするのだろう。金も底をつき、勉強にも仕事にも追われ、挙げ句の果てにはもはやAV女優になるしかないという所にまで逢着したのだから、相当に思い詰めていたのであろう。自分は彼女の唯一の家族として、否、夫として、せめてそれに応え得る存在で、いたい。否、いなければならない。

 「では、明日にも手術の承諾書をお持ちしますので。おそらく手術は来週末辺りになるとは思いますが、それまでできるだけ食事を摂って、体力付けて、頑張っていきましょう。」そう言って医師はリョウの手を固く握りしめた。

 思ったよりも小さな、骨ばった手である。リョウはこの手に自分の命を捧げるのだと思い、身を固くした。


 医師が去るとミリアは嬉し気に頬にぶつかるような接吻をして、「手術が成功するように、てるてる坊主作るね。」と訳の分からぬことを言い、それからも、手術に向けてあれこれ何を食べさせる、何のCDを持ってきて聴かせる、更にシュンやアキにも連絡を入れてやる、と様々予定を次々に列挙し意気込んだが、やがて面談時間の終了と共に浮足立ちながら帰って行った。


 リョウは暫く茫然と空を見詰め、それから何かを考え始めた。それが形を取る頃、巡回にやってきた看護師に頼み込み、便箋と封筒を貰うと、慣れぬ手つきで手紙を書き始めた。ギターを弾かなくなって久しいためか、久々に持つペンは震えてなかなか綺麗な字にならない。リョウは書き出しては見るものの字も文面も納得が行かず、そのたびに何度も便箋をくしゃくしゃに丸め、初めから書き直した。気付けば日付は変わり、窓の外は月も星も何もない、一面の闇が支配していた。

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