25
翌朝、ミリアが意気揚々といつもより三十分も早い時間に登校をすると、教室では既にカイトがカリカリとシャーペンを動かし勉強に励んでいた。それを見て一瞬怯んだものの、ミリアは「……おはよう。」と恐る恐る声を掛けた。
カイトはふっと顔を上げて、「おはよう。」と微笑む。いつものやりとりである。しかしミリアはそのままカイトに近寄ると、「あの、ちょっといいかな。」
「え?」カイトは朝日に目を細めミリアを見上げる。
「あの……、今日の放課後、話したいことが、あるの。」
カイトはすぐさまカッと目を見開いて、ミリアを凝視した。
「は、話したいこと?」
ミリアは再び恥ずかし気に、そして忙しく二度も三度も肯く。「ちょっとだけ、時間くれない?」
カイトの手は震え出した。放課後に、話がある? 想定できることといえば、一つしかない。しかしミリアには愛する夫だか兄だかがいたではないか? カイトは顔を顰め冷静になれと必死に自身に言い聞かせた。
「……ああ、いいよ。」しかし口を出た、どうしようもなく喜びを秘めた声にカイトは恥ずかしくてならなくなり、再び事務的に参考書に視線を落とした。
ミリアはその様を見、勉強熱心な彼の時間を奪うことに一抹の罪悪感を覚え、肩を落とした。
カイトは授業中にも浮かび上がる、ミリアの恥ずかし気な表情を幾度も振り払いながら、長すぎる一日の過ぎるのをただただ耐えた。休み時間、授業中と、いつも以上に注視してしまうミリアの姿は、なぜだかとても悩まし気で、カイトの頬は自ずと上気した。
そして、遂に、約束の放課後が来た。
ミリアは目だけでちらちらとカイトを見、移動を促す。カイトは無駄に咳払いをして席を立ち、一定の距離感を保ちながらミリアの後ろに続いた。ミリアは教室を出、廊下を歩き、この時間は完全に人気のなくなる売店裏まで来ると、ふとその歩みを止めた。
カイトは期待はしないよう、再び必死に自身に言い聞かせる、どころではない。最早胸中に念じ始めた。ミリアの左薬指にはまったダイヤの指輪をひたすら凝視する。
「あの、……。」ミリアは振り返ってカイトの顔をちらと見、そして俯いた。
カイトは目を瞑り、深呼吸をした。
「カイト、AVって、持ってる?」
言葉は頭を過ぎ去った。
「え?」
「あの、……AV、なんだけど。」
「え、何?」とんでもない聴き間違いをしたような気がした。
「あの、……だから。」ミリアは手を揉みながら、遂に怒ったように言った。「セックスを撮影したAV、持ってない?」
聴き間違いではなかった。そしてカイトは震撼する。
「いや。」反射的にそう答えたものの、ミリアの顔がみるみる曇っていくのを見てカイトの胸は痛んだ。
「持って、ないんだ……。」ミリアはほとんど絶望的とも言える声を絞り出した。最早手も固く握ったまま、細かく震えるばかり。
カイトはごくり、と生唾を呑み込む。
「じゃ、しょうがないや。勉強忙しいのに、ごめんね。ありがと。」
ミリアが踵を返してとぼとぼと去っていく。カイトはその後姿に胸が潰されるような痛みを覚えた。何かやんごとない事由があるのに相違ない。決して、好色な話題にぎゃあぎゃあ甲高い声を上げて花を咲かせる一部の女子たちのように、興味関心、好奇心で言っている訳では無いのだ。
今、ここに、ミリアのためにできることがあるのに、見栄とプライドとのために、それを押し込めるのか。ミリアにはとても入る隙間のないような想い人がいる。よって見返りは無い。しかしだからと言って、それはあまりに卑怯なやり方ではないか。そんな人間に、自分は、堕したく、ない。
カイトは意を決して叫んだ。「ミリア!」
ミリアは驚愕した眼差しで振り返る。
「物は、持ってないんだ。それは本当なんだ。……でも、サイトなら、……知ってる。」
「サイト?」ミリアは繰り返す。カイトは恥ずかしさに死にそうになるのを堪えに堪え、声を振り絞った。
「そういう、……サイトがあるんだ。後でメール送るから!」
カイトはそう叫ぶように言うと、ミリアを追い越して走り去った。
ミリアは茫然としながらその姿を見送った。