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リョウは翌日早速S総合病院に足を運んだ。三時間待ちであろうが、四時間待ちであろうが、昨夜の失態を考えれば何の苦もない。ライブ翌日ということもありギターレッスンも休業にしていたリョウは、外来の待合室に腕組みしながらどっかと座り込み、ひたすら考えに耽っていた。
今まで風邪一つ引いたことはない。ミリアが風邪で寝込み、それを看病することはあっても、そのウイルスは自分の体には何一つ影響を及ぼすことがなかった。ひたすら、頑健な身体を自認して生きてきた。デスボイスをレコーディングでほぼほぼ半日間がなり続けたこともあるが、その後中本の激辛ラーメンを食いに行ったぐらいだから、喉は、喉ばかりは、完全に丈夫なのである。
しかし――、とリョウは首を横に傾ける。何やら異物感が、あることは、ある。大体髪に隠れて気付かなかったが、この首の腫れは一体何なのだ。こいつのせいで声が出ないのか。そう思えば掻き毟ってやろうか、千切ってやろうか、焦燥からそんな乱暴な考えさえ頭を擡げてくる。
「黒崎亮司さん。」そこに名が呼ばれた。リョウは救いを求めるように頭を上げ、立ち上がった。
診察室に入ると、同世代かと思われる綺麗な顔立ちをした女医がいた。リョウはユウヤがかかったのはこの人に違いあるまい、デスメタルボーカリスト専門医だな、と思い尊崇の念を深め、しっかと頭を下げた。そうして早速病状を尋ねられ、風邪を引いたかもしれないんですが、喉の調子が悪くて、歌を、その、……怒鳴るようにして歌うことが多くありますと一通り申告を済ませ、指示されるがまま、大口を開け喉の奥を見せた。それから医師は何やら難し気な顔をして右耳の下を摩り、「リンパも腫れていますね。」と呟いた。
「ああ、そうなんです。何なんすか、こいつは。勝手に膨らみやがって。」ほとほと呆れ果てているとでも言うようにリョウは言った。
「熱はありますか。」
「さあ、無いと思います。」
女医は有無を言わせず、体温計をリョウの背に差し込んだ。電子音が鳴る。
「38度。」
「え。」
「高熱がありますよ。だるさはありませんか?」
「まあ、昨日ライブだったもんですから、疲れは、ありますねえ。」
「喉に腫瘍ができているようなので、内視鏡検査をしてみましょう。ちょっと、麻酔かけますね。」恐ろしい文言にリョウが顔を顰めると、「何、痛くはないですよ。麻酔しますから。」と女医は不思議そうにリョウの顔を見詰めた。「さあ。口を開けて下さい。」そう言ってリョウの口の奥めがけて何やらスプレーをかけた。
「深呼吸、深呼吸。」
リョウはその苦みに泣きたくなりながら、自分の声が一切出なくなったことを、そしてそれに伴って浴びせかけられる客の軽侮の眼差しをイメージする。その恐怖に比べればはるかに、マシだと自身に言い聞かせた。
そのまま医師は「では始めますよ。リラックスしてくださいね。」などと言いながら、鼻に管を通し始めた。目の前のカメラにその内部が映し出されていく。
「見て下さい。ここに腫瘍ができていますね。良性、悪性まだどちらかはわかりません。検査に回した方がよいでしょう。」リョウは片目を瞑りながらも必死に、その映像を見遣った。何がどう腫瘍なのか、わかりやしない。
何枚かの写真を撮って、検査は終了した。ちらとこれをどこかのジャケットで使えないかな、と思った。
「この後血液検査を致します。そして今日抗生剤を飲んで熱が下がらなかった場合には、明日もまた病院に来てください。あと、結果が出次第こちらからも連絡をしますので、電話は常に通じるようにしておいてくださいね。」
リョウは何年振りかに腕に刺された注射針の感覚を思い起こし、左腕を摩った。処方された抗生剤とかいう薬を提げ、とぼとぼと肩を丸めてバイクに跨り帰途に着いた。
まだ昼前だというのに、熱のせいだか不安のせいだか、疲弊感が募っていた。自分が一体何に侵食されようとしているのか、不安で堪らなかった。
ミリアはまだ学校である。それがほんの少しだけリョウに鬱屈した心情を晴らさせた。ミリアの前でだけは、どうしたって弱気な顔を見せたくはなかったから。
ただでさえ昨夜はいつまでもいつまでも、「病院に行ってね。早く治って元気なリョウになってね。もう、悲しい顔はしないでね。ミリアがついてるからね。」と延々とりとめのないことを寝床で言い続け、今朝方も勝手に早起きをしては粥を作り、「これから治るまで、毎日お粥作る。」と尋常ならざる決意を述べ、そして鍋いっぱいの粥を作り置きして学校へと向かっていったのである。
リョウは昼飯に、ミリアが今朝作って行った大量の粥を完食し薬を飲むと、そのまま布団に潜って眠りに就いた。これで熱が下がり、腫れも引けば何の問題もないのだ、そう言い聞かせながら。
昨日の疲れもあるのかリョウは妙な時間帯にかかわらず、容易に眠りにつくことができた。夢の中でミリアが泣いている。
「どうしたっつうんだよ。」
ミリアは真っ赤な顔を上げて、「リョウ、ずっとミリアと一緒にいるって、言ったのに。」としゃくり上げながら抗議をする。
「ああ、いるよ。こうして毎日一緒にいるじゃねえか。」
ミリアは再び顔を覆って泣き始める。
「ミリアを一人にしないでよう。」
「一人になんか、してねえだろう。」
しかしその声は届かないかのように、ミリアは更に更に泣きじゃくる。リョウは重苦しさを感じながらミリアを撫でた。「泣くなよ。」ここにいるのに。毎日一緒にいるのに。どうしてミリアは一人にされたと言い張るのだろうか。リョウは苦しくてならない。ミリアを悲しませたくはない。
「リョウ、リョウ。」
リョウは両肩を揺さぶられ、はっとなって目覚めた。
「何で怖い顔して寝てるの。お医者さんなんて言った? 何回もメールしたのに。寝てたのね。」
制服姿のミリアは心配そうに自分を覗き込んでいた。気付けば部屋は薄暗くなっていた。
「否、……。」夢の中のミリアと現実のミリアとが重なって、混乱する。「否、今日は検査してきて、後で結果を知らせるって。」
ミリアは枕元に置かれた薬の袋と説明書とを凝視した。
「……リョウはお熱があったのね。お熱は風邪だから、お粥にしなきゃ。」
いや、粥はもういい、勘弁してくれ、と言おうとしてミリアの真剣な眼差しに言葉を飲み込む。
「寝ててね。お粥作ってくるから。」
リョウは目を瞬かせる。ミリアは颯爽と立ち上がって部屋を出て行った。
リョウは再び目を閉じる。体がだるい。深い底へと引きずられていくような感覚が常にある。早く治して新曲を作り、ギターのレッスンも再開して、自分のギターの練習にも励み、ライブのためのリハも行い、やらねばならないことはごまんとあるのだ。いつまでもこんな病人のような態でくすぶっている訳にはいかない。
やがて隣からは何やら夕飯のいい匂いがしてきた。リョウは夢うつつに何だか幸福な子供になったような気になる。母親か誰かが風邪を引いた自分を心配して、料理を作ってくれている。そんな空想がふわふわと浮かんでいった。そこに障子を開けてミリアがそうっと入って来た。
「リョウ。」枕頭に座り込んで顔を近づける。「大丈夫? ごはんできたよ。」
ミリアは水を使った冷たい掌をリョウの額に押し付けた。「熱い。」とミリアは呻いた。
「お前の手が冷たいからだろ。」
「違うもん。あっついもん。……いいもん。明日、体温計買ってくるから。」
「んなもんいらねえよ。金の無駄。」リョウは不機嫌そうに言うと上半身を起こした。だるさに加え、ふらつきがあった。「畜生。薬の野郎、効かねえ気だな。」
ミリアはああ、と呻いてリョウに抱き付いた。「早く治してね。ここに、ごはん持ってくるから。」
「ああ? いいよ、テーブル行くから。そこまでやわじゃねえよ。」
ミリアは渋々リョウの腕を取り、立たせてやる。
「あのなあ……。」
「ミリアは奥さんだから、何でもしてあげるの。だから、何でも言ってね。」
そしてミリアは甲斐甲斐しくドアを開けてソファに座らせ、少々満足げに微笑んだ。
テーブルに山盛りのピンク色した粥を持って来る。隣に座ると、「梅粥なの。」匙で掬ってふう、と息を吹きかけリョウの口元に運んだ。
「否、自分で食えるから。つうか、お前のは。」
「あ、忘れてた。」
「……半分こな。」
ミリアは失敗したとでも言うように顔を顰めたものの、土鍋から粥を匙に掬ってリョウに突き出す。リョウはミリアを凝視して、強固な意志を有する顔付きであることを確認し、仕方なしにそっと匙に乗せられた粥を啜った。美味である。
「旨いな。」そう呟くとミリアは神妙そうな顔で肯いた。
「早く治してね。そしたらそしたら……、」暫く逡巡した後、「スウェーデン行こうね。」と呟くように言った。
リョウは口を半開きにしながら、ミリアが匙に粥を掬う様を呆然と見詰めた。まだ自分との結婚を諦めていなかったのかと思い成して。
リョウはミリアにも食べさせ、土鍋一杯分の粥を二人で全て胃に納め切ると、今度は額に冷えピタを張り付けられ、頸には何の呪いのつもりか焼きネギを撒いたタオルを縛り付けられ、まだ八時過ぎだというのに「寝てください。」と有無を言わせぬミリアの言葉によって布団に寝かせられた。
「あのさあ、これ、やたらネギ臭ぇんだけど、何なの。」部屋を去ろうとするミリアの後姿に声を掛ける。
「喉が痛くなくなるの。」確信をもってミリアは言う。
「ネギでか? お、……おまじない?」
ミリアはキッと睨んだ。「本当に効くんだもん。……用務員のおじさん、言ってたもん。焼きネギを喉に巻くと、喉痛いの治るんだって。」
リョウは黙って全く眠気なんぞ覚えなかったが無理矢理目を閉じて、そしてやがて、眠りに就いた。そこでミリアを連れてバーベキューに行き、ひたすらネギを焼き続ける夢を見た。今度は少し幸福な夢だった。