19
1クールの抗がん剤治療を終え、リョウは元の病室へと戻った。
しかし想像以上の痛苦に、リョウは心身共に疲弊し切っていた。戻ったその日はミリアが来ても言葉少なで、眼窩も落ち窪み表情も峻哨となっていった。ミリアはしかし、一度病室を出た所でこっそりと涙に暮れた以外には、しっかとリョウの手を握り締め、その日にあった楽しいことをしゃべり続けるのであった。また来週には2クールが始まっていく。まだ抗がん剤治療は始まったばかりなのである。ミリアはせめて明るい笑顔でいようと、楽しい話題を心掛けた。今日体育の時間に、ユリと一緒にダンスを踊った。カイトが勉強を教えてくれて、苦手の数学の小テストで満点を取ることができた。担任の先生が部活の遠征で九州の方に行って、そのお土産をクラス全員に買ってきてくれた。それはそれはおいしいクッキーサンドだった。
それはミリアにとっても必要なことであった。金はなくなり、生活も苦しくなってきた。スーパーで買う頻度と量とを減らしては、たまの撮影の仕事に行っては現場から食べ物を持って帰って来て、そんなもので日々を送っているのである。電気だって極力使わぬようにして、帰っても電気を点けずに寝てしまったり、髪もドライヤーがもったいないので、半乾きくらいでささっと終わりにしてしまったりする。風呂には湯をためず、シャワーだけで済ませている。しかしリョウが一日でも早く退院をしてくれなければ、住む場所さえなくなってしまう。ミリアはそのような極度の緊張を暫し忘却するためにも、リョウの傍で他愛のない話をすることは必要であった。
抗がん剤治療を終えて数日が経過したものの、未だ熱の引かないリョウは辛そうで、ミリアは何度も額に手を当てては気を揉み続けた。
「お熱、辛い?」
リョウはミリアを力なく眺めて、「お前そろそろテストじゃねえの? 帰って勉強しろよ。」と掠れた声で呟いた。
「テスト……。」
「そう。お前の仕事は勉強。あとギターな。」やはり声は酷く弱々しい。
「ここで練習しようかな……。」ちら、と病室を眺める。同室には、白髪頭の痩せた老人と、やたら色の黒い寡黙な老人がいた。
「ダメに決まってるだろ。」声を潜めてリョウは叱った。「何で闘病中に隣のベッドからデスメタル流れてくんだよ、普通の方々の病気がすこぶる悪化しちまうだろが。」
「……そっか。」
「勉強するぐれえなら、許されると思うけど……。」
目を輝かせてミリアはスクールバッグから、幾多もの教科書を取り出した。「教科書持ってる! ここで勉強しようっと。」
リョウは赤い顔を少し綻ばせた、ような気がミリアにはした。「こんな所で集中できんのかよ……。」
「ちょっと静かにしてくれます? お勉強するので。」ミリアは瞼を伏せておもむろに英語の教科書を開き出す。シャーペンを取り出し、小さなメモ帳に何やら単語の練習を始める。
リョウは溜め息を吐いて目を閉じる。隣ではミリアが勉強をしている。そのお陰でいつもリビングにいる時のような錯覚を覚える。
自分は頭を抱えながら、時折ハイテンションになりながら、作曲に没頭している。ミリアはそれに気を散らしながらそれでも懸命に、勉強をしている。「宿題一時間やったら、ギター弾いていい?」などと尋ねることもある。自分は「ああ、いいよ。」と答えてやる。俄然ミリアの筆力には力が籠められていく。ああ、これがリビングだったなら――。
「何か、おうちにいるみたいね。」ミリアが想像していたのと全く同じことを言い出したので、リョウは目を見開いた。
「だって、ミリアが勉強してるでしょ? リョウは宿題終わってからギター、っていうでしょ? そんで、リョウはパソコン向かって作曲してるの。」ミリアは浮き立った気持ちで言った。
「……ああ、そうだな。」リョウはなぜだか目頭の厚くなるのを感じる。これは自分が弱っているからだろうか。それともミリアが悉く自分に共鳴してくれているからだろうか――。
ミリアは暫く満面の笑みで勉強をし続けた。たまに英単語をたどたどしく読み上げるのを、リョウはどんな音楽よりも愛おしく聴く。
「……After listening to a list of words underwater, they came back on land and wrote down as they could remember. ……ねえ、早く帰って来てね。」ミリアの教科書から一切目を離さないままの呟きは、しかし痛切な響きを秘めていた。
リョウは「帰り、てえよ。」と天井を見詰めたまま、思わず泣き言めいた言葉を返す。何より肉体が辛い。高熱は引かぬし、血の巡る度に襲い来る頭痛と吐き気も収まらない。それに伴って精神的にも、落ち込む。絶望を覗き込んで音楽などは一つも浮かび上がってはこなかった。だったらミリアと部屋にいて空想上での絶望を曲にした方が遥かにマシである。
それに――、リョウは言い出せぬこちらの苦痛をどうすれば、解消できるのかそればかりを考え続けていた。すなわち、金がない、ということである。貯金が底をつけば、自分の所持品で価値を有するものと言えばギターしかない。しかしミリアは断固売らないと言い張る。こうなったら、知り合いの楽器屋を呼んで家の鍵を渡し、そして――。
「ねえ。」
リョウはぎくり、と身を震わせた。
「リョウが帰ったら、一緒にギター弾きたいな。」
「……そうだな。」全てが見透かされているような気がして、リョウは目を伏せた。
「覚えてる? いちばん最初、ミリアがリョウん所来た時、ギター選ばしてくれて、弾き方教えてくれたでしょ? そんで一緒に弾いてくれたでしょ? とってもとっても、楽しかったな。」
「そうだったっけか。」
リョウは心にもないことを言いつつ、思念を振り払おうとする。何としても、ギターを売るのである。そうしなければ、ミリアの生活が危ないのである。飢え死にをするやも、しれぬのである。
その後ミリアはリョウが帰ってからあれをする、これをする、とさんざ喋るだけ喋って、面会時間の終了と共に名残惜しくも帰って行った。
リョウは即座に、溜め息を吐いて携帯電話で電話を掛ける。相手は無論楽器屋の知り合いである。
既にリョウが入院をしているということを知っていた楽器屋は、「見舞に行かせて貰いたいと思ってたんですよ。でもリョウさん、無菌室にいるから家族しか会えねえって聞いて……。」と言葉を濁した。
「ああ、ついこの前までな、そこブッ込まれてとんでもねえ治療をしてたんだけど、もう普通病棟に戻ったからさ、一度来てほしいんだ。」
暫くの沈黙が訪れた。
「否、実は、ギターを売りたくて。」
「マジですか。」声は裏返った。
「治療費が結構かかってよお。マジでギター売らねえとおっつかねえんだ。だから、できたら、その、……勉強して欲しいんだけど……。」
「……わかりました。」振り絞るような声であった。「そういう事情であれば、もうずっとギターも機材も世話んなってますし、こちらも頑張らせてもらいます。たしか……、ジェイムズモデルの限定エクスプローラーとか、ありましたよね……。あれも、対象?」
「KingVとミリアのFlyingV以外、全部。」
「え、根こそぎじゃねえすか!」
「また、元気になったら買い戻すよ。」そう言ってリョウはにやりと微笑んだ。「でも問題があって、ミリアが断固反対なんだ。」
「……ああ。」容易に想像が付くとばかりに、力無く楽器屋は溜め息を漏らした。
「でもあいつのモデルの稼ぎも多分もう手ぇ付けてる状態だし、もう、とにかく、色々、限界なんだ。俺の鍵渡すからさ、ちっと嫌な気すっとは思うんだけど、ミリアのいねえ内に、学校行っている内にでも持ってってくれねえか。」
「え、ええ?」
「頼む……。俺はここ出れねえし。また来週には無菌室に入らねえとなんねえんだ。そしたら鍵も渡せねえ。」
「ううむ。」楽器屋は唸った。リョウは得意の上客である。それに音楽家としての才能もずば抜けている。付き合いは十年以上であるし、楽器の購入は無論、ギター、機材のメンテナンスも全てうちで請け負っているのである。数ある客の中でも、最も深い信頼関係を築けている顧客であるというのは明白であった。
「わ、かりました。」男は呟いた。「他ならぬリョウさんの、しかも事情も事情ですから、訪問買取、させて頂きます。そんで、値段出せるだけは出します。」
「済まねえ。」リョウの頬が微かに緩んだ。
「いつお伺いしましょう。」
「できたら今週中。一旦病室来てくれ。704号室。来週からは無菌室行きだから。」
「わかりました。では明日、伺います。」
「おお、済まねえ。じゃあ日中、ミリアが学校行ってる間にできたら、頼む。見つかると色々面倒なんだ。」
「わかりました。」
「本当、済まねえな。」
男は黙した。リョウの覚悟、のようなものを感じ取って。ギターに最大限に値段を付けたとして、それがいつまでの治療費、生活費になるのであろうか。無論リョウの命を救いたい、という思いはある。それが日本のデスメタルの進捗にさえかかわるということを、男は知っていた。とにかく、出せるだけは出さねばならない。多少自分が無理をしてでも。男は下唇を噛みながら、それを知られぬように、電話を切った。
翌日、楽器屋の男は両手では抱えきれぬ程の巨大な果物籠を抱えてやってきた。リョウは顔よりも先に、カーテンの隙間から大きなメロンが顔を覗かせたのに瞠目した。
「うわああおお!」
籠が卓上に置かれた瞬間、ひょい、と幾分汗ばんだ顔がリョウを神妙に見据えた。
「リョウさん。……お久しぶりです。」
「……凄ぇな。果物屋でも始めたんか。何なんだ、それは。」
楽器屋はリョウとほぼ同じぐらいの年齢で、肩まで届く長髪に、草臥れたArch EnemyのTシャツを着ていた。
「リョウさんはうちの大切なお客様すから。八百屋に言い付けて、最強の果物籠作ってもらいましたよ。」
「んな他人行儀な……。でも、」リョウはにっと笑った。「ミリアが喜ぶ。ありがとうな。」
男はきょろきょろと周囲を見回す。
「いや、今は学校だよ。大丈夫。」
リョウは点滴の付いた白い腕を伸ばし、タンスを開けた。そこから鍵を取り出し、男に手渡す。「これがうちの鍵。いつでもいいよ。午前中はミリアは学校行ってるし、夕方一旦帰ってから夜九時ぐれえまではここにいっから。その間でもいい。行って、ギター根こそぎ持ってってくれ。あ、ミリアのFlying V以外な。金は振り込んでおいて、ここに。」そう言ってメモを手渡す。
「……ミリアちゃんに、恨まれますね……。」
「恨まれねえよ。俺がちゃんと言い聞かせるし。あいつ、意地んなってるだけなんだよ。」
「意地、すか?」
「そうそう。ギターを俺の分身か何かみてえに勝手に思い込んで、売らねえって言い張って、でも金はどんどんなくなってって。でも一旦言葉にしちまったモンだから覆せねえ、みてえな。怒ってもそりゃあ最初だけだから。後は俺がきちんと言い聞かすから、あんたは心配しねえでいい。」
「……また、ミリアちゃんとうち、遊び来て下さいね。試し弾きでも冷やかしでもなんでも。」
「ああ、行く。」リョウは苦笑する。「ミリアとはしょっちゅう喧嘩はしてても、仲はいいんだ。」
「知ってます。……で、治療はまだ結構かかるんすか。」男は一番聞きたかったことを遂に口にした。
「とりあえず抗がん剤治療始まったばっかだからな。あと一か月はまたあそこ出たり入ったりだな。」
「みんな、待ってます。」男はそう言って身を乗り出した。「シュンさん、アキさん、それから他のバンド連中も、みんなリョウさん戻ってきたら、あんなライブやろう、こんな飲み会やろうってそんな話題ばっかりだし。」
リョウは苦笑を浮かべる。「あいつら、飲むことばっか考えてやがんな。」
「あと、ラーメン。」
リョウは声を上げて笑った。「ミリアは毎日がんに効く食事っつうのを作って持ってくるんだけど、肉もビールもラーメンもダメだっつうんだよな。」不思議と全く食べたいと思えないそれらの名称を、あたかも愛おしそうにリョウは発した。それらを仲間と飲み食いする、あの日の自分に束の間でも戻った感に浸れるのは幸福なことであった。
「行きましょう行きましょう。」男はそう言って頻りに肯く。「退院したらお祝いに、是非。」
「そうだな。」リョウは幸福そうに頬を弛ませた。「そのためにもよお、頼む。ちっと、……その、買値さあ、上乗せしといてよ。」
「勿論す。今まで散々世話んなってる訳ですから、そこは、絶対。約束します。どの子もこの子もうちでバッチリメンテしてるんで、そんじゃそこらのやつとは比較になんねえですよ。状態は最高なんで。」
リョウは「よろしくな。」と笑んで布団の中からそっと手を差し出した。男は一瞬目を見開いたものの、すぐに手を取り、固く手を握り締めた。その手は想像以上に暖かく柔らかかった。いつしかこの手があの強力かつ攻撃的なリフを、ソロを、奏でられるようにと、それだけを真剣に、心から、祈った。