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「気を付けて行ってらっしゃいましね。」ジュンヤの母親はすっぽりと星空のカウボーイハットを被ったミリアの両肩に手を置き、目を潤ませた。「お水は必ず瓶に入ったものを飲んで。テロなんかもありましたから、夜はホテルから絶対に出歩かないように。大通り以外には行ってはなりませんよ。」
「うん、大丈夫。……おばあちゃん、白ちゃんのこと宜しくね。ミリアがいなくて寂しくしてたら、頭と喉を人差し指で優しく撫でてあげてね。」
「ええ、ええ。わかりました。大丈夫ですよ。」
ミリアは微笑んだ。
「じゃあ、行ってきます。」
庭先からリョウのバイクの音が聞こえ出す。ミリアは玄関でヘルメットに替え、カウボーイハットを手に駆け出していく。「お待たせ!」
「じゃあ、行ってきますね!」リョウは玄関先で二人を見詰めているジュンヤの母親に向かって手を振って、そして走り出した。
風は温く、空は澄み渡っていた。この切り取られた都会の空はしかし遠くフランスまでも続いているのだ。そう思えばリョウは、ただでさえ募り来る興奮が抑えきれなくなってくる。
「リョウ、楽しみ?」赤信号で止まった時、ミリアが後部座席からにこりと微笑んで尋ねた。
「たりめえだろ。」リョウもちらと後ろを見遣って微笑む。
「ミリアはね、すっごい楽しみ!」
リョウは声を上げて笑ってバイクを走らせた。
次第に空港が近づき、大きな飛行機が次々に空へと昇って行った。ミリアはそれを見るたびに歓声を上げ、リョウも何だか楽しくてならず笑いが止まらなくなった。空港の近くにバイクを停め、手を繋ぎながら空港に入ると、そこにはシュンとアキが既に待っていた。
「お前ら何だそれ、近くのコンビニでも行くんか。」
「だって昨日の内にお荷物送っちゃったもの。」と言って、ミリアは自慢げに猫型のポシェットを振り回した。
四人は互いにチケットとパソポートを確認し合いながら、搭乗口へと向かって行く。例の如くミリアは土産店を逐一興味深げに眺め、眺めするので、シュンに背を押されながら進んで行く。
「まあ、可愛い猫ちゃん。この子ってば特に白ちゃんにそっくり!」店先に置かれた巨大な招き猫にミリアは歓声を上げた。
「招き猫はもういらねえからな。」前方を歩いていたリョウにそう釘を刺され、ミリアは眉根を寄せる。
「あんなどでけえのじゃなくて、こっちの小っちゃいのにしとけ。小っちゃいのなら大丈夫だ。」シュンに耳打ちをされて、ミリアは再び目を輝かせる。
店内のガラス棚には小さな招き猫がたくさん並べられていた。「手乗りサイズがますます白ちゃんにそっくり!」ミリアは嬉し気にシュンに囁いた。
「そんぐれえならリョウも文句言わねえだろ。……でもお前、空港来るたんびに猫飼ってたらあの豪邸、猫屋敷になっちまうぞ。」
「いいの。」ミリアは財布から小銭を取り出し、小さな招き猫を買った。「元々そういう予定なの。」
「は? 予定?」
「おい、早くしろよ!」遥か前方からリョウに呼ばれ、ミリアは小さな紙袋を店員から受け取ると同時にそそくさと歩み出す。
「……あのね、ミリアね、小学生の頃、授業参観でね、リョウと一緒におうちのおもちゃ作ったの。」小走りになりながらミリアはシュンに囁いた。
「へえ。」
「お菓子の箱で、おうち作って、テーブルとか椅子とかベッドとかも作ったの。」
「あいつ、そんな父親みてえなことやったんか。似合わねえな!」
「似合うよ。似合う、似合う。……そんでね、ミリアたちの作ったおうちどうなったと思う?」ふふ、とミリアは微笑んだ。
「何だよ。」
「あのね、ギターと猫ばっかしのおうちが完成したの!」
「あはははは、お前ららしいな!」
「それでね、他のお友達のも二階建てだったり、お庭にプール付いてたり、風見鶏が本当にくるくる回るやつだったり、素敵だとは思ったたんだけど、でも、ミリアは自分のおうちが一番素敵って思ったの。いつか絶対リョウと一緒にこういうおうちに住むんだって思ったの!」
「ギターばっかり、は叶ってるな。」
「ううん、だって、ホンモノ猫の白ちゃんが一匹でしょう? リョウに買って貰った猫のお人形はいっぱいおうちにあるし、招き猫もほら、これで二匹。これからどんどん海外からのオファーが来て、ヴァッケンだって行くんだから、もっともっと増加していくのよう!」
「じゃ、お前の願った通りの家に住めるようになったっつうことか。」
「そうなの。……あのね、こんなこと言ったら変かもしんないけど、ミリアね。」と言って背伸びをしてシュンに耳打ちする。「自分がこうなって欲しいなって思ったこと、全部叶うの。」
「マジか、凄ぇな!」
「うん。」ミリアは深刻そうに肯いた。「だってね、最初のパパが死にますようにって思ったのもそう、リョウと一緒にいたいって思ったらバンド入れてくれたし、結婚したいって思ったら社長とアサミさんが結婚式準備してくれて、猫ちゃん欲しいも叶って、そんでそんで……。」
シュンはさすがにごくり、と生唾を呑み込んでミリアに尋ねた。「……ちなみにお前が今願ってることって、あんのか。」
「リュウちゃん。」
「リュウちゃん?」
「そう。リョウとの赤ちゃん。」
シュンは口をあんぐりと開けて足を止めた。目を瞬かせる。「……ま、待ってくれ。それだけは……。あの……、まあ、お前らの思いも尊重はしてえが、っつうかそれが一番なんだが、その、今は海外に打って出る、そういう時期なモンで、……。」
「今すぐじゃあないわよう。」ミリアは眉根を寄せて答えた。「ちゃんと大学卒えて、それからのこと。」
シュンは胸を撫でおろす。「なあんだ。」
「うふふふ。」
「じゃあ、リュウちゃん一号から十号ぐれえいてもいいや。」
「十号!」ミリアはぱちんと両手を叩いた。
「まあ、お前の産休期間ぐれえヘルプ入れてやるわ。リョウがまた昔みてえにブチ切れるかもしんねえけど、まあ、しょうがねえだろ。どうせ世界中探したとことで、お前以外に満足できるギタリストなんざいねえんだから。」
「うん。」ミリアは嬉し気に微笑む。
「お前ら早くしろよ! もう搭乗口入るぞ!」リョウに叫ばれ二人は微笑み合い、走り出した。
エンジンがかかり、心地よい振動に身を齎せかける。ミリアはポシェットから先程買った小さな白い招き猫を取り出して、笑顔でそれを見詰めた。
「また猫買ったんか。」隣の席でリョウがつまらなさそうに言った。
「そう。この子白ちゃんに似てるでしょう? それに、おうち、ギターと猫だらけにするんだもん。猫いっぱい必要。……リョウ、覚えてる? 前授業参観で一緒におうち作ったでしょう? ギターと猫だらけのおんもしろいおうち!」
リョウは瞠目してミリアを見下ろした。入院をしていた時、どこからか引っ張り出して持ってきたあのドールハウス。たしかに今の家とあれはそっくりであったと今更ながらリョウは驚嘆したのである。
「ミリアね、他の誰のおうちよりも一番ミリアたちのが素敵だと思ったよ。その時にね、将来絶対リョウとこんなおうちに住むって思ったの。絶対。」
リョウはミリアの瞳を食い入るように見つめた。なぜだろう。ミリアが口にする言葉はどんなにも非現実的であり、非科学的だとしても信じ込ませてしまう何かがある。全ての思いを叶えるのだと言っても、とても一笑に付すことはできないのである。
「だから夢のおうち、叶ったでしょう?」
「そう、だな……。」
リョウは一層真剣にミリアの瞳を見つめた。真っ直ぐでキラキラと輝く眼差しを。これが神に愛されるということなのか、と妙な思考さえ入り込んでくる。
離陸を告げるアナウンスが入った。機体がゆっくり、ゆっくり、動き出す。
「ミリアね、今、うんと幸せなの。もちろんパパがいないことも園城さんがいないことも悲しいし、昔、前のパパに痛いことされたことも一生忘れらんない。でも今はリョウの夢をリョウと一緒に追っていけるから、やっぱし凄い幸せなの。」ミリアは懸命に訥々と話し続ける。「リョウの夢はさ、まだ見ぬ精鋭たちに自分の音楽を届けることでしょう? それが台湾でも、アメリカでもフランスでも叶って、これからもきっと世界中のあっちこっちから来て下さいって言われて、そんでそんでヴァッケンからも来て下さいって言われることでしょう?」
機体が速度を増していく。
「……そうだな。」しかし胸中では果たしてそれだけが自分の幸福なのかという疑念が渦巻き始めた。そこにミリアがいて、シュンやアキもいて、そしてジュンヤや園城が自分を応援してくれているからこそ、幸福の、というよりは幸福を目指す為に必須である確固たる土台が築かれていると言えるのではないか。そう思い成し、リョウの表情はふっと緩んだ。
「何で笑ってんの?」すかさずミリアが問うた。
「お前が……否、お前らが、」リョウは両脇を見て言った。右にはミリアが、左には口を挟まずに黙って耳を傾けていたシュンとアキがいる。「それから、ジュンヤさんや園城さんも、俺を信じていてくれてるってことが、俺が海外公演やらヴァッケンに向かって生きていくために不可欠なんだって思って。」
それを聞いた三人は微笑み合った。
リョウは右手でミリアの星空のカウボーイハットを取り上げ自分で被り、左手でポケットの中に忍ばせた園城のピックを握り締めた。
走り出した機体はスピードを上げて離陸し、四人を乗せて遥か上空目がけて一直線に飛び上がった。