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家に戻ると既に作業が住んだのか、若者二人がリビングでジュンヤの母の出した豪勢なティーセットを前に身を固くしていた。
「買ってきましたよ。」リョウは茶葉をビニールごとジュンヤの母に突き出した。
「まあ、まあ、ありがとうございます。今お紅茶淹れますからねえ。さあ、リョウさんもそこに座って。」そう言って慌てて台所に身を引っ込める。
子猫はリョウの胸元で頻りに鳴いている。
「みゅう! みゅう!」
ミリアは先程から忙しなく周囲を見回していた。とてつもなく気になる声がするのである。
「ああ、そうだ。お前の土産はこっちな。」リョウはそっとハンカチに包まれた子猫を手渡す。ミリアはリョウの掌の中から覗いた小さな猫の頭を見て、口許を両手で押さえ、震え上がった。
「何だよ。いらねえのか。」
ミリアは慌てて両手を差し出した。そこにちょこん、と猫が乗せられる。
「ふううわあああ。」声にならぬ声を発しながら、ハンカチを取りそのあまりに小さく、あまりに精一杯な猫の全身を、ミリアは至上の宝物であるかのように見詰めた。
「ミリアの言うこと聞くかっつったらちゃんと聞くっつうからよお、連れてきてやった。」
ミリアの双眸が滲み出す。
「コンビニで捨てられてて、そこの店員から世話するやつも貰ってきた。これな。」リョウはテーブルの上にどさりとビニール袋を置いた。
「猫、ちゃん。本物の……猫ちゃん。」
感極まった声を聞いて、泣くのではないかと思い、リョウは自ずと視線を外した。そこにジュンヤの母が戻って来る。
「まあ、まあ、ミリアちゃん、それどうしたんです?」
「リョウが、……リョウが。」ミリアは涙声で呟く。
「みゅう! みゅう!」
ミリアは滲んだ瞳で元気よく鳴き続ける猫を凝視する。
「わあ、随分小さいですねえ、まだ生後数日とかじゃあないんですか?」引っ越し屋の若者がそう言って猫を覗き込んだ。「うちにも親子猫いるんですけれども、きっと三、四日とかそのくらいですよ。そのぐらいで母猫から離されてしまうと、お世話大変かもしれないですけど可愛がってあげてくださいね。あ、……この中、子猫用のミルクも入ってますね。これ飲ませてあげるといいですよ。人間用のミルクはお腹下しちゃうんで。」
「うん。うん。」ミリアは頻りに肯く。「あなた、猫ちゃん好きなの?」
「ええ。うちに今、四匹いますよ。」
「ええ! すっごい! ミリアもね、猫ちゃん大好きなんだけど、飼ったことはないの。あのね、力荘はペット禁止だったから。ねえ、この子どうしたらいいかしら。」
猫好きの引っ越し屋は色々とミリアにレクチャーをし、ミリアはミルクの飲ませ方やら、おしっこの出させ方を学び、請うて茶どころではなく昼食まで共にさせられ帰って行った。
それからもミリアは教わった通りに手作りの猫じゃらしを作ったり、寝床を拵えたりしながら一日中猫に没頭した。夕方、ようやく猫を寝かしつけると、ミリアは何やら物々しく部屋で書き物をし、夕飯後ギターを弾き始めたリョウの前に数枚の半紙を携えやって来た。
「猫は元気か。」
ミリアは深々と肯き、「相談があります。」とやけに丁寧な口調で宣った。そういう口調になる時には何かミリアなりに大きな思惑のある時であって、リョウはギターを弾く手を止めて眉根を寄せて尋ねた。
「……相談? 何の。」
「猫の名前。」
リョウはあっは、と豪快に笑い、「別に俺に相談しなくたっていいだろ。お前の猫なんだからお前の好きに呼べよ。」と再びギターを爪弾き始める。
「でも家族ですから。リョウにも考えて貰わないと困ります。」と言い、ミリアは一枚の半紙を見せた。
――リャージ
リョウは顔を顰める。
「何か、……俺に似てねえか?」
ミリアは深刻そうに肯いた。「うん。リョウはリョウジでしょ。そんでミリアに赤ちゃんが生まれたらリュウちゃん、リュウジにするでしょ。そしたら残りはもうリャーちゃん、リャージしか残ってないの。」
赤ちゃん、の単語にぎくりとしながら、リョウはどうやってこの案を却下させるかのみに全ての思考を費やした。と同時に、相談をしてくれて、突然こんな名で呼び始めなくて良かったと安堵せずにはいられなかった。
「あとは……、」ミリアは次の半紙を見せた。
――白ちゃん
「ああ!」リョウは中腰に立ち上がり、「それがいいじゃねえか! 何せ白いんだからよお! 白いからには白だろ! ほら、動物病院とかで茶色猫とか黒猫とかと間違えられずに済むじゃねえか! 白ちゃん! 最強にいい名前だ!」
ミリアは目を見開きながら「そうかなあ。」と呟き、まじまじと下手糞な自分の「白ちゃん」の字を見詰めた。
しかし愛するリョウに言われれば確かに「最強にいい名前」のようにも思われてくる。ミリアは頬を紅潮させ、「じゃあ、白ちゃんにしよっと。」と機嫌よくリビングを出て行った。リョウは安堵の溜め息を吐いた。
猫はミリアに甲斐甲斐しい世話を受けながら日々成長していった。そのせいで猫も家中ミリアの後ろをすかさず付いて回る始末となり、寝室やリビングはともかく、トイレ、風呂にまで闖入しようとする姿に、リョウは流石に苦言を呈した。
ミリアが入ったトイレの前でみゅうみゅうと鳴き続ける猫を引っ掴み、自分の顔の前に持ち上げると「お前な。」と、リョウは顔を顰めて滾々と言い聞かせた。「お前な、自分を猫だと思って何でも許されると思ってんじゃねえよ。人ならな、捕まるぞ。お縄だ。わかるか?」
「みゅう! みゅう!」白猫は必死に訴えるが如く鳴き喚く。
リョウは訝し気に猫を睨む。
「ちっとも解ってねえだろ。お前、仮にだ。俺が女子トイレに入ろうとしたらどうなると思う? 牢屋にぶち込まれて、終ぇだ。てめえはおんなじことやろうと思ってんだからな、ちっとは反省しろよ。」
「みゅう! みゅう!」
「白ちゃんに何言ってるの。」ミリアが手を拭きながらトイレから出て来る。
「だってよお、こいつ酷ぇじゃねえか。モラルっつうもんが分かってねえ。便所だろうが風呂だろうがお前の後引っ付いて回ってよお。」
「だってしょうがないじゃないのよう。まだこの子赤ちゃんなんだし。」と言ってミリアはリョウの掌から白猫を引っ手繰る。「ママの後ろを付いて回るのは仕方ないわよう。だからリョウも優しくしてくれないと困ります。本当に赤ちゃんが生まれたらどうするの。赤ちゃんに怒ったってしょうがないでしょうよう。」
リョウは唖然として目を瞬かせた。
「ねえ、白ちゃん。そろそろミルクの時間だわねえ。それをミリアに言いたかったのよねえ。リョウはすーぐ怒ってばっかしで、困りますねえ。」
そのままミリアは猫を台所に連れて行った。
リョウはミリアの発言に暫しその場を動けなくなった。ミリアは、本当に、自分との間に子を欲しているのであろうか。無論、冗談を言える程ミリアの知能が発達してないことは解っている。だとすれば本気で自分との間に子どもを考えているということになる。
遠く、みゅうみゅうという鳴き声が聞こえて来る。ごくり、とリョウは生唾を呑み込んだ。
たしかに兄妹ではないということが判明した訳であるが、戸籍上はそうはなっていない訳で、子供などが出来た暁にはどうなってしまうのか。勝手に名前まで考え、何だか知らぬが男児が生まれてくると信じて疑っていない。今はまだ大学生であるからよいものの、卒業したらどうなるかはわかったものではない。
リョウは否、まだ具体的に考えるのは辞めようと頭を左右に振ってリビングへと向かった。
「白ちゃんのご飯が終わったら人間ちゃんのご飯にしますからねー!」
台所から元気いっぱいなミリアの声がした。