158
引っ越しの手配は即座に整った。
ジュンヤの母は東京滞在を延長させ、引っ越しの手伝いをすると言って聞かない。
「大丈夫だわよう。」ミリアが説得しても、ジュンヤの母は「食器の出し入れだの、引っ越し屋さんへのお茶出しだの、女手が必要なこともありますでしょう。ですからお手伝いさせて下さいましな。リョウさんがここに来て下さることを決意して下さった、そのご恩に報いるためにも。」そう真剣に告げる様からは、ジュンヤの頑固さは母譲りに相違ないとリョウはもう、説得を諦め遂に「お願いします」と頭を下げたのである。
そして引っ越し当日となった。屈強そうな若者二人がやってきて、次々に荷物をトラックに運んでいく。
「あのねえ、これはミリア自分で持って行くから、いいの。」と言って触れることを許さなかったのは、例のカウボーイハットである。リョウは何がそこまで愛着を持たせているのかはわからなかったが、口出しはしなかった。
段ボール数個を運び終え、部屋に戻ろうとする時、二十年住んだこのアパートは間もなく取り壊され、ここに戻ってくることはもう二度とないのだと思えば、リョウは胸の奥に苦しいような、もの悲しいような、凝りを感じた。
思えばミリアと出会ったのも、ここである。小さな少女が自室の前で眠りこけているのを見た時は、一体何の間違いであるかと恐懼さえしたものである。まさかその幼子が成長し、自分の隣でギターを弾き、雑誌モデルとなり、妻となり、病に倒れた自分を支えてくれるなど全く思いもしなかった。
リョウは湧き上がる数々の思い出に、嘆息を吐いた。
「どうしたの。」段ボールを抱えながら部屋から出てきたミリアが言う。「ぼうっとして。」
「いや……。」リョウは苦笑を浮かべる。
「ここでずーっと暮らしてきたんだものね。ミリアがリョウに会ったのも、ここ。」ミリアはにっこりと微笑んだ。
「あの時、リョウはどう思った?」
「あの時?」
「ミリアが最初にここにいた時。」
リョウは暫し逡巡して、「何かの間違いだろって思った。そんで寝てんの見て、どうすっかって、結構本気でビビった。なんつって起こしたらいいかとか。っつうか誰なのかとか。」と言った。
ミリアはくすくす笑い、「ミリアはね、あの時、お兄ちゃんってどんな人かもわかんなくって、どうしよどうしよって思ってて、でも疲れてて、……そんで寝てたの。」
リョウは改めて錆び付いた手すりと、狭い階段を見詰める。
「ここでギター教えてもらって、リョウのこと大好きになって、喧嘩もして、……楽しかったね。」
「悪ぃモンじゃあなかったな。」
「ううん。」ミリアはリョウをじっと見上げ、「そういうのは『幸せ』だったって言うのよ。」と囁くように言った。
「ジュンヤも喜んでおりますはずです。」ジュンヤの母親は屈強そうな引っ越し屋の若者二人が家の中を忙しなく往来する中、感涙しながら言った。「お厭だとは思うのですが、ジュンヤの仏壇はこちらに置かせて頂いて……、」
「お厭じゃないの。全然お厭なんかじゃあ。ミリアまいんちパパに手合わせるんだから。」
「そんなに優しい言葉を言ってくれて……。」更に溢れ出す涙を拭う。
「あの……、マジでいいんすか。その、……家賃……、」リョウは老婆に小声で囁く。
「何言ってるんです。お引っ越し代だってこちらが負担すると申しましたのに。」
「否、それは向うの大家さんがですねえ、自分の都合でアパートぶっ壊すんだから引っ越し代は出すっつうんで、甘えさして貰って……、」
「あなたならば、ジュンヤのギターの価値もお分かりになるのでしょう? ご迷惑かとは思いますが、是非こちらも手元に置いて頂いて……、」
「ああ、ああ、解りますよ。家一軒立つんじゃねえかっつう金額っすよ。あんなの持ってステージ出た日にゃあ、みんな暴れるよりひれ伏しちまう。」リョウはやけになって言った。
「じゃあ、どんどんひれ伏させてやってください。ですって、あなた方はこれからどんどん世界を舞台に、音楽活動をされていくのでしょう?」
「そう、したいもんですね。」リョウは精悍な感じに笑った。「来月はフランスでのライブが決まってて、その後もちら、ほら、依頼は来てます。もちろん日本拠点であることに変わりはないですがね。」
ジュンヤの母親はかさついた頬を綻ばせた。「ミリアちゃんも、世界のミリアちゃんになっていくのでしょうね。」
「そうすね。こいつにはジュンヤさんの血が流れてますから、才能はお墨付きだ。ゆくゆくは世界的ギタリストになんでしょうよ。」まんざら口先だけではなくリョウは言った。
ミリアは頬を紅潮させ、身をくねらせてリョウの腕をぶち、そこで「……ああ、そうだ。」と何かに思い至った。ミリアはこればかりはと自ら持ってきたギターの上に置いた星空模様のカウボーイハットを胸に抱き、周囲を見回す。
「まあ、綺麗なお帽子。星空の柄なのねえ。珍しいこと。」
「あのね、これね、パパへのお土産なの。パパにミリアとおんなし風景見て貰いたくて、アメリカにいた時、ステーキ食べてる時もライブやってるも全部一緒にいたの。」
うう、とジュンヤの母親は呻き始める。
「おばあちゃん、泣かないでね。パパはミリアの一番近くにいてくれるって言ったよ。それってお仏壇の中にいて、まいんちミリアのこと見てくれるってことだと思うの。だからおばあちゃんもおうち遠いけど、ここにしょっちゅう、しょっちゅう、遊び来てね。パパもそしたら嬉しがるから。」
耐え切れず、老婆は腰を屈め泣き出した。「こんないい子が、こんないい子が、ジュンヤの子で、なんてなんて幸せでしょうよ。ありがとうねえ。ありがとうねえ。」
ミリアは祖母の背を優しくぽんぽんと叩くと、カウボーイハットを抱え、すたすたと奥へと歩いて行った。
「済みませーん。このベッドは二階上がって右側の寝室でいいんですよね。」引っ越し屋の若い男がミリアの背に訊いた。
「うん、そうなの。大事に運んでね! 宝物なの!」
「了解でーっす!」
ミリアは廊下を歩み突き当りのレコーディングルームへと入った。ミリアはその壁に掛けられた古びたカウボーイハットの隣に、星空模様のカウボーイハットをそっと掛けた。その時茶色のカウボーイハットに手が当たり、中から一枚の紙片が落ちた。ミリアはしゃがんでそれを不審げに拾い上げた。
四つ折りにされた何の変哲もない紙である。楽譜か何かと思い、ミリアはそっとそれを開いてみた。するとそこには「ミリアさんへ」という文言が弱々しい字体で記されていた。ミリアは半身を折るようにしてそれに見入った。
ミリアさんへ
今日は家に来てくれて、たくさん話をしてくれて、一緒にギターを弾いてくれてありがとう。とても楽しかった。夢みたいな時間でした。
ミリアさんのことをもっと知って、自分のことももっと知ってもらいたいけれど、そんな時間はもう残されていない。だから今日の思い出をずっと大切にします。自分の人生の終わりに、神様から特別な贈り物が届けられたのだから、大切にしなくては。
ミリアさんが娘で、僕は世界一幸せです。父親としてできたことは一つもなかったけれど、ミリアさんの幸せを誰よりも祈っています。リョウさんと一緒に、世界一幸せになってください。僕はあなたに幸せにしてもらったから――
途中であるのか、その後、紙片の下半分は何も書かれていなかった。字体は所々薄く歪んで、読みにくい。しかしミリアは震える手でその手紙を折りたたむと胸に抱き、そのまましゃがみ込んだ。外泊許可を得て戻って来たあの時、請われてリョウと一緒に遊びに来た時に、書いたのだ。どうして直接自分に渡してくれなかっただろう。――それを完成させる間もなく体調が悪化し、病院に連れ込まれてしまったのだということに気づいて、ミリアの双眸からは涙が零れ落ちた。でも、どうして帽子の中に隠しておいたりしたのだろう。もし今偶然に気づかなければ、ずっと忘れ去られたままだったのではないか。しかし、ミリアはあの日、ジュンヤと喋り続け、自分がカウボーイハットの話にやけに興味を持ち、質問攻めにしたことを思い出した。気に入らないものを、買ってしまったからという理由で三年間も身につけ続けたジュンヤがなんだか可愛くてならなかったのだ。ジュンヤは一緒にギターでセッションを行った後、リビングに移動して、そこでも更にカウボーイハットの話をもっと聞きたがったものだから、自動の車いすでわざわざレコーディングルームにミリアを連れて話をしてくれたのだ。もしかしたら、自分が帰った後、思い出を反芻すべくもう一度ここに来て手紙を書いたのかもしれない。ミリアはそう思うと溢れ出る涙が余計に止まらなくなった。
「何やってんだー。お前のベッドの搬入終わったみてえだぞ。見て来いよ。」そこにリョウがやって来る。
ミリアは瞼を拳で拭って、無言で手紙を開いてみせた。
「何だこりゃ。」
「お手紙。パパからの。」
「俺が見ていいんか。」
「……いい。」
リョウは大切そうに紙片を受け取り、視線を落とした。暫くの沈黙が訪れる。
「……ジュンヤさん。お前のことを本当に愛してたんだな。」
「うん。」
「お前は幸せ者だよな。」
「うん。」
「だから今度は幸せを分け与える側に、なんねえとな。」
ミリアははっとなってリョウを見上げる。
「難しいことじゃねえよ。お前は既にやってんだ。全力でライブ挑んでよお、人生で一番辛い時でさえお前は、這い上がる様を客に見せつけられたんだ。俺はお前がいてくれりゃあ世界も余裕だなって思えてきた。」
ミリアは信じられないとばかりにリョウを見詰めた。
「何だその顔。ジュンヤさんだってそうだそうだっつって肯いてるぞ。ほら、そこで。」
ミリアは慌てて振り返った。そこには古びたカウボーイハットと星の輝きを放つカウボーイハットが揃いで二つ、仲良さげに並んでいた。
「リョウさーん、ミリアちゃーん。」リビングの方からジュンヤの母の呼ぶ声がし、二人はレコーディングルームを出た。ミリアの手には手紙がしっかと大切そうに握られている。
「搬入がそろそろ終わるようですから、こちらでお引越し屋さんとお茶にしましょう。美味しいケーキを買って来たんですよ。」ジュンヤの母は美しい微笑みを浮かべて、猫脚のダイニングテーブルの上に、三段重ねのケーキスタンドを置いた。「これね、駅前のお店で買ってきたんですよ。とっても美味しいんですの。さすが東京っていう所は、色々なお店があるものですねえ。ジュンヤがいる内にもっと遊びに来るんでしたわ。」
そんな愚痴を微笑みながら口にし、小さなマフィンだのシフォンケーキだの、それにリンゴにイチゴといった果物が次々に載せられていく。
「おばあちゃん、すっごい! まるでお姫様用みたいじゃないのよう!」ミリアは目を丸くする。
「ミリアちゃんはお姫様だもの。」老婆はくすくすと笑い、紅茶を淹れようと小瓶を取り出し、「あら厭だ。お茶っぱ切らしてたわ。どうしましょ。」と頓狂な声を上げた。
「買ってきますよ。」リョウが言って立ち上がった。「まだ俺の持ってきたアンプとか、レコーディングルーム入れて貰ってねえし。そんな高級なモンじゃなきゃあすぐそこのコンビニでも売ってるだろうから、バイクでひとっ走り行ってきますから。」
「まあ、まあ。申し訳ございません。切らしているなんて思いもせずに……。」
「お前は、なんか欲しいものある?」ミリアに問うた。
「ううん。」と言ってから暫く考え込み、「猫ちゃん。」と満面の笑みで答えた。
「はああああ?」
ミリアは照れたように身をくねらせた。
そういえば、いつだってミリアに欲しい物を尋ねるとこの答えが返って来るのであったと、リョウは今更ながらげんなりとして無言で鍵を引っ掴み、玄関を出た。日差しは既に夏のそれとなり、攻撃的といっていい刺激を与えてくる。こんなリフが必要だ、とリョウはちらと思った。
庭先に停めたバイクに跨り、そして自宅となった豪邸を見上げた。たしかにこれだけ大きな家であれば十匹や二十匹の猫なんざ、容易に飼えるであろうとも思える。それが自分の努力や実力とは完全に無関係な箇所から齎されたことは不如意ではあるが、ミリアとその祖母がそれで幸福を感じてくれているのならば、それはそれでいいことなのかもしれないと思いなし、リョウは溜め息を吐いてアクセルを吹かし出発した。
近くのコンビニまではすぐである。リョウは目当ての紅茶葉と、それから一応ミリアが欲しいと言っていた猫の付いたハンカチタオルを偶然発見してそれを買い求めて店を出た。
ヘルメットを被り座席に跨ると、突然甲高い赤子の声が足下から聞こえたので、リョウは慌てて下を見た。するとそこには小さな段ボールがあって、やはりそこから赤子の泣き声は聞こえて来るのである。ごくりと生唾を呑み込んで中を覗き込むと、暗がりの中で白い毛玉のようなものが見えた。
「本当に困りましたよ。」箒を手にゴミ箱の清掃に励んでいたコンビニ店員が、そう背を向けたまま不機嫌そうに呟いた。「こんなの勝手に捨てられてしまって。貰い手募集の張り紙なんて出した所で誰も貰ってはくれません。」
「……な、何すか、これ。」
「生まれたばかりの子猫です。眼も開いていないこんな小さなのを、昨日知らない内に突然よりによってうちに捨てて行かれてしまって。……店長が一匹、それからいつも来て下さる常連のお客さんのおばあちゃんが一匹持って行ってくれたものの、あと一匹どうしても貰い手がつかないんですよ。そりゃあそうですよねえ。この辺はペット禁止のアパートも多いですから。……で、店長とも相談したのですがいつまでも飲食も扱っているうちで預かることもできませんので、明日には保健所に来てもらうことにしようと……、」
「俺が貰う。」リョウはそう低く即答した。
店員は驚いてそこで初めてリョウを見上げた。見れば真っ赤な長髪をした男である。こんな反社会的な身なりをしていた男に自分は話し掛けていたのかということに気付き、自ずと口が半開きになる。
リョウはバイクを降り、段ボールの前にしゃがみ込むとそっと中から小さな白猫を取り出した。それは本当に小さかった。白い毛というよりピンク色の膚が透けており、開かぬ目であちこちに顔を向け必死に鳴いている。リョウは掌に乗せ、目の前でまじまじと見つめた。
白猫は急に明るい場所に持ち出された不安に、盛んに鳴き喚く。「みゅう! みゅう!」
「お前……、マジで小っちぇえなあ。ミリアが最初にうちに来た時ぐれえに小せえじゃねえか。」ピンク色の口を大きく開きながら、何かを求めるかのように鳴き続ける子猫をリョウは更に凝視した。「お前、……小っちゃくてもミリアの言うこと、ちゃんと聞けるか?」
「みゅう! みゅう!」
「ミリアと、ちゃんと仲良くやっていけるか?」
「みゅう! みゅう!」
「猫に二言はねえな?」
「みゅう! みゅう! みゅう! みゅう!」
「……よし。」リョウはにやりと不敵に笑んだ。「じゃあ今日からお前は黒崎家の一員だ。」リョウは今し方ここで買ったばかりの猫柄のハンカチを袋から取り出し、それで白猫をそっと包み込むと、胸ポケットに押し入れた。
「あの……。」店員が恐る恐る尋ねる。
「ああ。こいつは俺が貰う。保健所には来ねえでいいって連絡しといてくれ。」
「え? ええ?」
「何だダメなんか? 赤っ髪だからダメなんか? 赤っ髪は猫を飼っちゃいかねえっつうルールでもあんのか?」リョウは凄んだ。
「い、いえ、とんでもない。ちょ、ちょっとお待ち下さい。」店員は全速力で店内に戻り、ビニール袋を差し出した。覗き込むと、そこには猫用のミルクやら猫砂やら、毛布やらが入っていた。「最後の子猫、……宜しくお願いします。」
リョウは目を瞬かせた。「ありがとよ。……心配は無用だ。俺の妻は相当な猫好きで、ずっとアパート暮らしだったもんだから飼えなかったんだが、今日からこのすぐ近くの一軒家に引っ越してな、猫を飼えることになったんだ。お前名前は――?」そう言ってリョウは身を屈めて青年の胸元に飾られたプレートを見た。「大島さん、か。……じゃ、大島さん、また、来っから。猫の成長記録見せに来る。」
大島は背筋をピンと伸ばして、「楽しみにしています。」と答えた。
リョウはアクセルを回し、轟音立てながら店を去っていった。