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その後リョウたちはアメリカに滞在し、一週間をかけて二度のライブをこなした。船上フェスの翌々日に行った小さなバーでのライブでは、店を破壊せんばかりの勢いで客が挙って大騒ぎをし、しかもライブが終わってからも一向に帰ろうとしないので、店主からの依頼でやむを得ずサイン会をして帰らせたものであった。そして最後のライブは地元で人気のバンドの前座で比較的広いホールであったが、最初は腕組みしていた客もあっという間にヘドバンを始め、モッシュとサークルピットの嵐に、最後にはシュンが客席に向かってダイブをするというかつてない試みまで行われたのであった。
最高の思い出を抱え、四人は帰国の途に就いた。
空港に降り立つと、リョウはそのまま荷物をシュンに自宅へ運んでくれるよう頼み、自宅に帰るより早くジュンヤの家へと直行した。
やけに静まり返ったように思える邸宅の前でインターフォンを押すと、中から幾分憔悴したジュンヤの母親が出て来て、弱々しく二人に微笑みかけた。「お帰りなさい。」
「済みません。遅くなりまして。」リョウは深々と頭を下げる。ミリアも隣でそれに倣った。
「いえいえ、お疲れの所来て頂いてありがとうございます。さあさ、どうぞ中へお入りになって。」
リョウは心のどこかに、まだ信じられないという思いを抱えていることを自覚せずにはいられなかった。ジュンヤの母親の悲嘆に諦めの交じった顔を見ても、これが別のことに起因していたら、とそう願わずにはいられなかった。
その思いを一掃させたのは、玄関に入るなり充満していた線香の匂いであった。この一種強烈な臭気によって、リョウは一気に自分の中から甘えと逃げを排し、ジュンヤの死というものをほぼ強制的に受け止めさせられたような、気になった。
ジュンヤの母親に誘われリビングに足を踏み入れると、そこには木目に繊細な彫刻の施された大きな仏壇が新たに設置されていた。リョウは我知らず、ああ、という溜め息を吐いた。仏壇には自慢のヴィンテージ物のSGを手にしたジュンヤの写真が飾られ、ジュンヤはそこで今にもミリアに「お帰り」とでも言い出しそうな、懐っこい笑みを浮かべているのであった。
ミリアは仏壇に向かって身を乗り出すようにして写真を凝視した。「……パパ。」
「本当は、……地元の先祖代々の寺にお願いしようと思っていたんです。でも……、ジュンヤは田舎が嫌いで東京にやって来て、そしてここで思う存分ギターを弾いて、そしてここでミリアさんたちと出会ったんです。ですから、東京のこちらの家に仏壇を置かせて頂いて、近くのお寺さんにお世話になることになりました。」
「そう、ですか……。」
「あれが拘った家です。家の中でギターの録音を出来るように色々工夫して、狭いながらもあれの思いが詰まりに詰まった家です。入院中も何度も帰りたい帰りたいと言っていました。」
「そう、ですね。……お線香上げさせてください。」リョウはそう言って、仏壇の前に立ち、蝋燭に火を灯して手元の線香に火を灯し、灰の中に立てると、両手を合わせた。ミリアを海外に連れて行って、死に目に会わせなかったことを詫びずにはいられなかった。苦しくなる程にただただ、詫びた。やがて合掌を解くとミリアもそれに倣う。その様を見てジュンヤの母親は涙ぐみ、ハンカチで暫く目を抑え続けた。そこではっとしたように台所に引き込み、湯気立つティーセットを持って来ると、祈りを捧げ終わった二人を仏壇の前にあるソファに座らせた。
「マサヤがお電話をしたと思うのですが、ジュンヤは、……最後、ミリアさんと一緒に弾いたギターの音楽を聴きながら……。」
「……ええ、伺いました。」
「余程、楽しかったんでございましょう。最初は本当にうわごとめいていて何を言っているのだか解らず、私共も困惑したのですが、マサヤが、どうにか聞き取りまして、ミリアさんと録音したギターを聴きたがっているんだと言い出しまして。でも、それが一体どこにあるやら……。マサヤはもしかすると家の録音部屋にあるかもしれないと申しまして探して持ってきたのです。ジュンヤはそれを聴いて満足そうに、嬉しそうに、微笑みながら……旅立ちました。」
「パパね……、ミリアの所来てくれたの。」ミリアも涙ながらに訴えた。「夢の中で、パパ、ミリアの一番近くにいるからって……。」あとは言葉にはならなかった。
「そう、ですか。そう、だったんですか。」ジュンヤの母親は再び目をハンカチで押さえる。「ああ、自分でミリアさんにご挨拶に行ったんですね。……なら、良かった。」
「パパはサンフランシスコにいたことあるって言ってたから、きっと、ミリアのいる所わかったんだと思う。」ミリアは赤い目で力無く俯いた。
「あれがアメリカに行ってたことも、意味があったんですねえ。……当時は心配しかしませんでしたけれども……。」
リョウはふと窓の外に視線を遣った。庭に等間隔に植えられている樹々の枝が風で揺れた。鳥の声が秘密裏めいて聞こえた。とても都心とは思われない落ち着いた空間に、焦燥と罪悪感でいっぱいであったリョウの心も次第に鎮まっていく。
「ところでリョウさん、以前にもお話したことではあるのですが……。」老婆は皴だらけの手を揉みながら、一心にリョウの目を見詰めた。「どうか、ミリアさんとお二人でこの家に住んで頂くことは、できませんでしょうか。」
「え。」リョウは目を丸くする。
「私もマサヤも地元に戻らなければなりません。特にマサヤは地元の方々のお力添えで議員をさせて頂いているものですから、離れることはできないのでございます……。でも、この、ジュンヤの思いの詰まった家を他人様には手渡したくないのでございます。親のエゴだということは重々承知してはおりますが、リョウさんとミリアさんに住んで頂ければ、ジュンヤもさぞかし喜ぶであろうと……。」
「否、こ、こんな大邸宅買うような金は、俺には……。」
「何を仰います!」凛とした声が響いた。「こちらで無理矢理住んで下さいとお願いしておりますのに、お金なんて頼まれたって一文たりとも頂くものですか。でも、子が親の財産を継ぐというのは、当然の世の習わしでございますでしょう? ジュンヤには財産と呼べるものは何もございません。でも、この小さな家と、私にはよく価値のわからないギターと、これだけを残してジュンヤは旅立ったのでございます。どうかこれらを継いで頂くことはできませんでしょうか。……ねえ、ミリアさん。ジュンヤのためにも、どうかどうか、お願いできませんでしょうか。」
ミリアは眉根を寄せて、困惑気味にリョウを見上げる。
「ジュンヤさんのお母さんの言うことももっともでしょうが、でも家みてえな人生一世一代の覚悟で買うようなシロモンをホイホイ貰えるかっつうと、心情的に……。」リョウはそこまで言って、みるみる目の前で肩を落としていくジュンヤの母親の様子を見ているのも忍びなく、「ち、ちっと、考えさせて下さい。済みません。」リョウは頭を下げて、「また後日ご連絡しますから。その、……いつまでこちらに?」と言った。
「明後日には……、帰るつもりでおりますです。」
「わかりました。」リョウは年寄りに泣き付かれる心苦しさに、急いでミリアの手を引き「ではそれまでには。今日はとりあえず失礼を致します。」とさっさと家を出た。庭先に停めたバイクに跨り、ミリアを後部座席に乗せると「ねえ、おばあちゃん。寂しそうだった。お引越し、しない?」とミリアが囁くように言った。リョウは苦渋の表情を浮かべ、それを慌ててヘルメットで隠した。
こんな豪邸を、ミリアへの遺産としてであったとしても棚から牡丹餅式に貰っていいものなのか。リョウはそれにうかと頷けるような度量は持ち合わせていなかった。何かを手に入れる時にはそれに見合った努力をしなければならない、というのがリョウの持論であり、実際にそうして自身は生きてきた。いつかはあんな豪邸とは言わずともいつかは一軒家に住まい、ミリアの望むがまま、猫でも何でも飼わせてやりたいと思ってはきた。しかしあくまでもそれは、自分の力で、である。いつかLast Rebellionが海外に通用するビックバンドになり、世界中のホールを埋め、無数の観客たちと渡り合えたなら、ミリアの望むもの何だって買ってやろう。そう思ってきたのである。
しかし年老いたジュンヤの母親の悲願を一掃し、せいせいするような非情な心もリョウにはない。一体どうしたものかと困惑しながらリョウとミリアは久しぶりの我が家に到着した。リョウは普段は安堵しか齎さぬ我が力荘を見上げながら、これを先程の豪邸と同じ「家」というカテゴリーに入れていいものかと訝り、溜息を吐いた。
「ほら、着いたぞ。」そう言って後部座席からミリアを降ろし、自身もヘルメットを外すと矢継ぎ早に言った。「やっぱ我が家が一番だよな。何つうか、やっぱ住み慣れた家が一番だよ。住めば都っつう言葉もあるぐれえだしな。」振り向くとミリアはつまらなそうな顔をしている。
「パパのおうち……、」
恐ろしい単語を急遽遮るように、「いやあ、ボロクソでも長年住んでるんだもんよお! ここがいいよな、やっぱ! 愛着があるよ、愛着。」と大声で宣ったその時、「黒崎さーん!」と後ろから声を掛けられた。
振り向けば、禿げあがった頭に作務衣姿の、ここの大家である。
「いやあ、ようやく会えた! ここんとこ何度来てもお留守で、いやあ、どうしようかと思ってた所なんですよ。まさか黒崎さんに限って夜逃げはなさるまいと思っていましたけれど……。」
「夜逃げなんかしませんって!」リョウは慌てて言う。「その、……海外の方へ、行っていまして……。」
「ほう、海外旅行とは豪勢だ。若い人はいいですなあ! あっはははは。」
リョウは鼓動を速める。家賃は毎月必ず引き落とされている筈である。それとも海外に行っている間値上がりでもし、引き落としができなくなっているとでもいうのか。リョウは強張った顔で一呼吸置くと、「で、な、何かあったんすか。」と恐る恐る訊ねた。
「いやあ、黒崎さんはもうここにかれこれ二十年以上も住んでくれていて、その間家賃滞ったことひとつあるわけでもなし、いやあ、見た目は最初随分ハイカラな人だとびっくりしましたけど、非常にありがたい借主さんでしたよ。ねえ。」
過去形で語られたことにリョウは身を震わせる。何をしてしまったのか。この、バイクの音が大きすぎて苦情でも来ているのか。でもカスタムをせずに純正のまま乗るなどということは絶対に、できやしない。ギターもバイクも自分好みにするためにはカスタムは必須である。これを純正ドラッグスターに戻せなどと言われたら――? リョウは背筋に汗を感じながらじりじりとバイクの前に立ちはだかり、大家の目線からバイクを反らそうと試みる。
「実はですねえ、この前区の検査が入りまして、その際この力荘の耐震強度を指摘されてしまいましてねえ、まあ、もう半世紀も前の建物ですから今の基準だと、全く、通用しないんだそうですよ。それで急遽建て直し、というか耐震強度を上げるための施行を命じられたんですが、お金も随分かかりますし、この建物も相当に古い。そこで以前からお話を貰っていた、ここを平地にして駐車場にするというお話を進めさせてもらおうと思っておりまして。
「はあああああ?」リョウは地鳴りのような声を上げた。
「ええ、ええ、そうですよねえ。急にこんなことを言われても困りますよねえ。ですからまあ、半年ぐらいを目途に新居を探してもらって、引っ越し費用は全額こちらで持ちますから、是非とも転居を前向きに考えて頂きたいんですよ。実はもう、他の住民の方々には了承を貰っておりまして。まあ、黒崎さんも言うようにこんなボロクソ屋敷、引っ越し代を出して貰えればすぐにでも出て行きたいということのが皆さんの本音だそうで……。」
先程の言葉を聞かれていたのか、とリョウは一気に顔を蒼褪めさせた。そして口ごもった瞬間、「大丈夫よう。」ミリアが代わって即答した。「実は、パパのおうちにお引越しすることになってんの。」
リョウは驚愕の眼差しでミリアを見下ろす。
「ええ? そうなんですか! そりゃあ良かった、良かった! じゃあ、引っ越し屋の領収書は取っておいて頂いて。で、お引越しはいつ頃になるご予定ですか?」
「ううん、まだそこは決まってないんだけど、おばあちゃんが明後日もう帰っちゃうの。だから急がないといけないの。ね、リョウ?」
リョウは唖然としてミリアを見下ろした。ミリアは今しがた吹いた涼風に髪をさらさらと靡かせながら、満足げに微笑んでいた。