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「あのねえ、ダメなの。」ミリアはバーのカウンターでカウボーイハットを人差し指でついと上げ、困惑気味にコップを突き返す。「あのねえ、ミリアはまだ18歳だから、お酒はダメなの。あのねえ、わかる? アイアムエイティーンよう。」
「オー。オー。」陽気そうな若い男性店員は、肩を顰め慌ててビールを引っ込める。
「だからね、さっきから言ってるでしょ? ミリアはね、オレンジジュースかトマトジュースが欲しいの。オレンジはビタミンCが豊富でお肌にいいし、トマトもね、やっぱりリコピンが美肌になるのよう。知ってる?」
店員は微笑みながら首を傾げる。
「わっかんないのねえ。もっと英語っぽく言えば通じるのかしら。……オウレンジ! オア、トゥマアトゥ!」ミリアは腹の底から大声で発した。
「オー、OK。」既に五分以上の訳の分からぬ問答の末、どすんと目の前に花瓶の如き大きなカップと、サンドウィッチにでも入れるはずであったのか、皿に載った数枚のスライスされたトマトがミリアの目の前に置かれた。
「まあ! リョウたちの飲んでたコーヒーとまるでおんなし! こんなに飲んだらお腹ちゃぽちゃぽしちゃう。でも嬉しいわ! こっちはトマトね! ミリア、トマトジュースが良かったんだけど……ま、いっか。どっちでもリコピンは入っているものねえ。」ミリアは手掴みでトマトをするりと口の中に入れ、咀嚼した。「美味しい。デリシャス!」
店員はミリアに微笑みかけた。
「サンキュー、サンキュー! ミリアねえ、アイアムLast Rebellionのギタリスト! 出番になったら是非是非観に来てね! あなた、今日休憩時間とか、ある?」
「Last Rebellion?」
店員が身を乗り出して発した単語は、今度ばかりはさすがにはっきりミリアにも解せた。だから興奮気味にミリアは背伸びして店員に訴えた。「そうよ! Last Rebellion! 知ってんの? ミリアのバンドよ! アイアムジャパニーズ!」
店員は完全にミリアに解せぬ言葉を興奮気味に述べていく。その合間に「RYO」という単語が入り混じっているのをまたしてもミリアは聞き取った。
「そうよ! リョウのバンドよ! やっぱ知ってんのね! あなたさてはメタラーね! ただのジュース屋さんじゃあないわね? だったら教えたげる。ミリアはLast Rebellionのギタリスト。リョウのワイフでもあるの。リョウの曲は史上最強よ。あのねえ、言葉通じなくっても、絶対聴けば解るの。もう、あっという間にヘドバンしちゃうこと間違いなし。ビールかオウレンジかトマトかもわかんなくったって、あなた絶対感動しちゃうわよう! 今日は誰にも負ける気はしないってリョウ言ってるもん、ミリアだってそう思うもん!」
店員は「リョウ」という単語を用いて、先ほどひっこめた巨大ビールを再び差し出した。
「これ、リョウにくれるの?」
「イエス、イエース!」
「ありがとう! リョウ、ビール大好きよ。サンキューベリーマッチ!」
ミリアは両手に大きなコップを持ち「バイバーイ」と言いながら、バーのカウンターを離れ、一旦デッキへと出るとステージのあるフロアへと降りて行った。
「全然船ん中って気ぃしねえな。正直、ナメてた。」リョウは茫然とリハ中のステージを仰ぎ見る。少々音響面では頼りなさを感じるものの、この広い客席のどこにいても全ての音がバランスよく聴こえる作りには正直恐れ入る他なかった。
「つうか、ダンスホールだのクラブだのを改造した都内のライブハウスよか全然音、良くねえか。」アキも想像以上の音質に、思わず声が上ずる。「船ってここまでできんのか。海の上移動するだけじゃあねえんだな。」
「だな。」リョウは肯いた。
名も知らぬバンドがステージで演奏をしている。神経質そうなボーカリストが幾度もイヤモニをチェックし、がなり立てる。
正直、やはり負ける気はしない。決して彼らのレベルが低いであるとかそういうことではないが、自分の到達している所に彼らはまだ到達していないと直感するのである。一刻も早くこの空間を自分たちの音で埋め、観客たちを歓喜させたいと衝動的に思う。
リョウは自分たちがここに立った時、客席からはどう見えるのかとイメージを膨らませた。Last Rebelliionの名の刻まれたバックドロップを掛け、自分がフロントに立ち赤い髪を振り回しながらヘッドバンキングをしたならば――、そう悪くはなのではないかとリョウはほくそ笑んだ。と同時に自分も遂にここまで来たのかという感情が次第に膨れ上がり、息苦しいような気さえしてきた。ほんの少し前までは、ただ海外で演奏ができれば良かった。まだ見ぬ精鋭たちに出会えることが、それだけで大きな喜びであった。台湾の時には正直、それだけだった。そしてそれが成功すると、もっと多くの客の前で音を出したい、もっと多くの客を惹き込んで世界を構築したいと思う。そしてその欲望におそらく際限というものは、ない。だからこそ音楽は人生を賭すのに相応しいのだ。一回きりの、この、人生を――。
リョウは種々の思惑に駆られながらしばし茫然とステージを見上げていたが、突然後ろから「リョウー!」と呼び止められ、振り返った。「ビール貰ってきたわよーう!」そこにはミリアが自分の顔以上もありそうな大きなコップを両手に、こちらへと駆けてくる途中であった。
「何だそりゃ!」
「これね、ビール。店員さんからリョウにプレゼントなの。ミリアの勘によると、この上のバーにいる店員さんはリョウのファンだわよう。よくわっかんないけどねえ、『リョウ』、『リョウ』って言ってたもん。そんでこんな大っきなビールくれたの。ミリア、サンキューって言っといたから。」
「いいなあ。俺も何か貰ってくっかな。」アキが羨まし気に白い泡の立ったビールを見下ろす。
「でもそろそろリハの時間だわよう。」ミリアはそう言ってステージを仰ぎ見た。金色の輝くライト。ミリアにとっては陽光よりも、ネオンよりも、このステージのライトこそが最も美しく目に映じる。ミリアはうっとりと目を閉じてその光を、空気を、音を、味わった。
ステージ周辺には、楽器を運びセッティングをする若い外国人が多数たむろしていた。彼等を統率しているのはナカジマである。
「Last Rebellionの皆さん、そろそろこちらにお願いします。」ステージ脇からナカジマに言われ、リョウは一気にビールを飲み干そうとしたが、なかなかそれが出来る量ではない。残り半分をアキに差し出し、アキも無言でそれを飲み干した。「おお、こりゃパープル・ヘイズじゃねえのか。さすがアメリカだな。旨ぇ。」
ナカジマはリョウに指示された内容を忠実にローディーたちに伝えていく。アキも一つ一つ位置から角度まで丁寧にドラムセットの置き方を指示し、どこぞで油を売っていたのだか少々遅れてやって来たシュンは、ミリアと一緒に一切妥協することのない日本語でそれぞれの音作りについてローディーたちに語ったが、何をどこまでわかっているのだか訳が分からなくなり、終いには互いに肩を叩き合いながら騒いでいる内に、いつの間にか前のバンドのリハが終わり、ステージに立つことになった。
天井こそ低いものの、やはりそこは完全なるホールであった。ここに多数の客が身を寄せ合うのだと思うと、四人の胸中には総じて沸々と闘争心じみた思いが沸き起こってくる。それは自惚れでもなく油断でもなく、今までの努力のきっかり延長線上にある勝利の確信ゆえの思いであった。それを感じられることをリョウは至上の幸福であると思った。
アキが完成したドラムセットの中でバスドラムを一発踏みしだいた。その音は振動を伴い、空気を震撼させた。その、いわばたった一音で、このライブは必ずや成功する、とリョウは再び確信をした。
次いで自身もほくそ笑みながら音を鳴らし、リフを刻んでみる。攻撃的な、何物をも突き刺し破壊してやまない音。リョウは武者震いした。
そしてその隣では、まだ準備の最中であるにかかわらず、ミリアの前には人だかりができていた。この年齢と容姿でメタルギターを弾くことが物珍しいのは、どうやら万国共通なようであった。
「ミリア、やってやれ。」シュンに耳打ちされ、ミリアはにっと笑う。そのまますっぽりとカウボーイハットを脱ぐと、「ここで見ててね。」と言ってアンプの上に丁寧に置き、ひらりと身を翻しステージ前方に駆け出し、リハなのにかかわらず、大股開いてヘッドバンキングをしながらリフを刻み始めた。いずれもどこぞのバンドのメンバーなのであろう、ミリアの前に集まっていた連中はメロイックサインを突き上げながらミリアの音に合わせ、頭を振りまくる。
仕方なくアキもシュンもミリアのリフに合わせて、曲を合わせ始める。リョウも何だか楽しくなってPAの指示も待たずにマイクに噛み付くようにしてがなり始めた。しかしそれでも全くの無問題であったらしい。客席後方でPAも一緒になって頭を振りながら、OKサインを出してくる。後は時間まで好きに弾け、と指示とも言えぬ指示を出してビールらしき瓶を煽り始めた。
四人はそのまま一曲を終え、「よし、次、最後の曲行くぞ。」と調子に乗ったリョウの指示で最後の曲もフルで演奏をし、客席にいるどこぞの出演メンバーたちを大いに盛り上がらせ、そしてステージを降りた。既に四人は汗だくで、何が何やらただ可笑しくてならなかった。音楽が一気に見知らぬ者同士を引き付け、それで新たな世界が構築されていくのが、堪らなく嬉しく、ナカジマに案内された楽屋でもひとしきり笑い続けた。