14
翌日、リョウは朝食を食べ終えると、頭には例の園城から貰ったニット帽を被り、ギターを手に内庭に出た。
朝の陽光が眩しい。いつも自分はこれを、あのフレーズをどう形にしようか、この前入手したエフェクターをどうモディファイしてやろうかと、そんなわくわくする気持ちで満身に浴びていた。その時には、この清新ながらも温かみのあるこの光を、大病に侵されながら病院で味わうことになるなど、思いもしなかった。
リョウはどっかとこの間のベンチに腰を下ろし、ギターを爪弾き始める。物悲しいのか、いつもは絶対に選択することのないエリック・クラプトンなんぞを弾き始めたのに我ながら驚く。やはり髪を失い、いざ無菌室に入るとなって落胆しているところが、あるのだろうか。ミリアが大騒ぎをするので努めて自分は冷静に振る舞おうと心掛けているものの、一人になるとやはり死の絶対的な強さが押し寄せてくるのを感じる。恐ろしい。潰されそうになる。
でも心のどこかで、これをもってデスメタルの曲を作れば凄いものが、今までの自分を確実に、それも大きく超えられるものができる、という歓喜にも似た確信がある。やはり、自分はどこまでもアーティストなのだ。曲を生み出すことに無上の歓びを見出し、そのために自分の生命が危うくなっても、どこか構わないといった趣がある。ただミリアがいるから、始終容赦なく泣き喚くミリアがいるから、自分は人間としての立場を忘れずに生きることができている。ミリアがいなければ、嬉々として死を味わい、それを基に一曲作って満足しながら死の世界へ赴いていくのかもしれない。ミリアが自分を人間の世界に繋ぎ止めている。この、人間性に欠けた、利己的な、自分を――。
一体あれは、自分の庇護下でどうやって人間性を学んだのであろうか。ふとリョウは訝る。デスメタルなどという衝動破壊的な音楽しか与えず教えず、他はほとんど放ったらかしにしてきたのに、勝手に人を愛することを覚え、勝手に死に瀕した人間の支えとなることを覚え、一体あれは何なのだ。リョウの指は次第に遅くなり、やがて『Tears in Heaven』が、止んだ。
「リョウさん。」と言って目の前に明るい顔を突き出したのは、園城であった。
「あ、園城さん。」リョウはピックで園城の顔を指し、「これ、ばっちり。お陰でここでギター弾いてても、全然頭寒くねえわ。」と言って園城の細い背中を叩いた。そこがあまりに骨ばっているのに、リョウは内心驚いた。しかし園城は介することなく、隣に腰掛ける。
「じゃあ、よかった。やっぱハゲると頭皮が敏感になるっつうか、帽子によっては毛糸の種類なのかなあ? ちくちくしたり痛くなったりするやつもあるから、よっく選んだ方がいいっすよ。」
「そうなのかあ。……昨日は、血液検査間に合った?」
「ちっとぐらい待ってもらったって、別にひっきりなしに患者がいる訳でもねえし、全然余裕っしょ。」
「今は?」
「売店に新聞でも買いに行こうと思ってた所だから、時間は全然。」
「そっか。……なあんかスラッシュメタルでもデスメタルでもなんでも弾いてあげてえんだけど、いよいよ明日から無菌室行きだと思うと憂鬱でさあ、気分が乗ってこねえんだよなあ。」リョウは正直な気持ちを吐露した。ミリアの前では言い出せない気持ちが、園城の前では驚く程スムーズに言葉に出た。
「わかりますよ。俺もクリーンルーム入るってなると、気が滅入って逃げ出しちまいたくなるから。」
「やっぱそうか。まあ、俺は実際には知らねえからびびってるだけなんだけど。」
「俺は自分の体力がなくなってるから、どうしても副作用に負けちまうんですよねえ。リョウさんの場合は体力あるから乗り切れますよ。この間はびびらせるようなこと言っちゃって、ミリアちゃんにも怒られちゃって、本当悪いことしたなってあれからずっと思ってて。」
「いやいや」リョウは身を仰け反らせる。「あいつはいちいち俺のことになると大げさなの。全然気にしないで。俺が色々教えてもらってる立場なのに、マジで失礼な奴でさ。こっちこそ本当ごめんね。」
園城はミリアの姿を思い出すかのように、ふと笑みを溢した。
「あの、……突っ込んだ話聞いてもいいすか?」
「あ? ああ、いいよ。」とりわけて後ろ暗い過去を有している訳でもなければ、なぜだかこの園城とは出会ったばかりという気がしないのである。
「あの、……ミリアちゃんが妹で妻って、どういうことなんすか? ご両親とか、その……大丈夫なんすか?」
「ああ。」リョウはそのことか、と苦笑いを浮かべる。「ミリアと俺は異母兄妹つうやつで、両親はもういないの。でも最初は全然お互いの存在も知らねえで生きてて……。そんであいつが六歳の頃に親父が死んだもんで俺ん所来て、それから一緒に住んでるの。」
「ああ。」園城は予想外だったとでもいうような戸惑いの表情を浮かべた。「すんません。なんか、好奇心で聞いちまって。」
「いやいや、全然隠してねえんだ。俺らが異母兄弟で一緒に住んでるってえのは、普通にファンも知ってることだし。」
「そんで、ミリアちゃん、リョウさんのことめちゃめちゃ慕ってるんすね。」
「何でだろうなあ?」リョウはしかしそう言いながらもどうしようもなく、口元を綻ばせた。「あいつの家庭教師やってくれてた友達がさあ、ミリアはインプリンティングだって言っててさあ。最初に世話してくれた男を盲目的に好きになる、みてえなやつ。大抵そんな所だろ。大して意味なんかねえよ。俺が腹減らしてたミリアに最初に飯食わしてやったんだ。マジで、ただそれだけ。まあ、餌付けだな。」
「またまた。」
「あいつが小さい頃なんて、ギター教え込んだ以外はマジでほったらかしだったかんなあ。ツアーで一か月とか、余裕で。そんで近所のミリアの同級生んちにお世話になったり。保護者失格だろ? そうなんだよ。今もちっと考えてたんだけど、俺はもともと何つうか、人間性に欠けてるつうか、冷てえ奴らしいんだよね。これはメンバーなんかにもよく言われんだけど。なのに、何でそんな俺の下で大きくなったミリアはあんなに情け深い奴になったかなって……。」
「リョウさん冷たいんすか? 俺には全然そんな風には見えねえすけど。」園城は微笑む。
「まあ、よくケンカしたりメンバーのクビ切ったりしてたからかなあ。若いバンドマンは、よくやるじゃん。そういうの。」
園城はくつくつと喉の奥を鳴らして笑った。
「でも俺、リョウさんと知り合ってまだ数日すけど、ミリアちゃんのこと大事にしてる愛情深い彼氏にしか見えねえすよ。」
リョウは噴き出した。「んな訳ねえよ。大体ひとっつも、ただのひとっつも、あいつの願望を叶えてやったことはねえしな。……あいつ昔っから猫が好きでさあ。飼ってやりてえ気持ちはあるんだが、金がねえばっかりにボロアパート出れねえで、猫もお預け。あと、……」これはさすがに言いにくい部分があったが、リョウは噴き出しついでにえい、と言葉にした。「あいつ半分血の繋がってる俺と結婚するんだっつって、何をどう調べたんだか、スウェーデンに行きゃあ、異母兄妹でも結婚できるって知って、それで俺とスウェーデン行って結婚するって言い出したんだ。でも遠いだろ? 旅費半端ねえだろ? で、連れていってやれねえで、それもお預け食らわしてる、最中。」
園城は堪え切れずに笑い出した。「なんすか、それ。あっはははは! 超おもしれえ!」
「でな」園城の笑顔に後押しされながら、リョウはもうどうにでもなれと暴露を続けていく。「あいつ、中学ん時スカウトされてさあ、モデルの仕事始めたんだけど、ある時結婚式場のパンフレットの仕事が入ってさあ、そんで何やらかしたと思う? 仕事場に俺呼びつけて、気付けば友達だの職場の人全員大集合してて、結婚式開催。俺だけ何も知らねえでさあ、革ジャンにジーンズでバイクで乗り付けて、そのまんま教会連れてかれて、誓いの言葉言わされて、結婚式。凄ぇだろ? あり得ねえだろ?」
園城は上半身を折って笑い続けた。「マジすか。マジすか。そんなこと、できるんすか?」
「普通はできねえ。断じて、できねえ。でもあいつはできるんだ。やっちまうんだ。馬鹿だし言葉足らずだし、ギターと料理以外はからきしダメなのによお。……だから、あいつといると面白くて。」そこまで言ってミリアを賛嘆してしまっていることに、ふと羞恥心を覚え、黙り込んだ。
「そりゃあ面白いでしょう。だって端から見ててもはっきりバッチリわかるぐれえ、リョウさんのこと大好きだし。兄妹だなんて関係ねえって感じすもん。やっぱ芯が通ってる人ってのは、見てて面白い。」
リョウは黙した。そして恥じらいを霧散させるべく、再びギターを爪弾き始めた。今度はMETALLICAの『Through the Never』である。高速のリフに園城は賛嘆の呻きを上げる。
「本当にね」弾きながらリョウは呟く。「あいつを幸せにしてやりてえとはずっとずっと思ってるんだよ。でも、金はねえし、そもそもでも稼ぐために真っ当な職に就こうとも思えねえ辺り、俺は徹頭徹尾冷たい男なんだよなあ。」
「んなことねえすよ。ミリアちゃんリョウさんといれて、心底幸せそうじゃないすか。」
リョウはそれには答えなかった。ギターに専心している振りをして、ひたすら引き続けた。園城は満足そうな笑みを浮かべてそれに聴き入った。