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結局、ジュンヤの手術は見送られることとなった。その意味する所を聞かされリョウは震撼した。
「あちこちに転移をしていて、……それで成すすべがないそうなのです。これからは痛みを取る緩和ケアなどに移行していった方がいいだろうという先生のお見立てで……。」再度上京してきたジュンヤの母は、病室から離れた誰もいない待合室で頽れるようにして言った。
リョウは身を屈め、細かに震える老婆の背にそっと手を添える。
「本人は、……何て言っているんです?」
「……家に、帰りたいと。」吐き出すように言った。「一時でもいいから、まだ、意識が保たれている内に家に帰って、ミリアさんたちをお招きして、ギターを弾いて過ごしたいと……。」
「……ああ。」たしかに、ミリアはジュンヤとそんな会話を楽しんだと言っていた。「そう、ですか。」リョウは他に何も言うことができなかった。それ以前に頭の中は真っ白である。何も思いつくものがない。
「どうしたらいいのでしょう。」ジュンヤの母は赤い目をリョウに向けて言った。リョウは少なからず怯む。
――本人の人生だ。その終焉は本人に決定権があってしかるべきではないか。第三者的な眼差しから言えばそうなるのであろうが、そんなことはとても言葉にはできやしない。母親にしてみれば、我が子が自分よりも先に逝こうとしているというこの現実自体、耐え難い、まともに思考さえできない痛苦を齎しているのだから。
「母親として、何とかしてやりたいんです。なのに、なのに、……今一番辛い思いをしているあの子に、何もしてあげられることがないなんて……。」
リョウは漠然と親になると、自ずとそういう思いが沸き起こってくるものなのだろうかと思った。ジュンヤも我が子が存在すると知ったのは昨今のことであるが、それでも、ミリアに何もできなかった、見知らぬ男による虐待を許してしまったと言っては、とてつもない罪悪感を覚えているのである。
子を持つなどということを全く想定したことさえないリョウはただただ不思議でならなかった。
「とにかく……とりあえずは……、本人の意向を聞いてあげるのが一番じゃないんすか。……つうか、ジュンヤさん自分の意見絶対ぇ通しそうな気がします、けど……。」恐る恐る言った。
「……ええ。ええ。そうでした。」老婆は真っ赤な目で苦笑を浮かべる。「あの子が一旦決めたことは、どうしたって変えさせることはできなかったんでした……。そんな大事なことを忘れていたなんて……。」老婆は手に握りしめたガーゼのハンケチで、目元を抑え、抑え、言った。「大学卒えて地元に帰ってこいと言った時も、地盤を継いで父の跡継ぎになれと言った時も、いいお嬢さんがいるから結婚しろと言った時も、何もかも、あの子は我を張って人の意見に肯いたことはございませんでした。」
そしてエリコに執着していたのかと思えば、その頑固さは正誤とは無関係だと言わざるを得なかったが、リョウはとりあえず肯いた。
「もしかすると、もう勝手に家に帰るタクシーでも何でも頼んでしまっているかもしれません。そういう子なんです。ええ。」老婆はそう言って力なく笑った。
それにはふとリョウも不意に親近感、めいたものを感じざるを得なかった。ミリアが自分と一緒にバンドをやるのだと言い張った時、自分と結婚をするのだと言い張った時、がんになった自分の命を救ってみせるのだと言い張った時、どれもこれも全て彼女の意のままに物事は進行したではないか。ミリアの決断力と実行力は驚嘆に値する。ましてやその遺伝子的因を齎した、実父である。
リョウは思わずくつくつと喉の奥で笑い出した。不思議そうに見つめた老婆にリョウは「いや、ジュンヤさん、ミリアと似てんなって……」と言い、慌てて「じゃねえや。ミリアがジュンヤさんに似てんな、でした。」と訂正した。
老婆はふふふ、と声を出して笑った。「やっぱりジュンヤの子なのですね。……ああ、主人にも教えてあげたかった。主人はなんだかんだ言いましても、ジュンヤのことを溺愛していましたから。あれが小さな頃から自分の跡継ぎだと誰それ構わず言いふらし、私の知らぬ所でなんでもかんでも買い与えてしまって。ギターでもレコードでも、どんどん、どんどん、ジュンヤの部屋に増えていくものですから、そんなに甘やかしたらダメですよ、人間が悪くなります、と忠言しましても、運動会で頑張ったからだの、成績が上がったからだの、自分の選挙の手伝いをしてくれただの、あれこれ理由付けましてちっとも買い与えるのを辞めないのでございます。ジュンヤが大学を卒え地元には帰らぬと言った時にも口では親不孝者、勘当だ、なんだのと言っておきながら、さっさと東京の不動産屋さんと話を付けて、家を買い与えたのも主人でした……。そのジュンヤにあんな可愛い娘がいたなんてことを知ったら……、それこそ天にも昇る気持ちになったでございましょうに。」
リョウは老人に溺愛されるミリアの姿を思い浮かべ、苦笑する。あの甲高い声で、おじいちゃん! などと呼ばわったりしたのであろうか……。
「でもそうしましたら、ジュンヤにしたようにミリアさんになんでもかんでも買い与えて、今度はあなたにお叱りを受けていたかもしれませんね。」
「あはははは。」とリョウは声を上げて笑った。「そんな喧嘩、してみたかったなあ。俺あんま家族とは知らねえすから。家族との喧嘩なんざ、ミリアとぐれえしかしたことねえし。やってみてえな。」
老婆ははっとなって、それから寂し気に微笑んだ。その幾分潤んだ瞳は新たに縁を結んだばかりの家族の幸福を希っていた。