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週末、ミリアを連れてジュンヤの病室へ入ると、寝台の脇の椅子には老婆が座っており、二人を驚きの眼差しで見上げた。
「あ。」リョウはその顔付きに少なからず驚いた。
老婆はしゃんと立ち上がり、深々と礼をする。
「お初にお目にかかります。いつも倅が大変お世話になっております。ジュンヤの母にてございます。」
その顔はどことなく、というよりもよく、エリコに、ひいてはミリアに似ていた。大きな目をした、くっきりとした顔立ち。不思議なことではあったが、リョウは慌てて思考を巡らせ、ジュンヤが母と似た所のある女性を愛したのだという結論に帰着した。
「あの……、こちらこそお世話になってます。ジュンヤさんの友人の黒崎です。こちらは、……」一瞬口籠って「妹のミリアです。」と言った。さすがにこの場では嫁と紹介されなかったことにミリアも不満を口にすることなく、丁寧に頭を下げた。「初めまして。」
老婆は大きな目をしっかと見開き、いかにも意味ありげにミリアを見据えた。ジュンヤは伝えたのだとリョウは直観する。
「こんにちは。私はジュンヤ……さんのファンです。とっても素敵なギターを弾くから。早く治ってまたライブに行きたいな。ねえ、リョウ?」
「そうなんすよ。」リョウはにわかに笑みを貼り付かせ、「こいつ、っつうか俺もジュンヤさんのギターの大ファンで。俺らもバンドやってるんすけど、いやあ、こんなギターはなかなか弾けたもんじゃあねえなって。勉強さしてもらってて。」
「そう。……あなたもギターを弾くのですね。」それは明らかにミリアに対して発せられた。
「うん。小さい頃からリョウに教わって、ずーっと弾いてるの。この前はね、台湾でも演奏したわ。今度アメリカとフランスにも行くの。みんなリョウの音楽を待ってるの。」
老婆は眩し気にミリアを見詰めた。「……そう、でしたの。素晴らしい……。」
「あ、そうだ。」ミリアは慌ててバッグからボトル型のケースを取り出し、ジュンヤの目の前にごとり、と音を立てて置いた。「これね、スープ。野菜がいっぱい入っててとっても体にいいの。リョウもこれ飲んでお病気治ったんだよ。だから飲んで。」
「本当ですか。ありがとう。嬉しいなあ。」ジュンヤは震える手でそれを受け取った。
「お嬢さん……、ミリアさんは、お料理もお好きなの。」
「うん。幼馴染のママがね、料理の先生で小っちゃい頃から教えてもらってたの。それからずーっと、小中高って調理部。大学もね、栄養学部って所に行っているの。管理栄養士の資格を取るの。」
「まあ。」老婆の瞳が無理な輝きを帯び始める。老婆は慌てて目に手を当て、「ちょっとお手洗いに。」とそそくさと立ち去る。
リョウはどうしたものかと一瞬逡巡し、「お前はここにいろ。」とミリアに命じると老婆の後を追った。
ミリアは突然のことに目を丸くしたが、まだ野菜スープの説明が終わっていなかったことに気付く。ジュンヤに向き合い、「ビタミンが大事よ。ビタミンをいっぱい摂ればお病気治るの。あのね……」などと何やら習ったばかりの耳学問でもって講釈を始めた。
「……あの。」リョウは待合室で脚を止めた老婆に声を掛けた。老婆は案の定、赤い目で振り返る。
「あら。厭だわ。お恥ずかしい。年を取ると涙腺が弱くなって。」
「あの、……知ってるんですよね?」
老婆はハンカチでそっと目元を拭う。
「その、ミリアが、……ジュンヤさんの娘だってこと。」
やはり驚きはしなかった。老婆は弱々し気な微笑みを浮かべ、肯く。
「ジュンヤから少し前、電話が来まして。自分の娘と思われる子がいると申しておりました。その子が週末にお見舞いに来て下さると言うので、わたくしも何とか今日に間に合うようにと田舎から出て参った次第なのでございます。」
「ジュンヤさんはまだミリアには言わないつもりなんすか。」
老婆は小さく肯く。「お嬢さんは、育ての親に随分酷いことをされたそうで。それは全て放ったらかしにした自分のせいだって。だのに今更父親面なんて、とてもできないって。そう申しておりました。」
リョウは溜め息交じりに肯いた。
「そんなことねえすから。まあ、たしかにあいつは虐待を受けてはいましたけど、もうあいつはちゃんと乗り越えてんですよ。あいつはああ見えて芯は強いんだ……。それにあの通り、ジュンヤさんのこと慕ってるし。ジュンヤさんが本当の父親だってわかったら、絶対ぇ嬉しがるのに。……そしたらさ、ジュンヤさんだってミリアと親子やるためにもちっと前向きに治療に励めるんじゃないんすか。否……、今も治療には頑張ってらっしゃるとは思うんすけど……。」リョウは自ずと口ごもりながら言った。
老婆は再び溢れ出した涙を拭い、拭い、肯く。「そう言って頂けて、本当にありがとうございます。……あの子はですねえ、昔から頑固で頑固で。人の意見をまるで聴きやしないんですよ。小さい頃から私共家族も地元の方々も、主人の地盤を継いで政治家にしたかったのを、親戚一同に加え支援者さんたちが説得しても一切聞き入れず、自分は音楽に生きるんだって、そう言い張って――。」
リョウは苦笑しながら「ミリアもそんな所ありますよ。ああ見えて、凄ぇ頑固なんだ。猪突猛進。自分がこうと信じ切ったら周りも巻き込んでとことん、やる。」と言った。無論それで真っ先に想定されるのは結婚式である。
すると老婆はくすくすと笑い出した。「本当に……、ジュンヤの子なんですね。」
「そうです。」リョウは断言する。「まあ、見たくれは完全母親似ですがね。ギターの弾き方、手の形、指の形、見ました? まるでおんなじですよ。何でミリア気付かねえかなっていうぐれえに。まあ、あいつは自分の興味ねえことについてはからきし鈍感なんで。」
「あの子が余命半年の宣言を受けまして、目の前が真っ暗になりました。夢だったらいいと。夢であることをどれ程祈ったでしょう。……でも、ジュンヤに娘がいて、その方にお会いすることができて、……こんなに嬉しいことはありません。ああ、早く涙を拭いてもっとお話をしたいのに。嫌だわ。次から次へと溢れ出てきて。年は取るもんじゃあありませんね。」
「そうですよ。そんな泣いてばっかいねえで、病室戻ってミリアと喋ってやってくださいよ。」
「すみません。なんだかジュンヤの病気に対する不安と心配と、それからお嬢さんにお会いできた喜びと、……もう何だかごちゃごちゃで。」
「ジュンヤさん、やはり……お悪いんですか。」
老婆は肯いた。「お医者様の見立てですと、やはりあと半年というのが妥当なようです。ですから抗がん剤治療、と言うのですか? それを行い、巧くいけば手術に入るそうですが、それだけでなく、これからの半年間を充実させていった方がいいって。今は自宅療養でも可能だからって……。」
リョウは息を呑んだ。
「あの、……なんつうんすか? セカンド・オピニオンとか、つまり他所の医者で診て貰ったりとか、そういうのは……。」
「やりました。」老婆はきっぱりと言い放った。「地元の有名な病院の院長先生と顔なじみなものですから、そこでもやりましたし、その方の伝手で東京の有名な病院の方にも……。でも答えは一緒でした。」老婆の肩が縮こまっていく。リョウは反射的にその背を摩った。「余命半年。……信じられません。でもジュンヤはもう自分は死ぬのだからと、先日も勝手に家の方に清掃サービスなんかを頼んでしまって。私が家におりましたら、そんな方が突如お見えになって、驚きました。」
リョウは唇をかみしめる。
「何でそんなことをするのだと問いましたら、自分が死んだら家をあなた方にお譲りするのだから綺麗にしておかないとと……。」
「困りますって!」リョウは小声で叱咤した。
「そう言われたと、ジュンヤも申しておりました。……でも、頑固なんです。父方の血でございます。まるで聞き分けがなく思い込みが激しくて。わたくしどもも随分振り回されてきました。」
リョウは深々と溜め息を吐くと、「とにかく、そんな家がどうのこうのの前に、前向きに治療に入っていかなきゃあなんねえでしょう。」と話を変えた。
「勿論です。そこはさすがにジュンヤも了承しているようではありますが、どこか投げやりといいますか、病気になって苦しい目に遭えば、ミリアさんに対する罪を償えるとでも思っているような節がございまして……。」
「何言ってやがんだ!」
「本当に、ご迷惑をおかけ致します。もう知名も超えておりますのに……。」老婆は身を縮める。
「で、その……」リョウは不意にこの老婆を何と呼んでいいのか困惑し、「あなたは、いつまでこちらにいらっしゃるんですか。」
「申し訳ないのですが、来週末には一旦帰らねばなりません。実家で法要がございまして親戚一同がうちに集まるものですから。」
「そうですか。」
リョウは空の一点を見詰めながら言った。「もし、あの、お母さんがお忙しければ、俺家すぐ近くですし、実際ジュンヤさんに会いにはしょっちゅう来てますから。何でも代わりにやりますよ。」
老婆は目を見開き、「い、いえいえ。そんな……」無関係なと言おうとして、決してそうでもないことに気付く。「あなた様の手を煩わせることは、とても……。」と言葉を濁した。
「でも、……ジュンヤさんはミリアの父親なんですから。」
「あなたは、……ミリアさんの御主人で……。」老婆は恐る恐る言った。
リョウはそこまで聞いていたかと苦笑を浮かべ、「まあ、そうじゃねえんですが、そうなのかなっつうか。」と口籠り、えい、面倒臭がらずに全てを行ってしまえと覚悟を決め語り出した。「あの、……俺はこの十何年ずーっと、ミリアと異母兄弟だと思ってたんです。つい数か月前まで。だってね、あいつの、というか俺らの父親と思ってた人間が死んで、ミリアは母親にはとうに捨てられてたもんだから、身寄りがねえっつうんで俺の所に来たっつうことが、そもそも一緒に暮らし始めた始まりなんですよ。それで、俺は当然妹だと思ってたし、妹だと周りにも公言してたし、だって、戸籍とかもそうなってるし、そうやって高校卒業間際まで暮らしてきたんだけど、ミリアが遺伝子検査? みてえの勝手にやらかして、そしたら兄妹じゃねえって結果が出て。そんで慌ててミリアの母親っつう奴に会いに行って話を聞いたら、ミリアの父親はジュンヤさんだろうって話で。」リョウはちら、と老婆を見た。あまり男関係について奔放な母親のことを言ったら傷付くだろうかと思いなし。「まあ、ちっと、他にも候補はいたらしいんですけど、でもおおかたジュンヤさんの子だろうっつって。そんで俺がミリア連れてジュンヤさんのライブ行ったんです。そしたら、今までは母親そっくりって思ってたんすけど、手の形とか指の形とか、まるでミリアとおんなじで。ああ、この人がミリアの父親だったのかって、思って。」
老婆は全てを解したように幾度も肯いた。「そうでしたか。そうでしたか。」
「でもそんだけなんで、もしかしたら、もしかしたら、俺の勘違いってやつで、間違いかもしんねえし。もしあれだったら遺伝子検査っつうの、ミリアとジュンヤさんでやってみますよ。でも、そんなん、俺、勝手にやっていいすか? 唾液とかでもいいし、髪の毛一本でもいいらしいんで気軽っちゃあ気軽にはできるみてえですけど。まあ、ちっと金はかかりますが。この期に及んでそんなこと言ってる場合じゃねえすからね。」
「お願いいたします。お金は全額こちらで出します。」老婆は固い表情をしながら深く肯いた。「……でも、ジュンヤは既にミリアさんが自分の娘であると確信しているようです。何か感ずる所があるんでしょうか……。」
「そうかもしれねえす。ミリアもなんかわかんねえけど、ジュンヤさんの音が全然今まで聴いたことねえジャンルなのに、一番大好きだって言ってるし、ジュンヤさんといると落ち着くっつうか懐かしいっつうかそんな気がするって言ってるし。俺らにはわかんねえ、そういう親子の血が共鳴し合うってのがあるかもしんねえっす。」
その時、ジュンヤの病室の扉が開き、ひょいとミリアの顔が覗いた。「ねえ、ねえ、何してんのー。ジュンヤ、点滴なくなっちゃった! お代わりだわよう!」
リョウは苦笑しながら病室に歩んでいく。「そんなのそこの、ナースコール押せばいいじゃねえか。」
「聞こえてますよ。今行きます。」すぐ目の前のナースステーションから、看護師が笑いながら返事をした。