130
ミリアは夕暮れの街並みを急ぎ足で歩いて行く。店の喧騒も、ナンパもスカウトも、一向に介しない。大学で使う教科書と実習用のエプロンの入った猫の付いた大きなトートバッグを肩に掛け、夕飯は何を拵えようかとそれだけを思案している。
大学や撮影が遅くなる時には大抵リョウが作って待っていてくれるが、昨今は海外公演を成功させたとやらで注目も浴びているらしく、取材やギター雑誌の付録になるDVD撮影なんぞの仕事で忙しい。そしてその合間を縫って、一人でジュンヤの見舞いに行っているようである。ミリアは無論大学生活が始まったばかりで、授業に友達付き合いと、これまた忙しい。リョウもミリアもそうそうには時間が合わぬものだから、ミリアはジュンヤの見舞いに同行することがなかなかできずにいた。一人で勝手に行ってしまえばいいとは思うものの、なぜだかリョウはそれを言葉の端々で暗に戒めているような節がある。それには少々理不尽さも覚えるが、リョウとつまらぬことで諍いを起こすのもやぶさかでは無く、それよりも日々の授業と新しい大学の友人との日々はとても充実していて、毎日学校で習った料理に家で取り組めるのが楽しくてならなかった。ジュンヤの様子は気になるものの、リョウが詳細に教えてくれるし、そもそも近くの病院であるのだし、時間さえ合えばいつでもリョウに連れていってもらえると考えれば、然程の恨みにもならない。
ミリアは近頃慣れぬ仕事で少々疲れ気味のリョウを思った。疲れを取るにはビタミンB2だと習った。食材は、ほうれん草に、レバーに、卵に、納豆。そうだ、今夜はほうれん草のバター炒めにしよう。ベーコンをかりかりに焼いて、炒り卵も入れたらどうだろう。リョウは美味しいと言ってくれるだろうか。ミリアは駆けるように歩みを一層速めた。
「ミリアちゃん!」
その時後ろから大きな声が聞こえた。ミリアは慌てて立ち止まって振り向くと、そこには美桜がいた。美桜が長い黒髪を靡かせながら走って来る。
「やっぱミリアちゃんだ! きゃー、嬉しい!」
「美桜ちゃん!」ミリアは思わず今度は逆方向に駆け出し、美桜に飛びついた。
「そうよね! ご近所なんだものね!」美桜はミリアを抱き留めながら頷く。「学校帰り?」
「そうよ! 美桜ちゃんも?」
「そう。大学行ってから、今ね、自動車教習所行ってるの。」
「へえ、車乗るんだ! かっこいい!」
「無事に免許取れたら一緒にドライブしましょ。」
「きゃー!」ミリアは目をぎゅっとつぶって歓声を上げる。
「ふふふ。なんかこういうことできるって、日本に帰って来て良かったなあ。本当はね、迷ってたんだけど、アメリカの大学行くか日本に戻って来るか。」
「そうなんだ!」
「でもミリアちゃんとまた仲良く遊べると思うと日本、帰って来てよかった!」
「そうよ! 日本はいいでしょう? でもね、そうだ。ミリア今度リョウと一緒にアメリカ行くの。」
「ええ? 旅行?」
「違うの。ライブなの。」
「凄い!」美桜は目を丸くする。「バンド、海外公演までするようになったの?」
「そうよ!」ミリアはここぞとばかりに胸を張る。「今年の三月に台湾でやって、評判が良くって、アメリカとフランスからお呼ばれしてんの。凄いでしょ!」
「うわあ。」美桜は震えるような溜息を吐き、思わず涙ぐむ。「ミリアちゃん小さい頃から本当にギター頑張ってたものねえ。お兄ちゃんツアー行っちゃってうちでお泊りしてた時、毎晩一生懸命練習してたもんね。凄いなーって見てたのよ。それにまだはっきり覚えてるよ。小学校の芸術祭でミリアちゃんがトトロとぽにょ弾いてくれたの。あれ、すっごい感動したもの。他の学年の子にまでねえ、私ミリアちゃんの友達って自慢して歩いたもの!」
ミリアは首を傾げて照れ笑いを浮かべる。
「今もそうよ。ミリアちゃんって、私にとって本当に自慢の友達。本当に誰よりも頑張り屋さんで、自分が何かやってて大変だなあって思った時にはミリアちゃんのこと思い出すの、いっつも。」
ミリアも目を潤ませる。「ありがと。ミリアも美桜ちゃんいなかったらなんて、考えらんないよ。あの時一番最初にお友達になってくれたのが美桜ちゃんで、ミリア人生一気に楽しくなったの。本当に。」
「だってね、ミリアちゃんが最初に教室入って来た時ね、何て可愛い子だろうって、びっくりしちゃって……」
二人は思い出話に花を咲かせながら一緒に歩き出す。その時であった。
「あ、ミリア。」とすぐ傍から声を掛けられたのは。振り向く間もなくその声の主はミリアの前に回った。
「あ、カイト。」
明らかに、遠くからミリアの姿を認め、早足で歩いて来たことが明白であった。幾分顔は上気して、息が上がっている。
「……久しぶり。」偶然だね、とはさすがに言い出せず、照れくさくて頭を掻いた。
「あのね、美桜ちゃん。これはカイト。ミリアの高校の友達なの。あ、そうだ!」ミリアは口許を両手で覆って、目を瞬かせた。「カイトと美桜ちゃんは、大学一緒なの。」
「へええ!」二人は声を重ね、そして目を見合わせた。
「ちなみに、学部は……?」美桜が尋ねる。
「ええと、経済です。」カイトはその大人びた眼差しに思わず敬語を用いて言った。
「ええ、じゃキャンパスも一緒! 私は国際なの。」
「あの、ミリア、こちら……ミリアのどういう?」どう考えてもミリアやユリとは異なる、その知的な眩さから逃れるようにカイトは言った。
「あのね、ミリアの人生最初のお友達。美桜ちゃん。」
「ミリアちゃんが小学校一年に転校して来た時、たまたま隣の席だったの。それからずっと仲良くさせてもらっていて。でも高校は海外に行っていたものだから、帰国して久しぶりに入学式の前にスーツ屋さんで出会って、それから今日はたまたまそこで見かけて、追いかけてきて。」あなたと一緒ね、とは言わない方がいいのだろうと美桜は笑顔で口を噤んだ。
「はあ。」カイトは華麗なる経歴に口をぽかんと開けた。
「美桜ちゃんは、すっごい頭がいいのよ。O女子高校行ってアメリカの高校も行って、そんで帰ってきてK大合格したんだから。ね。なんだかミリアにはよくわかんないぐらいに、頭、いいの。」
「そんなことないって。」美桜は思わずミリアの腕を引っ張る。「大学は帰国子女枠でたまたま入っただけなの。全然日本の受験勉強していなくて。カイト君は一般受験でちゃんと入ったんでしょう?」
「そう、……だけど、先生からは記念受験だってはっきり言われていたし、自分でも全然受かるとは思わなくて。たまたま本番だけ出来が良かっただけ。」カイトは俯いて微笑む。
「あのね、そんなことないの。カイトは高校入った時からずーっと一生懸命勉強してたの。クラスもね、一番上で、成績も一番だったんだから! ……そんで」と今度は忙しなくカイトに向き直り、「美桜ちゃんもね、頭はいいし、小学生の頃から委員長やってて、先生にはいろいろお願い事されてて、立派なの。しかもね、美桜ちゃんのママは、何と! お料理の先生やってるの! ミリア美桜ちゃんのママにお料理教わって、小学校は調理クラブ、中学校は調理部、高校も調理部と来て! 栄養学科の大学入ったんだから! 全部美桜ちゃんのママのお陰!」
「そうだったんだ。」カイトは素直に賛嘆する。
「懐かしいわねえ。一緒にうちで料理作ったわねえ。お兄ちゃんがツアー出ちゃう時はうちで毎日一緒にご飯作って食べたね。楽しかったなあ。」
「そうそう。」ミリアは手を叩きながら頬を紅潮させる。
「あの時ねえ、実は、ミリアちゃんはお兄ちゃんがいなくて寂しそうにしてた時もあったけど、私、ミリアちゃんと一緒に帰って一緒にご飯作って食べて、一緒に寝てっていうのがあんまり楽しくて楽しくて、お兄ちゃん帰ってきたらうちで一緒に暮らせないかなってママに相談したこともあったの。」
「ええ!」ミリアは目を丸くする。
「でもママは、『お兄ちゃんはミリアちゃんが大切なんだから、二人で暮らしたいのよ。家族なんだから。』って言ってね。ああ、そういうものかって幼心に思ったの。」
「……ママに会いたいな。」ミリアは笑顔を浮かべて言った。
「いつでも来て来て! まだ料理教室やってるんだ。ミリアちゃん遊びに来てくれたら絶対喜ぶから。」
カイトは自分の知らなかったミリアの姿を茫然と思った。この知的な女性は、小学校の頃から長らくミリアと兄との生活を当然の如く見てきたのだ。ミリアの恋情にはそれだけの歴史があったのだ。
「今だってきっと家にいるよ。」
「そうなの!」ミリアは身を乗り出し、しかしふと我に返り、「でも帰って夕ご飯作らないと。リョウに美味しいもの食べさして、元気付けさせないと。リョウ、最近忙しくってお疲れなの。」
「そうなんだ。」
「だってね、今度海外公演のことでメタル雑誌にインタビュー載ったりね、あとは、すっごいの! ギター雑誌の付録だけど、リョウのギター教習DVDが出るんだから!」
「ええ! 凄い! 買っちゃおう! なんていう雑誌?」
「美桜ちゃん買っても意味わかんないわよう。」
「でもいいの! お兄ちゃん見たいから!」
「じゃあ美桜ちゃんこそうちに来ればいいじゃん。」
「あはははは、じゃあ今度お互いのおうちに遊びに行かないとね。」
三人は歩調を合わせて歩き出した。
「お兄ちゃんも頑張ってるのね。」
あまり得意ではない話題に、カイトは二人の後ろで密かに顔を顰める。
「そう。まいんちレッスン行って、雑誌社も行って撮影もして、それから……今実は、リョウのお友達が入院しちゃってて、S総合病院にもお見舞い通ってんの。」
「そうなんだ。」
「おんなしギタリストの友達でね、すんごいギター弾く人でミリアも大ファンなんだけど、元気がないの。」
「入院してるくらいじゃね、元気もきっとないねえ。」
「早く元気になって欲しいんだけどなあ。ライブやって欲しいんだけどなあ。」ミリアは溜め息交じりに呟く。
「ミリアちゃん以外も、ファンの人みんなそう願っているわね。」
「そう。精鋭たちもきっと悲しんでるの。リョウが入院した時も、精鋭たちがまいんちメールくれて早く治って下さいって言って来たから。きっとおんなじだわ。」
「お兄ちゃん入院してたの?」美桜は足を止めた。
「うん、でももう大丈夫。リョウは不屈の闘志で治って、復活ライブも満員御礼だったし。……ジュンヤも早くそうして欲しいな。」
――ジュンヤ。カイトはその言葉を胸中に繰り返す。そして未だミリアに関することとなると全力で興味を引かれてしまう思考に気づき、密かに赤面した。
「じゃあここで、バイバイ。今度本当に遊びに行くね。ピンポーンって。」ミリアは確実に美桜に言っているのがわかって、カイトは落胆する。
「うん。ママも絶対喜ぶから本当に来てね!」
「カイトもメールするわね。」
カイトははっと顔を上げ、にわかに微笑みを浮かべた。
「じゃね、バイバイ!」
ミリアはさっさと踵を翻し、足音高く去っていく。
カイトは二人遺された現状を把握し、にわかに緊張感を覚え始めた。今しがた会ったばかりの、名前しか知らない、想い人の友人という、ただそれだけの関係の女性と二人きりなのである。
「あの……。」黙っている訳にも行くまいと、カイトは恐る恐る声を掛けた。
美桜は笑顔でカイトを見詰めた。「ミリアの、昔からの御友人なんですね。」
「そう。同級生よ。敬語はいらないわ。」美桜は揶揄うように言った。「ミリアちゃんとは小学校一年生から中学卒業まで、ずっと同じクラスで一番の仲良しだったの。」美桜は俯き遠い目をしながら歩き出す。
「今だって抜群に可愛いけどね、最初に見た時はとっても衝撃だった! 何て可愛い子だろうって思って! 隣に不安そうに座った時、すぐにこんな表情は払拭してみせるって思ったの。話しかけたら、私がお喋り過ぎるのもあるけれど、ミリアちゃんはあんまり言葉が出てこなくて、すぐにお喋りが苦手なんだってわかった。でもそれは決して人が嫌いというのではなくて、ただ単純にことばが苦手だってわかったから、一緒に遊んだり、お料理したり、ギター弾いて貰ったりして一緒に過ごしたの。ミリアちゃんは小さい頃からずっと誰よりも頑張り屋さんで真面目だった。それで、」くすり、と笑みを漏らして、「お兄ちゃんのことが一等大好きだった。」と付け加えた。
カイトは傷つきながらも、にわかに生じた不満を伝えるように「……結婚、したそうです。」と言った。
「本当に?」しかしその表情には非難も疑念も一切なかった。ただ晴れ晴れした歓喜だけが溢れ出していた。
「ああ、本当に? 良かったあ! 今度結婚祝い何かプレゼントしないと! ミリアちゃん何がいいかな。ミリアちゃん水色が好きなの。知ってる?」
カイトは逆に不審げに美桜を横に見た。
「あの、兄妹で、……結婚ですよ。」
「ほらまた敬語使った。……兄妹でもいいじゃない。だってミリアちゃんは本当にお兄ちゃんが大好きだったんだもの。私たちね、毎年一緒にバレンタインのチョコ作ったの。私はパパだったりその時好きな子だったり色々だったけど、ミリアちゃんは毎年必ず、お兄ちゃんに作ってたもの。」
しかしカイトの渋面は緩まない。それに気付き、美桜はカイトの肩を優しく叩いた。
「海外で過ごしてた時、男性同士とか女性同士とか、普通に仲良さそうなカップル、街のあちこちで見かけたわ。だもの、兄妹だって別にいいじゃない。愛の形は自由だと思うんだけど……。」
カイトは黙す。美桜は小首を傾げ暫し考え込み、「カイト君はミリアちゃんが好きなのね。」と断言した。
カイトは目を見開き、慌てて「いや、何で? そうなるの? そんなわけ、ないだろ。」と口ごもりながら必死に弁解した。
美桜はあはは、と笑い、「敬語治った。」と言った。「カイト君って面白いね。経済と国際だったらさ、キャンパス一緒だし一般教養とかもしかしたら授業被ってるかもしれないし。そしたらまた一緒にお喋りしましょ。じゃあ、またね。私はここで。」手を振りながら足取りも軽く美桜は去っていく。
カイトは顔を赤くし、それから憮然とした顔付きで、やけに力を籠めて歩き出した。ミリアとの久々の再会は、妙な出会いをも引き連れてやってきた。