13
その後も暫く久々のギターの感触を楽しんで病室に戻ると、夕飯の時間となっていた。ミリアが持ってきた「がんに効くごはん」とやらをリョウは次々に平らげていく。傍で病院から出された食事を、「これ、食べていい?」と言ってミリアが代わりに食べ始めた。
「お前、それ旨い?」
「うん。」
リョウはひよこ豆のサラダを口いっぱいに頬張りながら、不審げにミリアを見詰めた。
ミリアはしかし気付かれぬように必死であった。昨日支払った半月分のリョウの入院費があまりに高額だったのである。このまま入院が数ヶ月に及んだら……、手術費などが入ってきたら……、ミリアは確実に破たんすることを知っていた。しかしそんなことはリョウに悟られてはならない。まずは手っ取り早く食費を削ることから始めねばならない。後は、どうやって節約をしたらいいのか。ミリアは必死に考えを巡らせていた。
「明日野上先生の診療があってよお。そこで抗がん剤治療に入るかどうか決めるんだと。かなり過酷らしくてよお、さっきの園城さん、か? 坊主にしてたけど、俺もああいう風にしないといけねえかもしれん。」リョウは一通りミリアの持ってきた食事を食べ終え、溜息交じりに呟いた。
「え? リョウ、あたま、坊主にするの?」
「ああ。抗がん剤治療に入ることが決まったらな。」
「何で、どうして?」
「副作用で、髪の毛が抜け落ちちまうんだと。多分園城さん? もそういう理由でああいう頭にしてんだぞ。」
ミリアは真顔で固まった。坊主のヘッドバッキングがおかしくて笑いそうになった自分を、すこぶる恥じた。すぐにでも謝りたくなった。「……そう、だったの……。」
「こんな長くしてて髪の毛次々抜けてったら、偉い迷惑だろが。一階の売店裏に床屋あんだろ? あそこは、抗がん剤治療を受けるがん患者で成り立ってるんだと。」リョウはいつの間にか構築したネットワークで収集した情報をこっそり披露する。
「でも。でも、リョウは……。」
「デスメタルバンドのフロントマンだろうが、頭丸めた坊さんだろうが、がんになっちまえば一緒よ。俺も治療頑張るからさ、お前も応援してくれよ。な。」
「当たり前じゃん。」ミリアは反射的にそう言ったが、それでも園城のような頭になるリョウを思えば、悲しくてならなかった。思わず手を伸ばし、リョウの髪に触れる。リョウは何も言わなかった。ミリアは泣き出しそうな顔をして、リョウの髪をさらさらと指で梳かした。
何年か前に突然リョウが短髪にしてきたことがあったが、あれ以上の短さなのだ。髪の毛がまるで、なくなってしまうのだ。ミリアの胸は痛烈に痛んだ。髪なんぞ附属品だと頭では解しつつも、初めて見た時ライオンかと見紛うたあの強烈な衝撃が忘れられない。真っ赤な腰にまで届くこの髪は、リョウの象徴なのだ。
数々の検査を行い、リョウはいよいよ抗がん剤治療に入ることとなった。リョウは早速院内の床屋に赴いた。ミリアがいると煩いと思ったので、日中、検査と検査との間を縫って、まだミリアが学校に行っている時間帯にどうにか滑り込むことができた。
「いやあ、こんなに長い髪をした患者さんは初めてだ。女性も含めてねえ。」と頭頂部の薄くなっている主人が瞠目するのを、どこか誇らしくリョウは鏡越しに見返す。
「俺は十代ん時から、これでやってるんす。バンドマンなもんで。」
「バンドマンかあ。うちの倅も大学時代そんなことをやってたなあ。」
しかし長年院内で床屋を開いている主人にはこれが何を意味するのかは、解っていた。特には髪の長い女性であるが、入院中に髪をばっさりと切るというのは、すなわち抗がん剤治療に入ることを意味するのである。すなわち死と向き合っているということ。これから過酷な戦いに挑んでいくということ。こんなに若く、屈強そうな体を有しているというのに――。主人はリョウのこれからの治療が功を奏することを祈りながら、髪を束ね束ね、丁寧に切っていった。いつでもいい。伸びた髪で再び会いに来てくれることを祈りながら。
リョウは溜め息を吐きながら目を閉じ、頭の軽くなりゆく感覚を味わった。そこにバタン、と荒々しく扉を開け、一人の女子高生が入って来た。
「いらっしゃい。」主人が鏡越しにそう発するや否や、少女は客の後ろに走り込んできた。そして息を切らせながら、床に落ちた真っ赤な長い髪と鏡の中とを交互に見詰める。
そして、「切っちゃったの?」悲痛な響きを秘めた声で問うた。「どうして? どうして?」
「しょうがねえだろう。伸ばしててもハゲるんだしよ。」
「ええと……。」主人は手を止めてミリアを凝視した。
「ああ、……妹です。」
ミリアは肩を激しく上下させながら、悲しいような恨みがましいような目で縋り付くような眼差しで鏡の中のリョウを見ていた。
病室にいないもので、慌ててやってきたのか、看護師に行き先を聞いてやってきたのか、とかく悲し気な目で右半分だけがおかっぱ頭となったリョウの姿を凝視した。
「んな顔すんじゃねえよ。髪なんてすぐ伸びるしよお。ほら、前切った時もエクステ? っていうのか? あれつけて速攻元通りになったじゃねえか。大した問題じゃねえよ。」
ミリアの両の拳も震え出す。こうなったらなかなか冷静には戻れない。リョウは深々と溜め息を吐いた。
「……お嬢ちゃんは、お兄ちゃんの長い髪が、好きだったのかい?」そう主人が突如切り出した。
ミリアはこっくりと肯く。好き、そんな簡単な一言で済まされてしまうことに一抹の寂しさを感じたものの、真っ赤な髪をしたリョウは憧れであり、尊崇の対象でもあり、撫で心地も最高だったし、安らぎさえも与えてくれた。
「綺麗な真っ赤な髪してるもんなあ。もうここで三十年もやってるけれど、こんな長い綺麗な髪した患者さんは初めてよ。」主人はそう言いながらミリアに微笑みかける。「確かに、お嬢ちゃんの言う通り、切っちまうのは勿体ねえって、思うよな。」
じゃあ、どうして? ミリアは詰問するような目で主人を見詰めた。
「でもなあ、しょうがねえんだよ。抗がん剤治療っつうモンは、髪が抜けちまうんだからよ。」
リョウはやや驚いた風に鏡越しに主人を見返した。やはり、わかっていたのかと思って。
「よく見てみ。戦いに挑む頭だよ。何もかも削ぎ落して、自分の命を掛けた戦いに、挑むんだよ。おいそれ凡人には出来るもんじゃあねえ。だから、」主人は鏡の中のリョウを覗き込んだ。「お兄ちゃん、誰よりもかっこよくなるぞ。お嬢ちゃんが今まで見たことねえぐらい、かっこよくなる。」
ミリアはリョウを不安げに見詰めた。
「最初は、んまあ、……見慣れねえかもしんねえけどさ。お兄ちゃん、なんか、こう、最近ドラマに出てる人に似てるじゃねえか。おじさん最近の俳優の名前はよくわからないけど。」
「そうなの?」
「そうそう。うちの家内がいい男だって言ってる人に、よく似てんだ。誰っつったっけかなあ。」
「浮気?」ミリアは顔を顰めて主人に迫る。
主人は声を上げて笑った。「ドラマ観て、いい男だって言うのは浮気じゃないよ!」
「でもリョウがテレビ観ていい女だって言ったら、……嫌な気持ちする。」腹立たし気にミリアは言った。リョウはそうなのか、と今更ながら瞠目する。
主人は笑い続けながら「お嬢ちゃんはお兄ちゃんがよっぽど大好きなんだねえ。」と言う。
リョウは苦虫を噛み潰したような顔をしながら、鏡越しにミリアを見詰めた。今後はTVを見る時も十分注意しなくてはならない。うっかり女優を誉めたら大変なことになる。
「じゃあ、しっかり支えてやんないと。髪の毛があったってなくったって、お兄ちゃんはお兄ちゃんだろう?」
ミリアは神妙そうに頷いた。
「おじさんなんて、ほら」と言って主人はつるり、と頭を一周撫でた。「こんなに薄くなってきてんのに、家内は文句ひとつ言わないよ。」
「……愛が、あるのね。」ミリアは下唇を噛んで敗北感を滲ませる。リョウは思わず噴き出した。
「がん患者ってえのは、――ここの病院がんセンターもあるからさ、おじさんいっぱい見てるけど、どうしても心細くなっちまうんだ。やけ起こしちまったり。そんで治療を諦めちまうって人も少なくない。でもな、家族がきっちり支えてやってる所はちゃあんと、今まで通りの生活に戻ってる。すっかり治って、髪の毛なんかきっちり七三とかにしちまって、そんで一瞬誰だかわかんなくなったりもするんだけど、そんななりして、おじさん所にも、医者でも看護婦でもねえのに世話んなりましたって、挨拶に来てくれる人もいる。お嬢ちゃんがお兄ちゃんのこと、そんだけ愛してれば大丈夫だ。また真っ赤な髪して、おじさん所来てちょうだいよ。」
ミリアは目を潤ませながら肯いた。それに安堵すると主人は再びリョウに向き合って、「じゃあ、切っていきますよ。」と微笑んだ。
リョウは安堵に頬を緩ませる。そしてすぐ後ろにいるミリアの手をそっと握りしめてやった。その手はひんやりしていたが、すぐに力強くリョウの手を握り返し、温かさを戻していった。
「う、寒い。」リョウは床屋を出ると、ぶるり、と身を震わせながらエレベーターのボタンを押した。隣には、何か決意を固めたらしきミリアが、眉根をしっかり寄せてリョウの腕を抱き締めている。
「あれだな、帽子。ニット帽。家になかったっけか? むかーし、持ってた気がすんだよなあ。引っ越し屋でバイトしてた時、冬場クソ寒くて買ったんだよなあ。」
ミリアは暫く考えて「探してみる。」と答えた。
「悪いな。」
「悪くない。」
エレベーターが到着し扉が開いた瞬間、そこにいたのは点滴をぶら下げて、黒いニット帽を被った園城だった。
「あ、リョウさん!」顔色は悪いものの、それでも元気そうに園城は微笑んだ。「遂に髪、切ったんすか。」
「そう。明日から一週間抗がん剤治療入るからさ。……園城さん、やったことある?」リョウはこわごわと尋ねた。
「バリバリありまくりっすよ。」園城はそう言って高らかに笑う。
「やっぱさ、……その、吐いたり、頭痛くなったり、すんの?」
「あー。……結構人によるっつう話ですけど、俺の場合は、かなり、キますね。十五分ごとに吐きますから。クリーンルームの一番便所に近いベッド? あそこをいっつも定位置にしてもらって。常に走り込めるように。」
「マジか。」リョウの顔は強張った。
「でも打っても一、二度吐くぐらいで何ともないっつう人も、結構いるみたいっすよ。」
リョウはううむ、と腕を組んだ。「俺の場合はどうなんのかなあ。」
「大丈夫よ。ミリアがついてるもん。」と言いながらその腕は震えていた。何一つ悪いことした訳でもなし、そればかりか自分に生きる場所と生き甲斐とを与えてくれたリョウがそんな目に遭うだなんて、我慢できなかった。信じられなかった。だからミリアは何かを恨まずにはいられなくなった。「そんな怖いこと、言わないでよ。」自ずとそれは園城へと向けられた。
「お前なあ、せっかく先輩が教えてくれたんじゃねえか。失礼なこと言ってんじゃねえぞ。」
ミリアは固く俯いて涙ぐむ。
「いやいや、お嬢さんの言う通りっすよ。不安に思ってるひと不安にさせて、無神経でした。すみません。」
「ごめんなさい、違うの。園城さん悪くないの。ミリアが悪いの。ごめんなさい。」ミリアは慌ててリョウの腕を離すと、今度は園城の手に縋った。その手は老人のそれのようにかさついて、変に柔らかかった。「本当に、ごめんなさい。ごめんなさい。」なんだか気持ちのコントロールができない。リョウの頭が丸坊主になり、そんな恐ろしい治療の話を聞き、想像だにしていない地獄に引き摺り込まれてしまうような、そんな妙な危機感があるのである。
園城は間近で見たミリアの目が潤んでいることに気付いた。そして当の本人以上に不安に押し潰されそうになっていることに。それは自分ががんになり、再発を繰り返す中ですっかり弱気になって塞いでしまった自分の母親と姉の目と同じ輝きを宿していた。
「自分の愛する人が苦しむってなると、ある意味自分が苦しむよか苦しいっすよね。否、何か変な言い方になっちまいましたけど。……ええと、彼女さんすか?」
ミリアは驚いた。そんなこと言われたことはなかったので。
「いやあ、……妹、兼、妻?」リョウが苦笑交じりに答える。
「いいなあ!」
園城がすぐさま信じ込んだのにかえってミリアは驚いた。
「俺もこんな可愛い奥さん欲しかったなあ。そうしたらもっともっと腹の底からがんと闘えるのにな。」
「……ママとお姉ちゃんじゃ、ダメなの?」
「ダメじゃないな。あはは、ダメとか言ったら毎日来てくれるのに、悪い。」
ミリアは恐々と微笑んだ。「毎日来てくれると、嬉しい?」
「ああ、嬉しいですよ。忘れられてないなって思えるし。きつい治療も自分のためだけじゃなくって、家族のためって思える。そうすると、より真剣に、本気に、乗り越えようと思えるんですよ。一人でいるとね、どうも心細くなって、辛くて、もう、どうでもいいやっていう諦めの気持ちも浮かんじゃうから。」ミリアは先程床屋の主人が言ったことと同じだと思いなし、目を丸くした。
「そうだ、リョウさん。髪切ったばかりなら、帽子とかないんじゃないんすか?」
「ああ。昔使ってたの探してきてって言った所。正直髪切ったぐれえでこんな寒くなるとは思ってなくてさあ。」
「これ、使って下さい。」そう言って園城は被っていた黒のニット帽を脱いだ。「あはは、何か温もり入っちゃってますけど。」園城は照れ笑いを浮かべながらパタパタと帽子を振るった。
「いやいや、それは悪いよ。さすがに。」
「全然いいんす。俺最早コレクションの域でたくさんニット帽持ってるから。……これ、結構いいっすよ。綿でソフトだから。一応、医療用なんす。」と言って、リョウの手に握らせようとする。
「へえ。……いやいや、でも余計に悪いよ、そりゃ。」リョウは突き付けられたそれを押し戻そうとする。
「あ、リョウさん、今度のライブはいつですか?」
「え、ライブ?」怪訝そうにリョウは繰り返す。
「内庭での、ライブ。」
リョウは噴き出した。「ああ。いつでも。」
「じゃあ、そのチケット代。プロはやっぱただで弾いちゃだめっすよ。だから、それが、お代。お古で悪いすけど。とりあえず寒さ凌ぎに。」
リョウは頓狂な顔をして園城を見詰める。
「いやあ、楽しみだな。また色々弾いて下さいね。まさか入院生活でプロのギター聴けるなんて、思ってなかったから、本当リョウさんと出会たことが嬉しくて。最近あそこ通るたんび、リョウさんいねえかなって、チェックする癖が付いちまって。あはははストーカーみてえだ。」園城はなまじっか社交辞令とも言われない、心底嬉し気な笑みを浮かべた。「あ、……もうこんな時間だ。血液検査後れると文句言われちまうから。じゃあ、リョウさん、これで。また。」
リョウは遂に押し付けられたニット帽を手に茫然とその場にとどまった。たしかにその感触は想像以上に柔らかく、かつて自分が身につけていたそれよりもしっくりと自分の手に馴染んだ。