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病室を辞し階下を降りていくと、床屋のベンチで脚をぶらつかせながら笑っているミリアの姿が目に入った。手にはお茶を三本持っている。
「ここで油売ってたんか。」戸に手を掛け入って行くと、客のいない床屋では、主人が供したであろう茶と煎餅を囲んで二人が談話に興じているところであった。
「あ、リョウ! おかりなさーい。」
「すんません。ミリアお邪魔させちまって……。」
「いいんだよう。今日はお客さんも来ないし。……それはそれで、寂しいけど嬉しいことなんだよね。抗がん剤治療入る患者さんがいねえってことだし、まあ、忙しいお医者さんとか看護師さんが、仕事の合間を縫って客として来てくれる時は純粋に嬉しいんだけどねえ。」
「今ね、ミリアもね、もしかしたらここでお勤めするかもしんないってお話してたの。」
「はあ? 何で。」
「だって、管理栄養士になって病院にお勤めするんだったら、ここがいいもん。ミリア、この病院大好き。おじちゃんいるし、中庭は綺麗だし、お医者さんも看護師さんもいい人ばっかだし。」
「嬉しいねえ!」主人は手を叩いて顔を綻ばせた。「お嬢ちゃんがここにいてくれたら明るくなっていいなあ。そしたらおじさんもまだまだ頑張って、お嬢ちゃん来てくれるまで仕事続けていかねえと。」
「そうなの!」
「でも、お嬢ちゃんの大好きなギターはどうなっちまうんだい?」
「どっちもやるわよう。バンドもやって患者さんにお料理も作んの。」
「ほおおお。そらあ、大したもんだ。」主人はそう言って何度も肯いた。
リョウは初めて聞くミリアの人生計画に目を丸くする。
「ミリアはねえ、リョウが入院してた時にいっぱい本読んで、がんの人にどういうお料理作ったらいいかお勉強したの。そんでね、これからもっともっと大学でそういう勉強するって決めてんの。だって、病気の人はみんな辛い思いしてるから……。」ミリアの脳裏には先程のジュンヤの姿が思い浮かんだ。早く良くなってギターを弾いてほしい。あの煌びやかな空間で再びあの音を聴かせてほしい。そう思い唇を噛み締めた。
「お嬢ちゃんは立派だなあ。」主人は腕組みをしながら幾度も肯く。「そういう思いでご飯作ってくれりゃあ、病気もすーぐ治っちまうよ。お兄ちゃんもその口だしな。」
「そうすね。」リョウは照れたように微笑んだ。「マジで何も食えねえって思っても、こいつが作って来てくれたスープだけは口入ったから。何か特別なモン、入れてたのか?」
「愛!」ミリアは胸を張って即答する。リョウは声を上げて笑いながらも、そんなものをジュンヤが享受することになればがんだろうが何だろうが即座に治ってしまうのに、と思った。
「今度さ、ジュンヤさんにも作ってきてやれよ。喜ぶだろ。」
「うん。そうする。」
「お友達の調子はどうなんだい?」主人は心配そうにリョウを見た。
「んん。……良くなってくれることを祈ってます。」
主人は顔を曇らせてそっと目を閉じた。
その時、ドアから客が入って来る。明らかに入院患者とわかる、パジャマ姿に痩せこけた老人が。
「いらっしゃいませ。」主人は愛想よく声を掛け、客に歩み寄ると手を差し出し、ゆっくりゆっくり、椅子へと座らせた。リョウはそれを見ながらここでの接客のあり方に瞠目した。
「じゃ、おじちゃんまたね。また、来るから。」
「はい、今日はありがとよ、美味しいクッキー。いつでもおじさんはここにいるから。遊びにおいでね。」
ミリアは笑顔で肯き、ペットボトル三本を重たげに抱えて店を出た。
「もうお見舞い終わっちゃったんでしょ?」ミリアが尋ねる。
「ああ、まあ、……だってお前帰ってこねえんだもん。」
「だってね、リョウはジュンヤと二人っきりで話したいんだってわかっちゃったから。」
リョウは肩を窄める。「……悪ぃ。」
「いいの。入院の『コツ』とか教えてたんでしょう。ミリアは一晩しか入院しなかったから『コツ』はわかんないもの。」
「あ、ああ、そう。」リョウはミリアが勝手な想像を巡らせていたことに胸をほっと撫で下ろす。
しかしミリアに果たして何をどこまで言ったものだか、困惑する。無論正直な所を言うべきだと思う。少なくともミリアと自分との間で隠し事やら秘め事はしたくない。しかしそれにはやはりジュンヤの了承が必要であろうと思うとリョウは他人事ながら暗澹たる気持ちになった。早くお前の父親だと言ってしまえばいいのに。会いたかったと面と向かって言ってやればいいのに。何も危惧することなどない。しかし一方でそのミリアに対する格別な慎重さこそが、信頼に足る証のように思われるのも事実であった。ミリアのことを気遣い過ぎる程気遣える人間だからこそ、リョウはミリアを連れてくることになんの躊躇も覚えぬのだ。そう思い至って、リョウはミリアの頭を撫でた。
「ふふ。急になあに。」
「何でもない。」それ以上のことは言えぬのだ。リョウはやはり胸にずしりとしこりのようなものが生じたのをほとんど体感した。