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看護師が威勢よく「千葉さん、入りますよ。」とドアを開けると、ジュンヤはベッドに横たわり、ヘッドフォンを付け音楽を聴いている所であった。相当な音量で聴いているのか、よほどの集中力をもて聴いているのかは知れないが、気付きもしない。看護師に荒々しく肩を叩かれはっと気づき、更に看護師の奥にいるリョウとミリアに瞠目し、悪事の露呈した子供のような焦燥ぶりで点滴の付いた手でヘッドフォンを外した。
「リョ、リョウさん。ミリアさん。」
「こんにちは、大丈夫すか。」リョウは笑顔で言った。
「え、ええ。」
看護師は笑顔を浮かべたまま、手早くジュンヤのなくなりかけた点滴を取り換え、腕時計を見て点滴の落ちる速度を決めると、「ではごゆっくり。千葉さん。また二時間後に来ますからね。」と言い残して去っていった。
ミリアは花籠をぐい、と目の前に突き出し、「お見舞いに来たのよう。」と微笑んだ。
ジュンヤは両手で花籠を受け取ると、「あ、ありがとうございます。」と頭を下げる。
「ここ置いとこ。」ミリアは勝手に再びジュンヤから花籠を奪い取り、テレビ台に乗せた。テレビが全く見えなくなるのもお構いなしに。
「ねえ、お菓子食べれる? お砂糖とか、小麦粉とか、体に悪い?」ミリアは不安そうにジュンヤの顔を覗き見た。
「いえいえ。栄養を付けるために、好きなものを食べていいと言われているんです。普段と全く変わりませんよ。」
「良かったあ。ね、これアーモンドクッキーよ。ミリアが作ったの。食べて。」ミリアはクッキーの袋をジュンヤに突き出した。
「ええ!」ジュンヤは大げさすぎる程に驚くと、丁重にミリアの手から袋を受け取る。
「食べて。」
そっと袋を開け、一枚を取り出し大切そうにじっと見つめ、口に投じた。
「美味しい……。」
「ふふ。」ミリアは首を曲げてはにかみ笑いを浮かべた。「ねえ、新曲ありがとう。すっごく素敵だった。毎日聴いてるの。ミリア、メロデス以外はあんまし聴かないんだけど。」
「そうなんですか。」
「メタルだとリョウが一番だけど、ジャズだけどジュンヤが一番だわ。」
ジュンヤは高まる感情を遂に抑えきれなくなったのか、深呼吸を繰り返す。リョウはその、初恋の相手と話をしている中学生のような態度に、本当にこの男は子持ちなのかとさえ訝った。
「ねえ、大丈夫? だから早く治して、新曲入ったCD出してね。ほんと楽しみなの!」
「そう、ですね。」ジュンヤは力なく声を絞り出した。「レコーディング予定も入ってたんですけれど、私の体調のせいで全部キャンセルしてしまって……。ピアニスト、ボーカリスト、ドラマー、ベーシスト、皆にも申し訳ないことをしてしまった。」その言葉を聞き、リョウはふと首を傾げる。レコーディング可能な人間からどんどん音を入れていってもらい、最後に自分が参加すればいいのではないだろうか。もし後でどうしても変えてほしければ、もう一度レコーディングをさせればいいのであるし、複数パターンを入れておいて後で選別してもいい。少なくとも自分たちはそうしてきた。レコーディング自体をキャンセルせずともよかろうと、リョウは違和感を覚えた。
「そうなの。でも早くレコーディングやってちょうだい。ジュンヤの精鋭たちも待ってるでしょ。」
「精鋭?」
「あ、ああ、いっつも来てくれるファンのこと。ジュンヤさんにもいるっしょ。」リョウが補足する。
「ああ。固定ファンのことを精鋭って言ってるんですか。面白い表現ですね。」
「普通精鋭って言わないんだ。」
「言わねえよ。」
「今度ね、ミリアたちアメリカとフランスでライブやんの。海外にも精鋭ができんのよ。」
「ええ! 本当ですか。」ジュンヤの顔がぱっと輝いた。
「本当なの。」ミリアは誇らしげに胸を張った。「リョウの曲が世界中で聴かれてね、そんで聴いた人誰もが誰も、くるしいことに向き合って、そんで乗り越えていけるようになんの。素敵でしょう。」
「そうですよね。メタルというのは、死を真正面から見据えることのできる数少ない音楽ジャンルだと思っていますよ。生きとし生けるもの全てのゴールである死をいたずらに恐れるのではなく、心して向き合える。必要な芸術です。」
個室ではあるにせよ、院内で唐突に死、などという単語を持ち出したものだからリョウは少々慌て出した。
「ねえ、退院したらミリアたちのライブまた来てね。お医者さんの言うこと聞いてれば、すぅぐ治るから。リョウもミリアもここ、入院したことあんの。でもね、すぅぐ、治っちゃった。」
「そうなんですか。」
「ミリアはね、心の病気。」
ジュンヤは苦しいように顔を顰めた。ミリアは大したことはないのだと言わんばかりに微笑む。
「前、ミリアの映画作ってね、その撮影場所行ったら、パパに痛いことされてたこと思い出しちゃって倒れちゃったの。そんでこの病院来たの。でもすぅぐ治してもらっちゃった。」
ジュンヤはまるで自分がミリアを傷つけでもしたかのように、目を強く閉じて俯いた。
「そんで去年はね、リョウががんになっちゃったの。」
ジュンヤははっとなってミリアを見、次いでリョウを見上げた。
「デス声がちゃんと出なくなっちゃったの。そんで病院来たらお喉のがんって言われて。抗がん剤治療やったら髪の毛なくなっちゃうし、痩せちゃうしゲロ出ちゃうし、大変だった。でもすっかり今は治ったから、ジュンヤも大丈夫だわよ。」
ジュンヤは哀しいような笑みを浮かべて、小さく、躊躇いがちに肯いた。
「五年後の生存率が30%とかって言われて、」勇気付けたい一心でリョウもそう続ける。
ジュンヤは口も利けぬとばかりに、目を丸くしてリョウを見上げた。
「頭真っ白んなりましたよ。」
ミリアはリョウの腰に手を回し、あたかもたった今がんの宣告をされたとばかりに背を撫でて慰めた。
「十ヶ月ぐれえ入院して。金は底尽くし、こいつにも受験期だっつうのに散々迷惑かけて。」
「……そう、だったんですか。」ジュンヤはやはり苦しそうに吐き出した。
「で、抗がん剤治療やって手術して、一応全部腫瘍は取れたっつう話にはなったんすけど。一応検査も今ん所二回やってどっちもクリアして。あと四年? 三か月ごととか半年ごとに検査して何ともなけりゃあ、寛解だっつう話で。どうにか一命は取り留めました。」
「そうなの。でも入院してた時は、リョウ可哀そうだった。痩せっちまうし、ゲロばかしして何も食べれないっていうし。ジュンヤはそれと比べるととっても元気に見えるわよう。」
「……そう、だったんですか。」ジュンヤは俯いて、噛み締めるように言った。「リョウさんも、大変だったんですね。」
「でももうぴんぴんしてるわよう。アメリカとフランス行くんだから。」ミリアはそう言ってジュンヤの細い背中を摩った。「だからジュンヤも大丈夫。ね、早くレコーディングしてね。待ってるんだから。」
「そうだ。」リョウは妙な声で、取って付けたように言った。「お前さ、下の売店でお茶買って来てよ。ジュンヤさんの分とお前の分も入れて、三本。な。」
ジュンヤは慌てて「あの、お茶ならここにポットありますが……。」と言いかけたが、リョウのただならぬ視線に気づいて、口ごもった。
「暑いから、冷てえの。頼む。」リョウは返事も待たで腰ポケットから財布を取り出し、千円札を取り出すと強引にミリアに握らせた。
「……行ってきまあす。」ミリアはジュンヤともっと喋っていたいのに、と、幾分しょんぼりした声でそう告げると、とぼとぼと病室を出て行った。
その後姿を暫し見守り、リョウは再びジュンヤに向き合った。憂慮すべきことは全てなくなったとばかりに、真っ直ぐな目線でジュンヤを見詰めた。