12
ミリアは両腕にお弁当箱を、そして背にはリョウのKingVを担ぎ病院にやってきた。この背の重みはリョウが普段感じている重みであると思えば嬉しくてならず、ミリアはガラス窓の前を通るたびに何度も背を翻してギターをうっとりと眺めた。これはリョウにとって戦友である。幾度ものライブをこれで戦い抜いてきた。だから、眺めているだけでも沸々と闘争心が膨らんで来てがんを潰してくれるはずなのだ。ミリアは浮足立ってリョウの病室の前まで来ると、勢い込んでカーテンを開けた。
リョウは左腕に点滴を付けたまま、ピンク色の表紙の内藤ルネのイラスト集に視線を落としていた。ミリアの顔を見上げ、酷く狼狽し慌てて伏せる。
「何で、閉じるの。」
「いや、ほら、だって……、せっかくアキが持って来てくれたから、目でも通さねえと悪いかなって、思って。」
ミリアは首を傾げる。
「別にお前に似てるとかって、俺は、俺はだな、断じてそんなことは思ってねえ。」
「……持ってきた。ギター。」
ミリアはどうでもよくなって、背をちらと見せた。
「おお! 俺の! 愛しのマイギター!」手を伸ばす。腕の下でぶらんぶらん、点滴の管が揺れた。そんな風にして自分が求められたことはない、とミリアは残酷な事実に思い当たる。
「ねえ。ミリアとギターと、どっちが愛しいの。」低く問うた。
「え?」
「何でギターだと腕伸ばすの。ぎゅっとしたいってことでしょ? ミリアにそんな風にしたこと、ない。」
リョウは身を硬直させながらミリアを見上げた。
「ミリアは妻だのに。」
「あ、ああ。」リョウは口籠って恐る恐る手を引っ込めた。
「ミリアだって『愛しの』って、言って欲しい。」
「いやあ、あっははっは。……何を無駄に危惧してやがるんだ、このお嬢ちゃんはよお。」リョウは必死の形相でどうにかこうにか笑みを浮かべると、「お前、俺がお前を差し置いてギターを欲してると思ったのか? バカだな! お前を抱き締めたかっただけなのによお。こりゃあ、ご機嫌斜めな日か? 生理だな?」
今度はミリアが目を丸くする。そしてすぐさまリョウに飛びついた。ギターのヘッドがリョウの頭に直撃する。リョウは顔を顰めて痛みを堪えると、ほとんど必死にミリアの頭を撫で摩った。
「いやあ、やっぱよお、ギター旨くてエモーショナルで、俺と瓜二つの音出しやがって!こんな女他にはいねえからな。やっぱ俺の女は……、妻は、史上最強だよなあ! あっははははははあ!」その声は完全にやけっぱちて震えている。
「本当に? 本当に? ミリアは史上最強なの?」
「ああ、最強最強。お前を手放すことは一生ねえぜ。一生俺の隣で絶望と慟哭と憤怒に満ち満ちたギター弾けよな。」
「うん! うん! リョウ、大好き!」
「だからさ、ちょっと、ギター、出して。」
ミリアは「うん。」と心得顔に肯くと、よいしょとベッドから降りてソフトケースのチャックを開いた。
「おお、おお。久しぶりだなあ。点滴終わったらちっと外行って弄ってやるかな。」
「ミリアも行く。」
青芝の美しい内庭には幾つものベンチが向かい合わせに、あるいは中央に向かって置いてあり、数名程の入院患者と思しき、車いすに乗っている人やら、点滴を引き連れている人やらが束の間の日差しと風とを楽しんでいた。
リョウはどっかと空いているベンチに腰を下ろすと、ギターを爪弾きチューニングを始めた。「うわあ、むっちゃくっちゃひっさしぶりだなあ! ギター弾ている夢は何度か見た気がするけど……。」
そして指のストレッチに古いジャズの曲を弾き、それからMEGADETHの『SHE WOLF』のリフを刻み始める。
ミリアはリョウの隣でその音をこの上なく尊いものであるかのように、目を閉じて聴いていた。リョウにとって久しぶりであるならば、当然ミリアにとってもリョウのギターは久しぶりなのである。ほとんど感涙しそうになりながら、ミリアはギターの生音を心行くまで味わった。無論エレキギターである以上、その電気システムがある以上、アンプを通すことが前提である。しかし今、リョウの奏でる音は決して不備を感じさせるものではなかった。それがミリアにとっては不思議でもあった。
「MEGADETHっすか。」とそこにぬっと顔を出したのは、点滴をぶら下げた丸坊主の青年である。ミリアは身を反らし、目を瞬かせた。
「ええ、まあ。」リョウは笑みを浮かべながら青年を見上げ、尋ねた。「もしかして、メタラーの方っすか?」訊くまでも無いのである。青年が来ているのはSLAYERのWorld Painted BloodのTシャツであったのだから。
「いやいやあ、懐かしい曲が聞こえてきたんで。思わず。つうかギター巧いっすねえ。ちっとここで聴いててもいいすか?」
「あのね、リョウはプロなの。」ミリアがえっへんと胸を張って答えた。「Last Rebellionっていうメロディックデスメタルのバンドの、フロントマンやってるの。ボーカルもギターもよ。有名なんだから。」
「有名な訳ねえだろが!」思わずリョウは手を止めて叱咤した。
「そうだったんすか、マジですみません。……最近バンドはからっきし疎くなってしまって……。」
「いやいや、マイナージャンルで、ライブハウスでちょこちょこやってるぐれえなものですから、誰にも知られてねえんすよ。」
青年は気まずそうに俯いて、そして向いのベンチに腰を下ろした。
「どんなのが好きなんすか。」観客が出来たリョウは顔をほころばせる。
「メタルなら何でも聴きますよ。でも、やっぱスラッシュメタル、特にOVERKILLっすね。」
「おお、OVERKILL!」と言ってその代表曲の『OVERKILL』のリフを弾き始める。「うおおお。」と青年は感嘆の声を上げた。リョウの音に合わせて軽く頭を振り始める。しかしその頭が丸坊主であるのにでおかしくてならず、ミリアは噴き出すのをひたすら堪えた。
「いやあ、久しぶりにメタルの血が騒ぎましたよ。」
「入院、長いんすか。」リョウは尋ねた。
「え、ええ。ずっと入退院繰り返して、もう、二年になるかな。」
「え、そんなに。」リョウは絶句する。
「自分、がんで再発繰り返してんすよねえ。休学続きで大学も辞めちゃったし。俺、大学のサークルでメタルバンドやってたんすよ。何かその時のこと、久しぶりに思い出しました。今まで、極力思い出さないようにしてたんすけど。その、」青年は口籠り、照れながら言った。「名前、教えてもらえませんか。俺、六階の病室入ってる園城って言います。」青年はそう言ってぺこり、と頭を下げた。
「俺は七階の黒崎です。バンドネームはリョウ。」
「リョウさん。」迷いなく園城はそう呼んだ。「またここでギター訊かせてくれませんか。」
「え? ああ、こんなんでよけりゃ。アンプもねえし、ドラムもベースも何もねえし、何か恐縮しちまうなあ……。」
「いやいや、やっぱりプロの方のギターは、生音だって何だって、そんな不足一切感じさせませんよ。」
ミリアは瞠目する。自分と同じようにリョウのギターを聴いている人がいるのに気付いて。
「じゃ、また。俺、そろそろ病室に戻りますんで。お先に。」
園城は病棟に戻っていく。リョウは園城と名乗った男のか細い体を暫く見詰めていた。
「メタラーって、結構いるもんだなあ。」
ミリアはこっくりと肯いた。「あの人も、がんなのね。」
「二年も入院してちゃあ、辛ぇだろうなあ。」どこか他人事のように呟いて、それと同じ目に自分もなりかねないということに気付き、リョウは溜め息を吐いた。
「でもあの人、細かったね。リョウよりも全然細かった。」
「そりゃあ、がんで長いこと入院してたら痩せちまうだろ。」
「ご飯食べれないのかな。入院生活、辛いのかな。……またここで弾こ? あの人嬉しそうだったし。」
「ああ。」リョウは茫然と空を見詰めたままそう呟いた。