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ミリアは夕方、息切らせながら帰宅した。スマホには大勢の友達の連絡先を登録し、早速明日から一緒に学食で食事をする約束までも取り付け。中には雑誌を見ていてミリアを知っている同級生までもいて、それで声を掛けてくれるのも一人や二人ではなかった。ミリアは新たな生活がこの上ない歓喜に満ち満ちて始まったこと、そして今夜はリョウと再び美しい夜景の見えるバーへ、しかも最上の音楽を聴きに出向くのだという期待感で、もうどうにも平常心ではいられなかった。したがって、ミリアは電車を降りるなり、全力で走らざるを得なかったのである。その手には、朝出掛けて行った時にはなかった、大きな紙袋が少々形を壊しながら固く固く握られていた。
ミリアは帰るなり荒々しく肩を上下させながら、それをリョウに突き出した。
リョウは瞠目した。「何だこりゃ。」
「はあはあ。……プレゼントなの。……社長に選んでもらったの。お取り寄せだったから、時間かかっちゃって。今、取って、来た。」
リョウは慌てて紙袋を漁る。ネックにラインの入った白いシャツに、深いグリーンのパンツ、揃いのジャケット。革製らしき靴まである。眩暈がした。
「な、何だ、こりゃ。」
「リョウに、オシャレ、に、なって、もらおうと、思って。はあはあ。」
「馬鹿野郎!」ミリアはその劈くような声にミリアは耳を塞ぐ。「お前、腹も膨れねえものに幾らつぎ込んでんだよ!」
「幾ら、幾らって……。」ミリアは耳鳴りをする頭を振りしだき、再びリョウを睨むように見据えると、「社長の行きつけのお店だから安くしてもらったもん! それにちゃあんとリョウの写真見せて、店員さんにこれならバッチリ似合うって! そんで! 選んで! もらったんだもん! 社長だっていいなって言ったんだもん! ミリアはリョウのことお洒落にしてジャズバーでジュンヤのギター聴きたいんだもん!」
リョウは一瞬圧倒され、そして目を瞬かせながら、いかにも高価そうなジャケットを目の前で広げ、まじまじと見つめた。一体幾らしたのであろう。社長の行きつけ、という時点でそれは自分の馴染み深い価格であるはずがない。当然、値札はどれもこれも丁寧に切り取られていた。
ミリアを不安に満ち満ちた顔で、ひたと張り付くように自分を見上げている。―-こんなものは着ない、と言ったら泣き喚くであろう。返品して来い、と言ったら泣き叫ぶであろう。ミリアを喜ばせる術は――、
「……ありがとう。」
ぱあっとミリアの顔が輝いた。
「ね、ぴったりなの! 店員さんはね、リョウは身長もあるしイケメンだから、うちのブランド着て頂けるの嬉しいって言ったの!」
そりゃあ金を落として貰えるのであれば何とでも言うであろう。リョウは一言一言嚙み砕くにしてミリアに語った。「これ、一生涯着るからな。だから、もう、他のモンは死んでもいんねえからな。店員からあれ買えこれ買えって言われても、絶対無視しろよ。」機材やら楽器には幾ら金をつぎ込んでもなんとも思わぬが、音楽以外の事柄に関してはすさまじく吝嗇なのである。貧しきバンドマンの性であった。
「ねえ、早く着てよう。」
「は?」
「だって、そろそろ出る時間。これ着て今日はデートすんの。」
「はあ?」
「早く着てってば!」
リョウはちら、と壁の時計を眺める。確かにあと一時間で開演時間である。しかしこんな体に馴染まぬ服を着て、しかもミリアの実父に会いに行くのかと思えば気は更に更に重く沈み込んでいく。だからといって、これを拒絶したらミリアは今度こそ泣き喚くであろう。リョウは自分で自分を叱咤するようにして、渋々紙袋を抱き寝室へと入った。
「まあ、何て素敵なの!」ミリアは感嘆の声を上げながら、リョウの回りをぴょんぴょんと飛び跳ねた。「ぴったしだわ! まるでぴったし! マネキンよりも断然ぴったし!」
リョウは窮屈そうに肩を上下させると、明らかに傍目には苦渋に満ちた表情で、「そうか。……じゃあ、行くか。」とミリアを促した。ミリアは既にお得意のヒマワリのワンピースを身に纏い、リップで唇をつやつやにしながら、うんと肯いた。
堅苦しいついでに早速ミリアに腕を絡められ、早く行こうと急き立てられる。リョウは腑に落ちぬとでもいうような顔つきで、アパートを出た。しかしいつまでもこんなくだらぬ事情で塞いではいられない。今日は互いに互いの素性を認識した上で、ジュンヤと会うのだ。万が一、ジュンヤの感情が激したりしたならば自分がミリアを守るしかない。しかしそんな緊張感は少しも解さずに、ミリアはリョウの腕にほとんどしがみ付くようにして駅へと向かった。
ねえ、今日はCDを買う? 一枚だけ、買わない? などと盛んに話し掛け、今日のセットリストは先週とは違うのかしらねえ、リョウだったら、一週間前とおんなじにしはしないわよねえ、などと言っている。リョウも確かにジュンヤのギターには心底感嘆する所はあるのだが、そんなことは既に頭の中から押し出されている。ギターが二の次三の次となっている事態を自覚して、リョウは車中頭を掻き毟った。
「どしたの。」
「何でもない。」知らず、その声は怒声を含んでいる。
「お洋服、気に入んないの?」
「まさか。」
ミリアは意外だと言わんばかりに目を見開いた。「……気に入って、くれたの?」
「……ううん。ああ。そうだな。」
ミリアはぎゅっと更に組んでいた腕に力を籠めた。「やっぱし? やっぱし、素敵よね! あのね、社長もね、これ絶対にリョウに似合うから、そんで、リョウが服に興味持ち出したら、髪の毛切っ飛ばしてモデルにしようって言ってた。」
「切らねえよ!」リョウは思わず大声を発する。慌てて周囲を見遣り、作り笑顔で頭を数度下げた。そしてミリアに再び向き合い、深刻そうに、「病気でもねえのに、もう切ってたまるかよ。」と小声で叱咤した。
「そうよね。だからミリアもリョウの髪の毛はとっても大事で、そこがかっこいいのって、言ったげたの。モデルはミリアだけやりますって。」
「そっか。じゃあ、……まあ、良かった。」
リョウはバーの入ったビルの前に立ち、ぎりぎりと奥歯を噛み締めると、来るなら来い、と意味のわからぬ闘争心を胸中に燃え立たせ、エレベーターのボタンを押し、待った。もうこの上にはジュンヤがいるのだと思えば、前回とは全く違った緊張感が走る。ミリアを見てどう思うのか。感情的になって暴走しでかしたりは、しないか。もう少し時間を置いた方が良かったのではないか。リョウの脳裏はもう収拾がつかない程度に混乱していた。
エレベーターの扉が開く。ミリアと二人を乗せ、六階へと上がっていく。
リョウの緊張感もそれと共に否応なしに高まっていった。リョウは幾度も拳を握りしめ、深呼吸を繰り返し、次々に上がっていく階数を見詰めていた。