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翌日、カイトの家では母親が必死の形相で塵一つ、埃一つ逃してたまるかという決意もて、部屋を隈なく清め、飾り立て、ミリアの来訪を待ちわびていた。
「あの、……さ。」年始と家庭訪問が同時に来るのかと思われるほど目まぐるしく働き続ける母親を、ほとんど驚愕の眼差しで見ながら、カイトが言った。「ただ、……友達が遊びに来るだけ、なんだけど。」
「何言ってんの。この前のあの、かわい子ちゃんでしょ。」
「ミリアと、あと、ユリも来るんだけど……。」
「あんた、……モテてんの。」母親は目を丸くして言った。
「だから、モテてるとかじゃなくって、二年間同じクラスで同じ部活だったから、一緒にいる時間が長かっただけで……。」
「でも女の子がうちに来るなんて、初めてでしょうに。幼稚園の頃、近所に住んでたアイちゃんが来たっきりじゃない。」
「でも、本当そんなんじゃないんだって。ただの友達だから。」
「せめて友達以上恋人未満ぐらいを目指しなさいよ。勉強ばっかで頭でっかちになっちゃ、ダメよ。」そう言いながら母親は荒々しく布巾で花瓶を拭く。
「だから、違うんだって。ミリアにはもう将来を約束している人がいるんだから……。」さすがに結婚、とは言えなかった。
母親はふと手を止めて、「それ、この前も言ってたわねえ。本当なの?」と眉根を寄せた。
「本当だよ。」
「政略結婚か、何か?」
「違う違う。……腹違いのお兄さん。ミリアんちは両親がいなくて、代わりにそのお兄さんが育ててくれたんだ。たしか、小学校入った時ぐらいから。で、ミリアはそのお兄さんを凄く慕ってるんだ。」
「へえ。今時、そんなことがあるのねえ。」
「ミリアんちはちょっと複雑なんだよ。」
「でもそしたらお兄さん、まだお若いんじゃない?」
「年は離れてるんだ。たしか……、18上かな。」
「でもそれでそんな幼い頃から子ども一人育て上げるって、あんたにはわからないかもしれないけれど、やっぱり大変なことよ。しかも独身なんでしょう。女手もなく、しかも女の子育てるなんてなかなかできることじゃあないわ。」
カイトは黙した。ミリアの兄に対し、どこか勤め人ではなし、あんな風体もしているし、と軽侮の目で見ていたのである。しかし実際ミリアを育てるのに、おそらく人知れぬ苦労はあったに相違ない。そんな当たり前のことに、カイトは今更ながら気づかされた。
「あんなに素直そうに可愛らしく育って、さぞかし嬉しいでしょうねえ。大学も決まったんでしょう?」
「うん。栄養学科だって。管理栄養士になるんだって。」
「まあ、素敵。いいお嫁さんになるでしょうねえ。」
カイトの胸は痛んだ。思えば自分はミリアと結婚し、豊かな生活をさせてあげられるようにという思いで勉強に励んできたのだ。それで自分の学力以上の大学にも合格できたというのに、この努力は一体何のためだったのであろう。ふと徒労感に襲われた。
「ああ、カイトにもあんなカワイイお嫁さんが来てくれればいいのに。でも、お兄さん相手だったら、実らないっていつか、気付いてくれるわよねえ……。」母親は何やらぶつぶつと呟きながら、慌ただしく掃除を再開した。
ミリアとユリがインターホンを鳴らしたのは、それから三十分後であった。大きな箱を二人して携え、玄関をくぐった時には、カイトは何事かと瞠目する以外なかった。とりあえずリビングに案内し、テーブルで箱が開けられると、カイトは否応なしに感嘆の声を上げた。ここぞとばかりに母親も闖入し、二段作りの大きなホールケーキを見て、カイト以上の感嘆の声を上げた。まあ、まあ、と騒ぐだけ騒いだかと思うと、どこからかカメラを持ち出し、上から脇から、挙げ句の果てにはミリアにユリに、カイトをその後ろに並ばせ、引っ切り無しに写真を撮った。
「もう、いいからさ。」カイトが苦々しく言うのを、ユリとミリアは笑いながら聞く。
「だって、凄いじゃないの。手作りよ? こんな大きなもの。お金も手間も随分かかったでしょうに。あんたのために。まあ、まあ。」
「でも、一番勉強頑張っていたものねえ。先生にも報告した?」ミリアはウキウキと尋ねた。
「うん、合格発表の日電話入れたら、今から学校に来いって言われちゃって。……一応職員室行って、いた先生全員にお礼を言ってきたよ。」
「そりゃあ喜んだでしょうねえ。うちの担任とか泣き出しそうだわ。」ユリがそう言ってくつくつと笑った。カイトが噛み締めるような笑みを浮かべたのは、ユリの想像が見事に的中したことを表しているのに相違ない。
「ねえ、これ切っていいかしら。」母親がうずうずしながら問いかけ、「もちろんです。」とユリが即答する。
「おばさんもよろしければ、一緒に召し上がりましょ。」ミリアがそう言って微笑んだ。
「まあ、なんて優しいの。」母親は目を見開いて感嘆した。うちのお嫁さんに、そう言いかけてカイトの鋭い視線に気づき、そそくさと母親はケーキを携え台所の奥へと消えて行く。
それから二人はカイトの高校生活をひとしきり讃嘆すると、カイトは不器用そうにテーブルに用意されていた紅茶を入れ、ミリアとユリに差し出した。
「カイト、文化祭でも紅茶係だったねえ。」ミリアが昨年の文化祭で、調理部として喫茶店を開いたことを思い出してくつくつと笑い出す。
「だって調理部にいる男子は全員執事役って、お前たちが決めたんじゃないか。」
「カイト、スーツ似合ってたよ。大学の入学式とか、モテそう。」
「入学式だけモテるってどういうことだよ。」
ユリとミリアは互いに笑い合う。
その時、母親が切ったケーキをそれぞれの皿に持って来た。カイトのケーキにはちゃんと、『合格おめでとう』のプレートが付いている。「ミリアが書いたの」、と白状するや否や、母親は字が綺麗だの、素晴らしい発想だの、もう、わけがわからぬぐらいに褒め称えた。
「ありがとう。もう、いいから、あっち行ってろよ。」とカイトが無理矢理に排除するまで、母親はそこにいたがり、中でもミリアと話したくて仕方がないのが、カイトにもユリにもはっきりとわかった。
しかしカイトがどうにかこうにか母親をリビングから追い出し、そのタイミングでミリアがトイレに立った時、「随分、……ミリアのこと気に入ったみたいねえ。」ユリはそっとカイトに耳打ちした。
「受験の前の日、台湾で買ったお守りを持って来てくれてさ。あん時にミリアに惚れ込んだらしくて。」
「親子だわねえ。」
カイトは顔を顰める。「俺は、もう……違うから。」
「そう。ならいいけど。」ユリは型をすぼめて笑った。
そこにミリアが戻って来る。
「カイトんちってどうなってんの。おトイレがさあ、美術館みたいだわよう。」
「美術館って?」ユリが尋ねる。
「ああ、母親の趣味でさ、その……、カリグラフィーだの絵だの陶器だの、色々飾り立ててるんだよね。」
「たしかに、ここも、……凄いものねえ。」
家具は美しい曲線の猫脚で揃えられ、いかにも高価そうな絵画やら花瓶やらが飾り立てられているのである。更にそれらは全て先ほどの母親の奮迅により美しく磨き立てられ、輝き渡っていた。
ユリは「ちょっとちょっと。」とミリアの手を握って再び立たせると、トイレへと案内させた。
「わーお。」ユリはトイレの扉を開いて感嘆する。たしかにそこは美術館、と言って何の誇張も無い空間となっていた。何故だか広々とした空間には、立体的な花の絵やら美しい字体の作品やらが上から下まで飾り立てられているのである。
「凄いわよねえ。」ミリアがしみじみと言う。「今のお部屋も凄かったけれど。」
「カイトんち、金持ちなのよ。うちら内緒ごとされてたわ。」ユリが悔しいような顔をして言った。
「でもね、カイト、最初おうちにはお金がないから国立大学目指すって言ってたのよう。お父さん自営業で不安定だって。」
「そんな訳ないじゃない。」ユリはバタン、とトイレの戸を閉め切ると、ミリアに向かって「ミリア、これは玉の輿になれるチャンスよ。乗り換えるなら今よ。」と囁いた。ミリアはぎょっとして「何言ってんの、ユリちゃん。」と言った。
「だって……。」カイトは少しも見込みがないとわかっていながら未だにミリアを好いていて、おまけに何だか母親までミリアを気に入っていて、問答無用にお金はあり、カイトは有名大学に入るのだ。利益を考えればこんなにいい話はない。
「何言ってんのよう。ユリちゃん変なの。」ミリアは大切そうに左手の薬指を撫でながらリビングに戻って来る。だから気付かなかった。洗面所でタオルを畳んでいた母親が、その話を偶然に聞いてしまい目を瞬かせたことには。
それから三人でケーキを食べ、つい昨今終わりを告げたばかりの高校時代の思い出に花を咲かせ、そろそろ帰ろうという話が出た時には既に夕方であった。
「楽しかったー。」ミリアがそう言って立ち上がった。
「今日はわざわざありがとう。」
「大学生頑張ろうね。留年とか、したら笑うよ。」
「しないよ。」
ユリとミリアがリビングを出かけた時、咄嗟に母親が紙袋を二つ持ってきた。「ミリアさん、ユリさん、ちょっと待って。」
二人に渡されたのは、またもや高級そうな菓子店の紙袋である。
「え、え。」ユリは思わず掌で拒絶のポーズを取ったが、そんなことに躊躇する母親ではない。
「今日はわざわざありがとう。是非また遊びに来てね。」念押しじみた響きを持たせながら母親は言った。
「毎回こんないいもの……。とても頂けや……。」と呟くミリアの手にも、無理矢理紙袋の紐を握らせる。
「ちょっとしたお礼。ね。」
「あ、ありがとうございます。」ユリは気迫に屈して紙袋を握った。
もしや本気でミリアを嫁にしたがっているんじゃあなかろうか、とユリは訝った。さすがカイトの母親である。カイトも随分執念深い所があって、思えば中三の頃ミリアを雑誌で見て一目惚れをして、それから同じ高校に入ったという話であるが、おそらくはその後の猛勉強ぶりもミリアが関わっているのは明らかなのである。たとえば、有名大学を出て大手に就職をしてミリアを養っていくだとか何だとか……。ユリはそれに平伏するも、これは血のなせる業だったのかと思い成し、礼を述べて玄関を出た。
「また、こんな高いの貰っちゃったねえ。どうしようねえ。」ミリアは紙袋をまじまじと見つめ、小首を傾げた。
「断るのも、無理な感じだったしねえ。」
「お母さん、優しいね。」
強引、とも言うけれど。とは言わずにユリは黙ったまま歩き出した。
「ユリちゃんのママは、優しい?」
「うちはもう放ったらかしだよ。今はお姉ちゃん所に子どもが出来て、今はそっちに付きっ切り! ちょうど大学受験時とお姉ちゃんの出産が被ってさ、朝一言、『頑張っておいでねー』って言って終わりだよ。ま、そんぐらいの距離感が私にはちょうどいいけどね。頭良くないのにそんなに期待されたら困るしね。」
「へええ。色々なママがいるのねえ。」ミリアの脳裏には自分の、あの、狂気じみた母親が浮かんで来る。「ミリアのママはもう、サイバンショから会っちゃいけませんってことになってるからなあ。」
ユリはぎょっとしてミリアを見た。
「だからママにはもう会わないけど、……パパはどんな人なんだろうなあ。」
夕焼けが二人の影をぐんぐんと伸ばしていく。
「パパ。本当の、パパ……。」
ユリは黙って聞いていた。
「でも死んじゃってるかもしんないし、生きてるかもしんないし。わかんないからな。でももし生きてたら、どんな暮らししてるかな。ミリアのことは知ってんのかな。どうなのかな。」独り言めいた言葉をユリは、我が毎に置き換えて考えてみる。自分が誰の血を引いているのか、そんなことは考えるまでもなく自明であった。でもミリアはそうではない。自分がどうやってこの世に生を受けたのだか、それを知らないということは傍から思う以上に不安を齎すのではないか。
「ねえ、本当のパパに会ってみたい?」
「ううん。」ミリアは苦笑を浮かべ、歩を緩めた。「……わかんない。でもリョウが厭がるなら会いたくないな。」
「お兄ちゃん厭がる?」
「ううん、わかんないけど。小っちゃい頃からずーっとミリアを食べさしてくれて学校にも来てくれて、そんで違う人がパパですってなったら、もしかしたら何だようって思うかもしんないなって。」
そんなものか、とユリは思う。
「ミリアはもうパパが必要な年じゃないし、リョウが厭な気持になるんなら知らなくっていい。」
「……ミリアにとってお兄ちゃんはさあ、パパでもあってママでもあって、そんで恋人で夫で、何か全部請け負ってんだね。」
「そう。」ミリアは素直にこっくりと頷く。「リョウが家族の全部なの。だから他には何もいんないの。友達とか、バンドのメンバーは必要だけど。家族はリョウ一人で、十分。すーっごく、お腹がいっぱい。」
「そう思えるって、凄いね。」
ミリアは照れたように微笑んだ。「リョウが凄いの。リョウはね、ギターも上手で料理も上手で、優しいし、完璧なの。」
ユリは眉をそばだてて、カイト、あなたの入れる隙間はない。お母さんも、早々にお諦め下さい、と胸中に語った。電車の音が近づいてくる。駅でミリアとはお別れであるが、ミリアの頬は夕焼けのそれではないもので紅潮していた。家に帰るのが嬉しいのだ。リョウに会えるのが毎日のことだって嬉しいのだ。ユリは嫉妬のような感情にミリアの肩を軽く突き飛ばした。ミリアは身を捩らせて照れ笑いを浮かべた。