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「おはよう。」か細い声がベッドの中からした。
リョウは慌てて振り返る。「……おはよう。」
「リョウ早起きねえ。今日レッスン早いの?」
「あ? 別に……。」
「ふうん。」再び布団の中に顔を埋める。「作曲も大事だけど、ちゃんと寝たのがいいわよう……。」
リョウは先程のメールを一瞥して送信した。
「ふふ。」ミリアが布団の中から笑い声を発した。「ねえ、ミリア、何か変な夢見ちゃった。リョウが二人いんの。」くすくすと布団の中からくぐもった笑い声を発し、「ねえ、何でって言ってもわかんないの。変なの。」と更にくすくすと笑い続けた。
部屋は幾筋もの陽光が差し込んでいる。リョウはその眩さに目を閉じ溜め息を吐いた。
二度寝をしたミリアを尻目にリョウが朝食のスクランブルエッグを焼いていると、ベッドからミリアの携帯が鳴った。画面を見るとそこにはユリの名が出ていた。ミリアはベッドに潜ったまま、「もしもし。」と出た。
「ちょっと聞いてよ!」ミリアは思わず電話を取り落す。顔を顰めて取り上げ、「ユリちゃん、今耳がキーンって鳴ったよう。」と言った。
「ああ、ごめんごめん。……でさ、カイトから、聞いた?」
ミリアは少し考える。「なあに? カイトのママから貰ったチョコなら、すっごい美味しかったわよう。何でしょね、あれ。」
「何言ってんの! あのね、驚きな。カイトがね、受かったのよ!」
「おめでと。」
「まだどこだって言ってないでしょうに! あのね、K大よ、K大! うちの学校始まって以来の快挙!」
「あ、美桜ちゃんとおんなし所だ……。」
「なあに言ってんの? あんた、さすがカイトだと思わない? 一年生の頃から必死こいて勉強してさあ! 休み時間も勉強、放課後の勉強、暇さえあれば勉強! そんでK大だなんて、ほんと、よく頑張ったよねえ!」
「うん、凄いわねえ。」
「だからさ、近々お祝いパーティーしない? うちらだけで。」
「いいわねえ!」ミリアは遂に上体を起こした。
「でしょでしょ! じゃあさ、私さ、カイトにケーキ作ってあげようと思うんだけど! 『合格おめでとう』ってチョコペンで書いてさ!」
「ミリアもやる!」ミリアは勢い込んで即答した。
「ミリアなら絶対そう言ってくれると思ったよ! やっぱうちら調理部だもんね、そんぐらいやりたいよね! じゃあ、カイトに空いてる日にち聞いて、そしたらその前日にさ、一緒にうちで作ろうよ。」
「うん!」
朝食をテーブルに並べ終え、パソコンに向かって作曲をしていたリョウが訝し気に振り向いた。電話を切って、「あのね、あのね。」ミリアが寝癖のついた頭でリョウに抱き付いた。「カイトが、K大に合格したんだって! 美緒ちゃんの同級生だわよう!」
「凄ぇな。」リョウは素直に感嘆した。「美桜ちゃんはスーパー賢いの知ってっけど、あのお坊ちゃん、頭良かったんか。」
「そうよ、一年生の時から一生懸命勉強してたもの。だからね、今度お祝いにユリちゃんとケーキ作ることにした。」
「そうか、頑張って作ってこいよ。……あの、高級チョコレートのお礼も兼ねてな。ありゃあしっかし、この世のものとは思えねえぐれえ旨かったかんなあ。いやあ、たまには半額じゃねえのも食ってみるもんだよなあ。」リョウは味を思い出し、ごくり、と生唾を呑み込んだ。
「ねえ、そしたらさあ、美桜ちゃんとカイト、お友達になるかなあ?」
「お前大学っつう所は人が半端なく大勢いるんだからよお、そうそう知り合うのは難しいだろ。」
「でもご近所だし。」
「近所でも大学で会うかどうかはわかんねえだろ。」
「……そっか。」ミリアは少々落胆して肯いた。もし美桜とカイトとが知り合って友達になれたとしたら、今度はそこにユリも交えて四人で会えるのに、という淡い期待があったのである。
「んなことより、お前だって一丁前に大学生になんだかんな。お前こそしっかりやれよ。」
「うん。大丈夫だわよう。」ミリアは笑顔で歯磨きに洗面所へと立つ。
リョウはその後姿を見て、そそくさとパソコンに再度向き合い、メールのページを開いた。
ジュンヤからの返信が来ていたのである。リョウは洗面所からの水音を聞きながらその文面を目で追った。
ミリアさんの状況を詳細に教えて頂きありがとうございます。そして酷く驚いています。悲しんでいます。許せないという怒りが渦巻いています。
まさか、自分の娘がが虐待に遭っていただなんて。ニュースでしか見たことのないそんな残忍なことに、自分の血を分けた子どもが被害に遭っていたなんて。目の前が真っ暗になりました。信じられないという思いさえ、まだ払拭し切れません。
エリコも、捨てるぐらいだったら、なぜ自分に娘を託してくれなかったろう。そもそもどうして自分の子を孕みながら他所の男の元へ走ったろう。それとも誰の子だかわからなかったのだろうか。エリコに対し問い質したいことがたくさんあります。今となっては全ては遅きに失しているわけですが。
それから、亮司さんが抱いていらっしゃるようなご心配は一切無用です。私には妻子はおりません。結婚をしたこともありません。エリコと付き合って女はこりごりだと思ったということもなきにしもあらずですが、とにかく子供は、この世にミリアさんたった一人だけです。
でも今更のこのこと父親面をして出て行くわけにはいきません。エリコが出産したと聞いた時に、無理やりにでも探し出し、子供を奪い取ってくればミリアさんは幸福な子どもでいられたわけですから。亮司さんは私の責任はないと仰ってくださいましたが、しかし、虐待から彼女を守る術は、幾つだってあったと言わざるを得ません。私は虐待を知らなかったとはいえ、それを行わなかった。そしてミリアさんを傷つけた。父親として無責任に過ぎます。それを思えば取り返しのつかない後悔の念に押し潰されそうです。
しかし、ミリアさんが自分と同じギターを奏で、音楽を愛しているというのは私に至上の歓びをもたらしてくれました。もちろんあなたがミリアさんに音楽を、ギターを教えてくれたからこそだとは思っていますが、この偶然に私は神に感謝したくてならなくなりました。私が世界一愛する音楽を、ミリアさんも同じく愛していると思うだけで、私は心から感動しました。胸が熱くなりました。
ああ、いつかギターを一緒に弾くことができたら。音楽の話をすることができたら。恥ずかしながらそんな希望が私の胸中には無限に渦巻き始めました。
もし、可能でしたら、来週末に同じ所でライブをやります。また遊びに来て頂けませんでしょうか。父親であるなどとは絶対に申しません。ミリアさんをほったらかしにし、その結果手ひどい傷を合わせたことに鑑みましても、自分がそんなことを言い出す権利はありません。
ただ、あくまでもミュージシャン同士の交流をさせて頂けたら、これ以上嬉しいことはないと、そう、思うのです。もちろん、我々が出会うのにもっと時間を要するというのであれば、私は幾らでも待ちます。ミリアさんがこれからずっとずっと幸福でいられるように、そのために私も尽力したい。私のCDを聴いて下さるというのであれば、全て差し上げますし、ギターのことでしたら幾らでも教えて差し上げることができます。私もミリアさんを幸せにするために、働かせて下さいませんでしょうか。今までの償いに。
チバジュンヤ
リョウは暫しそのまま茫然と文面を見詰めていた。洗面所から戻ったミリアが、テーブルで「卵美味しい! ふわふわしてる!」と喜びの声もどこか遠くに響いているだけである。正直、ジュンヤが独身で家族もないということに、大きな不安の種が払拭されたというのは事実である。しかしミリアに会わせていいものであろうか。リョウは逡巡した。そして、父親だと言わなければ――。一人のギタリストの先輩としてならば――。問題はないのではないか、という答えに逢着した。
ふと壁に掛けられたカレンダーを見た。週末はミリアの大学の入学式である。それによってレッスンも入れてはいなかった。
リョウの脳裏には、再びあのプレイを観てみたいという思いもあった。ミリアも絶対に喜ぶだろう。大学入学のお祝いに食事をあそこで食べてもいい。
「おい、ミリア。」リョウは台所で夕飯を作っているミリアに声を掛けた。
「なあにい。」ベーコンを頬張りながら答える。
「あのさ、入学式の夜なんだけど、一緒にライブ行かない? その、……この間の人。あの、ギターの人。」
「ええ! 本当に!」ミリアは箸をテーブルにぱちんと置くと、リョウの胸へと勢いよく飛び込んだ。リョウは幾分身を仰け反らせて受け止める。
「すっごい素敵だったものね! あのギター! またあの人ライブやるんだ? ねえ、今度はCD買ってよう。おうちでも聴きたいのよう。」
「う、うん。わかってる。……ごめんな、こないだはちっと急いでて……。」
「うわあい!」予想外の歓びように、リョウは内心複雑である。もしかするとミリアの血が共鳴でもし、何か感じ取っているのであろうか。しかし事実として、ジュンヤのギターが素晴らしかったのの事実ではある。リョウは嬉しさと困惑とが綯交ぜになったまま、ミリアの様子を見詰めた。
「あのねえ、リョウも年食ってヘドバンできなくなったら、ああいうのやればいいと思うの。ジャズ。あの人に弟子入りしたらいいわよう。」
「まあ、悪くはねえが……、俺はやっぱ死ぬまでデスメタルがいいな。」
「でも118歳まで生きるんだから、110歳ぐらいになった時にはやっぱヘドバンできなくなってるかもしんない。腰曲がって。」
「そうかなあ。……検査も欠かさねえでちゃんと行けば、なんとかなんじゃねえの?」
「そっか。」と言ってミリアはリョウの喉の傷を見詰めた。「リョウなら大丈夫だわね。ここも、だいぶんよくなったしね。」
リョウは指先で傷を辿らせながら「もうここかっ開いて抗がん剤ぶちこまれれんのは、ごめんだかんな。」
ミリアはゆっくりと頷く。
「お前にもな、大変な目に付き合わせちまったかんな。」
「でも、そのお蔭でミリアが将来何やりたいのかわかったし、大学にも行けたから。良かったの。」ミリアはそういって満足げに微笑んだ。
リョウは含み笑いを漏らす。自分と同じ思考であるのは、血よりももっと濃い、繋がりがあるからだと確信出来て。たとえ父親であろうが誰であろうが、ミリアを奪われることは絶対に、ない。今まで一緒に暮らした月日の長さと中身とは、誰にも負けるものではない。リョウはにわかに自信を回復していく。最後の不安が払拭されていく。
リョウはそのままパソコンに向かい、再びジュンヤにメールを打った。――来週末にお邪魔させてもらいます。ミリアを連れて。――




