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三時間余のライブではあったが、その卓逸したギターテクニックと、完全なまでに構築された世界観は無論のこと、上質の酒を飲み、飯を食べながら聴くスタイルでは全くその長さを感じさせなかった。
最後にジュンヤはステージ中央に歩み出て、「皆さん、今日はありがとうございます。」と頭を下げ、そのままカウンターに座り、客の求めるがままCDにサインを応じたり、写真を撮ったりしていた。そこではマネージャーらしき人物と共にCDを販売しているようである。「ねえ、ミリアこの人のCD欲しいの。とっても欲しくなっちゃったの。」
リョウはごくり、と生唾を呑み込み、「お前はここで待ってろ。」と言いつけると、ジュンヤのいるカウンターへと恐る恐る近づいた。ミリアはリョウがCDを買ってきてくれるのだと信じて、満足げにオレンジジュースをちゅうちゅうと啜り、その後姿を見守った。
リョウは何気なさを装って、CDを手売りしているジュンヤに近付き、列に並んだ。ジュンヤの談笑を聞いている内に否応なしに手が震えるので、腰に幾度も汗ばんだ掌を擦り付けた。
リョウの前に並んでいた何人かが共にCDを手に写真を撮ったり雑談をしたりし、去り、リョウはいよいよジュンヤの目の前に来た。
「今日はありがとうございます。」ジュンヤは柔和な笑みを浮かべて言った。手元には赤いカクテルのようなものがあり、ステージ上よりも随分リラックスしているように見える。
「本当に素晴らしかったです。」リョウは緊張しつつも答えた。
「あの、……もしかして、ギターを弾かれている方ですか?」
リョウは目を見開く。
「いえ、そんな風に見えたものですから。」
当然である。腰まで真っ赤な髪を伸ばした一般人などがそうそういるわけがない。
「ええ、……一応。自分はメタルなんすが……。」
「そうですか。嬉しいです。同業の方に聴いて頂いて……。」
リョウはハッとなって慌てて言葉を継いだ。「本当に素晴らしかった。まるでギターが歌っているようで。その表現力というか、ギターの可能性にマジでビビりました。是非CDを買わせて頂きたいと思って……。」
「本当ですか。」ジュンヤは懐っこい笑みを浮かべた。「嬉しいなあ。メタルの方だったら、バンドの音の方がお好みでしょうかね。」数種類のCDをあれこれ見回しながら言った。
「バンドの音源もあるんですか?」
「ええ、少々昔、……十年程前のものになりますが。こちらですね。」と言った差し出されたジャケットには今よりも若いジュンヤの姿があった。ギターを手に、どこぞの街を歩いているどこか詩的な絵であった。
その時、リョウは咄嗟に緊張感を覚えた。十年前にバンドをやっていたことが確認されたことで、はっきりと脳裏に本来の目的が蘇って来た。
「十年前からバンドをやってらっしゃるんですね……。その、……いつ頃から音楽活動をされているんですか。」
「恥ずかしながら三十年程になりますかね。もう五十になりますから、時間ばかり経ってしまいました。」
リョウは表情硬く肯いた。訊くなら今だ。しかし何と言って? 背中に嫌な汗が伝い出す。頭がぐるぐると巡る。体温がカッと上がる。
「……エリコさん。」喉の奥に張り付いたような声が出た。「……という人に覚えはありませんか。」
ジュンヤは苦笑を浮かべたまま首を傾げた。さあ、とでも今にも言い出してしまいそうな顔つきである。
「その……。」リョウは焦燥しながら言った。「二十年前程、……あなたと親しくしていた女性……。」
ジュンヤははっと息を呑み、リョウの顔を見詰めたまま、固まった。リョウもそれに相応する衝撃を受けた。期待に鼓動を高鳴らせながら、ひたぶるに次の言葉を待った。どこからかどっと哄笑が上がった。これに次のジュンヤの言葉がかき消されないようにとリョウは必死に祈った。
「……あなたは、一体?」ざわめきの中でどうにか発せられた、そうして聞き取ることに成功したジュンヤの声は気の毒な程に緊張感に満ち満ちていた。
リョウは必死に頭を巡らせて言った。「……エリコさんの娘と、一緒に暮らしています。」
ジュンヤは目を見開いた。リョウは畳みかけるように言った。
「もしかすると、あなたの娘なのかもしれないと思っています。」
ジュンヤは焦点定まらぬ瞳でがくり、と椅子にへたり込んだ。顔面は蒼白となり、手は細かく震えていた。リョウは自分の急いた発言がとんでもない結果を齎したことに、胸が締め付けられるように苦しくなった。
リョウは慌ててその場に置いてあったフライヤーの裏側に、カウンターに置いてあったボールペンをさっと拝借し、自分の名前と電話番号、アドレスを書き殴った。
「すみません。気分を悪くさしちまって、本当にすみません。でも嘘はありません。本当のことです。……もしよければこちらに連絡をください。」
リョウはそう静かに耳打ちすると、ミリアのいるテーブルに戻り、腕を摑んで逃げ出すように店を出た。
「ねえ、CDは? お話だけしてCD買わなかったの?」ミリアが不思議そうに問いかけるのに一言も返さず、中途階で停まっているエレベーターを尻目に、ミリアを引っ張って、階段を忙しなく駆け降りて行った。
「ねえ、リョウ?」
幾度声を掛けられたか知れない。リョウはそれには答えず、いつしかミリアも諦め、二人は黙って帰途に着いた。
自分の行動が過ちであったのか正しかったのか、リョウは考えれば考える程混乱した。でもあの女の名に反応を示したということは、あの女の言ったジェイシーは、手の相似を差し置いてもほぼ確実に、このチバジュンヤだということとなる。リョウはその偶然に、帰ってからも鼓動が納まらなかった。