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翌朝ユリは旅行にでも行くようなスーツケースを神妙な顔をしてがらがらと引き摺りながら登校してきた。何事かと見詰める視線も、全く介すことがない。
「ミリア、これ。」クラス中の視線の集まる中、ユリはそっとミリアの耳に小声で「がんに効く料理の本。」
「こんなに?」
ユリはにっこりと微笑んで肯く。「なんならもっとある。けど、これに入りきらなかったの。だから特によさそうなのだけ持って来た。必要だったら後でまた持ってくる。」
ミリアは目を瞬かせる。「ありがとう!」
ユリは口角をぐっと上げて右手でブイサインを作ると、さっさと席に着く。それまで不審げに見詰めていた視線が一気に散じた。
ミリアは机の脇にスーツケースをぐいと寄せると、ほう、と長い溜め息を吐きながら見つめた。茶色に白い水玉の入った可愛らしいバッグはユリのものなのだろうか。ユリは昨夜どんな思いで本を選別して、今朝奇異の目に晒されながら持ってきたのだろうか。そう思えばミリアの胸はじんわりと温かくなった。
そこにチャイムが鳴り、担任教師が入って来る。号令をかけ着席をするなり、「コース希望調査の締め切りは今週末となるから、そろそろ結論の出ている生徒は持って来るように。」と告げた。ミリアははっとなった。そんなことはすっかり忘れていたので。
リョウは大学に行けという。しかしリョウの病気が長引いたら? 大学受験どころではない。勉強なんてできやしないし、お金だって底尽きてしまう。リョウの命と大学と、そんなことは比較にさえならない。でもリョウは絶対に大学に行けというだろう。でもリョウの治療費を削ってまで行くなんて、到底できやしない。
ミリアはどうしたらいいのか、と再び頭を抱えた。そうしてまたいつものように授業なんぞ一言も頭に入らぬまま一日中考え抜いた挙句、意を決して放課後職員室の扉を叩いた。
「おお、どうした黒崎。」担任はワイシャツを肘まで捲り上げ、日焼けした腕を顕わしながら採点しかけのプリントから目を上げた。
「あの……。」
「よく来てくれたな。最近元気ないなあって思って心配してた所なんだ。」
ミリアは何と切り出していいものか、口ごもった。担任は慣れたように椅子を差し出し、「さあ、座って。」とミリアを座らせる。
「小テストも落ちてばかりだし、宿題も出さないし。モデルの仕事が忙しいのか?」
ミリアはスカートの裾を握り締めて、黙した。
「否、別に責めてる訳じゃないからな。一体どうしたのか、知りたいんだよ。来年度になれば受験も控えているんだから、解決できる問題は解決しておきたいからな。」
ミリアは恐る恐る担任教師の顔を見上げ、遂に、「あの、来年のクラスの紙……。」
「ああ、まだ黒崎は出ていなかったな。それか? 悩んでるのは。」
ミリアは曖昧に頷いた。
「たしか、以前大学に行きたいって言ってただろう? そうしたら、黒崎の成績は……」と言って担任教師は机の棚から模試の結果の表を取り出した。「国語、英語の方がいいな。なら、私立文系コースが妥当なんじゃあないか?」
ミリアは俯く。
「文系学部と言ってもたくさんあるから、これから色々オープンキャンパスとかにも参加しながら考えていった方がいいな。黒崎の場合だと、家政学部とか、いいんじゃあないか? 料理好きだし。」
ミリアは再び肯く。
「じゃあ、元気出せよ。まだまだ決まってない生徒も多いからそんなに心配することないぞ。ユリだってまだみたいだしな。お前ら仲良しだし、一緒にオープンキャンパスでも行って、遊んで来ればいいじゃないか。」
ミリアは再び俯いた。そして意を決して顔を上げる。
「あの、その……、リョウ、じゃない。お兄ちゃん、が、入院しちゃったんです。」
担任はさっと顔色を変えると、ぐい、とミリアに顔を寄せた。「何? 一体どうされたんだ。病気か、怪我か。」
ミリアは泣きそうになりながら、深々と息を吸い吐いた。「……病気、……がんなんです。」
息を呑む音が聞こえた。「本、当か。」
ミリアは両手で瞼を押さえながら二度三度と続けて肯いた。
「だから、……大学行けなくなるかもしれないの。」
「……そういうことだったのか。先生、知らないばっかりに、色々無神経だったな、すまん。」
ミリアは慌てて首を横に振った。
暫くの沈黙が訪れる。
「でも、たしかお兄さんは大学進学を希望されていたんじゃあなかったか?」確か一年時の三者面談で、長い髪を一つに束ねた、若すぎる保護者がそんなことを言っていたのを担任教師は思い出す。環境調査書に書かれたバンドマンでギタリストという肩書から推察するに、さぞかし社会性に欠けた突拍子もない人が来るのであろうという危惧を抱いていたが、それは悉く外れ、異様に髪が長い以外には温和で丁寧、妹思いで、大学進学をさせたいという意欲も強く、面食らったのであった。
「でもいつ治るか、わからないの。入院してるとお金かかるの。そんで、大学に行くお金、なくなっちゃう……のは、別にいいの。でも、リョウの入院のお金がなくなっちゃいそうになったら、ミリアがいっぱい働かなきゃいけないの。だから、就職コースに行った方がいいかと思ってるの。」
すっかり敬語も何も無くなり、ただひたぶるに胸中を吐露する。
担任は腕組みをしながら、ううむ、と低く唸った。
「……それは、お兄さんと相談したいところだが、……そういう場合じゃないしな。入院されてどのぐらい経つんだ?」
「二週間。」
「病状のことは、何か、お医者さんから言われているのか?」
ミリアは口をつぐんだ。
「否、無神経だったな。すまん。」担任は苦渋を滲ませる。
「……五年後。……五年後の生存率が70%。」ミリアは言い終えるなり、わあ、と外聞憚らで泣き出した。
膝に置かれた担任の拳がぐっと強く握られるのを、ミリアはどこか他人事のように眺めた。しかしひっくひっく、としゃくり上げるのはなかなか収まらない。
「黒崎、大変だったな。辛かったな。」
担任は真剣な眼差しでミリアをしかと見据えた。
ミリアの家庭に保護者がおらず、兄と二人暮らしであるというのは知っていた。更に兄は会社員ではなくバンドマンという経済的に不安定な職についていることも。中学時代の担任から、思いもかけず連絡があったのは、確か彼女が入学して半月ばかり経った頃であったろうか。直接的な依頼としてはモデルの仕事を続けさせてやってほしい、という話だったが、そこから話は枝葉末節に及び、つまるところ彼女の家が経済的に厳しい状況にあるということと、彼女自身虐待を受けていて言語能力の向上には限界があるということと、更にはかつて親権の件で裁判沙汰を起こした母親がいるので、面会を求めても断固断ってほしいということ等次々に話した。担任は唖然としながらも、それぞれの件について詳細を求め、そこで明らかになった事柄に更に茫然とせざるを得なかった。このご時世、片親の子供は多いが、担任をすることとなったこの黒崎ミリアは、中でもとりわけて複雑な経緯を有しているように思われた。そして更には唯一の家族である兄の、難病の発症である。担任は頭を抱えつつも、困惑を少しずつ整理し、言語化していった。
「別に進学コースにいても、就職してはいけないというのではない。年度の途中で家庭状況が変われば、それに沿って実際の進路を変えるのは当然だろう? だから、とりあえずはお兄さんのためにも、お兄さんの希望されている私大文系コースに行って、お金が必要になってきたら、そうだな。お前が今お世話になっているモデル事務所に就職すればいいんじゃあないか?」
ミリアは驚いた顔で担任を見詰めた。
「そんなこと、……できますか?」
「いやあ、モデル事務所は何て言うかわからないが。他に就職先と言ってもこのご時世、なかなか難しいからな。公務員試験にしろ、地元の企業にしろ。」
「そうじゃなくって、進学のクラスにいっても、就職して大丈夫ですか?」
担任はにっこりと微笑み、「大丈夫だよ。そういう事情なら、もし来年のクラスの担任が自分じゃなくてもそう引継ぎで説明しておくし。お兄さんのことは心配だろうが、黒崎は黒崎にとって何をすべきなのかも考えていかないと。今は人生においても一番大事な時なんだから。」
同じような言葉をリョウからもアキからも聞いた、とミリアは思う。
「お金のことが心配なら、奨学金という手立てもある。今だって、大学に入ってからだって、毎月数万円借りることは誰でもできるんだぞ。」
「本当に?」
「ああ。」担任はそう言って微笑んだ。
「学費ぐらいは何とかなるだろう。それからがんで入院されているんだったら、高額医療費が返ってくるシステムがあったぞ、たしか。病院の窓口にでも相談してみろ。教えてくれるから。それであんまり一人でため込むなよ。俺ばっかりじゃなく、他の先生方だってみんな黒崎の味方だ。それから三枝、ユリなんかもそうだろう?」
ミリアは俯きながら微笑んだ。
「お前は人好きのする人間なんだよ。困っていれば誰でも手を差し伸べてやりたくなる。困ったらどんどん周りに頼れ。遠慮してそんな顔をしてるな。」
確かユリにもそんなことを言われた、とミリアはふと思う。
「いるだけで、人に愛される。モデルとか女優は天職だよ。これからも、頑張れ。」
うんうん唸りながらキャリーバッグを部屋に上げ、チャックを開けるとそこには料理本がぎゅうぎゅう詰めに入っていた。ミリアは制服姿のまま、床にぺたんと座り込み、早速一番上から一ページ一ページ眺めていく。ビタミンが大切、肉や塩分は控えめに。どうやら食事療法というのはそう難しくもないようで、ミリアは安堵の溜息を吐いた。とんでもなく高価な食材や滅多に手に入らないものがいいと言われたらどうしよう、と心配していたのである。ミリアは料理本を一通り熟読すると、冷蔵庫に入っている食材とにらめっこしながら三品決定し、早速作り始めた。
リョウが食べて元気になってくれるように。早くがんなんかが消えてしまうように。そうして家に帰って来て一緒にギターを弾いて、キラーチューンを作って真っ先に聞かせてくれるように。ライブで真っ赤な髪振り乱し獣王の如きプレイを見せてくれるように。その誰よりも近くでその世界を構築させてくれるように。ミリアは野菜を切りながら、鍋を混ぜながら、ひたすらそう祈った。思いつく限りのあらゆる神々に、祈った。