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店を出ると、美桜はミリアに手を振り、待たせておいたタクシーに颯爽と乗り込んだ。
「美桜ちゃんとまた仲良くできる。」ミリアは去っていくタクシーをいつまでも見詰めながら、頬を紅潮させて言った。
「良かったじゃねえか。」リョウはミリアを後部座席に乗せると、自らもバイクに跨って振り返った。
ミリアは肯く。
「美桜ちゃん、ミリアのいちばん最初のお友達なの。リョウん所来て、最初に隣の席んなって、そんでいっぱい喋りかけてくれて、ミリアはあんまし喋るの得意じゃないのに、いっぱい喋りかけてくれて、美桜ちゃんのお陰で他にもいっぱい喋りかけてくれるようになって、そんで料理クラブに一緒に入って、学校行った最初の日に美桜ちゃんち行って、美桜ちゃんのママにたっくさんおいしいもの食べさしてもらって、お料理も教わって、お揃いのお下げにもしてもらって。その時から高校でバラバラになっちゃうまで、ずーっと仲良くしてくれたの。」
「……だなあ。」リョウも感慨深くなかなかアクセルを回せない。「俺もツアーで小学生のお前を一か月置いて留守するとかって時よお、美桜ちゃんのお母さんには散々世話んなったよなあ。なかなかできるもんじゃねえよ。なんでもねえような顔して、人の子預かるってえのはよお。できたお人だよなあ。美桜ちゃんも間違いなくお前にとっての親友だしなあ。恵まれてるよ、マジで。」
「そう。」ミリアは感極まったようにリョウの背に腕を回し、背に顔を押し付けた。
リョウはじんわりと背が温かくなるのを感じた。もしかしたらミリアは泣いているのかもしれないと思ったが、声は掛けずにそのままバイクを出発させた。
春の風はほんのり温かい。鼻をくすぐる匂いもどこか、陽気な匂いがする。リョウはそれを精一杯吸い込むと、ミリアと旧友の新たな大学生活がどうか幸福に満ち満ちたものになるようにと祈った。
帰りに寄ったスーパーで、リョウが意気揚々と大量のもやしと安売りのジャガイモを籠に放り込むや否や、ミリアはああ、と目を覆った。やはり先程のスーツで金が尽きたと確信したのである。
先ほどちらと見たのは、ひらりと財布から取り出された一万円札三枚。その時、たしかに草臥れたリョウの財布に一万円札はもう、なかった。つまりは数千円で、今月をやりくりするしかないのだ。
やはりスーツなどいらなかったのだ。そんなものがなくても大学生にはなれるはずだ。ミリアは口惜しささえ覚える。でも、もしスーツを買いに行かなかったら美桜と再会できていなかったかもしれない、と思うとどうにも苦しくなった。もうこうなったら、どうにかリョウに美味しいと、全然節約料理だなんて思えないと、そう言ってもらうべく、ミリアは美味しいもやし料理を研究しようと心密かに決意をした。大学で美味しい節約料理を教えてくれる講義などがあれば、必ずや最前列で聴講しよう。ミリアは固く決意をした。
「やったぞ、見ろこれ。一袋13円だぞ! 信じられるか? 史上最低じゃねえか!」
とても世界進出を果たしたデスメタルバンドのフロントマンの発言とは思われない。
「うん、良かったね。」ミリアはしかしリョウを落胆させたくはなく、眉根を寄せながらそう呟いた。
「これで今月は食っていけるな!」思わず本音が零れ出す。「よっし、これで明日からレッスンも気合入れてやれんぞ! そろそろライブの予定もぶち込んでかなきゃなあ。シュンに予定入れろって言っとくか。あいつら海外公演終わったとかっつって、気ぃ抜いてんじゃねえのか。マジで許せん。」
「大丈夫だわよう。」
「いいや、自分に厳しく、メンバーに厳しく、だ。海外公演をいくら目指してたとしてもだぞ? 日本でだってそれ以上のいいプレイやんねえとな、誰も俺らのこと応援してくれなくなっちまうからな。俺らは日本人で日本をベースに活動すんだから、その基本軸を大切にしなきゃいけねえ。何より金を時間を俺らに割いてくれてる人に対し、手抜きなんざ死んでもあり得ねえかんな。毎回パワーアップした姿を見せつけられねえんじゃあ、ステージに立つ資格は断じて、ねえ。要は気概だ、気概。」
なんだかとても殊勝なことを言っているのに、リョウが買い物籠の中に、アンテナが付いているのかと訝る程に安物ばかりをきびきびとぶち込んでいくのがミリアはどこか悲しかった。いつの日か、リョウが決して金持ちとは言わずとも、好きな、食べたい食材を遠慮なしにバンバン買い込み、それを自身が惜しげもなく使って料理ができたらいいな、とミリアはふと思った。
リョウは帰宅するなりパソコンの前に坐り込み、メールを検分し出した。海外からのライブのオファーだったらいいのだけれど、とミリアは思いつつ、それにしてはあまりにも峭刻としたリョウの横顔にミリアはそうではないことを確信する。もしヨーロッパツアーだの、北欧でのライブなどという話になればリョウはもう狂喜せずにはいられないであろうから。
「よし。」
リョウは突然そう声を発し、画面を閉じて立ち上がった。
「……俺、明日の夜ライブ行ってくっから。」
「誰の?」
リョウは顔を顰めてミリアを見下ろす。
「ユウヤん所? それとも、別のバンド?」
バンド、ではないのである。有馬から教わった、ジェイシー、すなわちチバジュンヤのライブであった。偵察に行くことを決めたのである。
「否……。」リョウは口籠った。いっそライブなどと言わなければよかった、と後悔の念を覚え始めるが後の祭りである。
「ミリアも一緒に行く。」
「い、いやいやいや、ダメだ、それは。絶対。」過剰な反応は必然的にミリアの疑念を生じさせる。
「どうしてどうして? いっつもミリアのこと連れてってくれるじゃん。どうして明日ばっかりは連れてってくれないなんて言うの? おかしいじゃん。」
「それは……」リョウは背に気持ちの悪い汗を感じながら口籠った。
「……浮気だ。」ミリアが泣きそうな目でリョウをじっとりと見上げる。「そうだ、浮気なんだ。だからミリアを連れてかないなんて、言うんだ。」
「な、何言い出すんだ! 浮気って女とか? お、俺がか!」リョウは激しく動揺する。
「ああ、まだ新婚なのに、たったの三年ぽっちの新婚なのに、浮気するんだ! うわあああ!」ミリアはがばりとソファに突っ伏し、拳でやたらめったらに床を叩きのめした。
「ちょっと待て。お前冷静になれ。俺は人生で職質警官以外に言い寄られたことはねえだろが。知ってんだろ? お前いくら身内でもなあ、贔屓目が過剰過ぎてやべえことになってんぞ!」
しかしミリアは両手両足をばたつかせて、必死に抗議を見せる。リョウは仕方なしにミリアの顔をむりやり持ち上げると、既に頬は涙に濡れていた。
「ライブ! 連れてって! よう!」充血した目で叫ぶ。さすがにリョウは怯んだ。
「いやな、……その、お前にはあんまり興味が持て無さそうなジャンルなんだ。メタルじゃねえし、バンドでもねえし……。」
「そんだってそんだって、リョウが行くならミリアも行きたいもん! 置いてきぼりにされんのは、厭!」
リョウは途方に暮れた。なんだかこれ以上断固拒絶するのも、面倒極まりない事態になってきた。ここまで言い張るならば後を付いてくるなどということも考えられるし、今後ああだこうだと文句を言われるのを相手にすると思えば、思考停止に陥らんばかりに疲弊した。
「わーかった。」リョウは力なく肯く。もうどうにでもなれ、破れかぶれである。どうせ当の本人に対し、初対面の客の分際で二十年前の異性関係を詰問してみせることなんぞできやしないのだから、ステージ上の父親、と思われる、否、かもしれない、その可能性がごくごく僅かにあるというレベルの人物を遠目に見るぐらいなんの心配もないではないかと、リョウは自身を納得させた。
「何のバンドなの?」了解を得てもうすっかり気分を良くしたミリアが笑顔で尋ねる。
「ジャズ。ギターとボーカルだけの。なんか、酒飲みながらゆっくり聴くやつ。」
「リョウ、そんなの観たいの?」
「ちょっと、な……。」
「おとなしい感じか。じゃあメタルTシャツじゃなくってもいいのね。じゃ、台湾で買ったひまわりのワンピース着てこう! うふふふふ。リョウとデートだ。大人のデートだ。ミリア、13円もやしで美味しいご飯作るね! 待っててね! ここで、じっと!」元気いっぱいに立ち上がった。リョウは頭痛催したような顔をして肩を落とした。