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カイトからスマホに送られてきた地図の通りに歩いていくと、迷いなく家は知れた。大きな洋風の一軒家である。目印、と言われていた通り、屋根の上には風見鶏がくるくると回り、赤い屋根と、色鮮やかな芝生が眩いコントラストを齎している。ミリアは何度も表札にある「三枝」の字を凝視した。カイトがこんな立派な家に住んでいるとは思わなかった。金持ちだったのだ。ミリアは緊張感からすぐにはインターフォンを押せず、暫く門の前でもじもじと逡巡した。
その時である。「ミリア。」と玄関の扉を開け放ち、カイトが嬉しそうに歩み寄ってきた。いつもの制服姿ではなく、ジーンズにパーカーというラフな格好である。
「カイト!」ミリアはにわかにこの邸宅のインターフォンを押すという緊張感から解放され、笑顔で手を振る。
「ごめんね、わざわざ来てもらっちゃって。」カイトは門を開けて言った。
「ううん、だってカイト明日受験だものねえ。勉強はもう、バッチリ?」
カイトは苦笑を浮かべる。
「正直、明日は挑戦校だから。先生に受かればめっけもんだから受けとけって言われて受けることにしたくらいの。親も先生も自分も受かる気なんかさらさらない。」
「そうなの……。」ミリアははっとなってバッグから真っ赤なお守りを取り出した。「これね、台湾のお守り。受かる気ないなんて言わないで頑張ってよう。」
カイトは両手でありがたそうにお守りを受け取る。
「へえ、日本のと変わらないんだね。」
「うん。でもちゃあんと台湾のお寺で買ったのよう。お坊さんがわんわんお経を上げててね、占いの石がそこいらにあって、こちんこちんって、みんな占ってて。」
「そうなんだ。で、どうだったの? 初の海外ライブは。」
「うん!」ミリアは満面の笑みで肯いた。「すっごい、楽しかった。凄いの! ミリアの出てる雑誌見てくれてる人もいっぱいいてさあ。雑誌にサインもしたの。ライブも初めて観てくれる人ばっかりなのに超熱狂的でね。ミリアの前にはずーっと、ぐるぐるって渦巻いてて……。」
「凄いなあ。ミリアはもう、有名人じゃないか。」カイトは目を見開いた。
「有名人?」
「だって海外にファンがいるだなんて、ハリウッド女優みたいだ、まるで。」カイトはそう言って呆然とする。自分の思い人がどんどんと手の届かぬ存在になってしまうような、強烈な疎外感を覚えて。
「別にファンじゃあないわよう。サインしたの、一緒にライブやった台湾のメタラーさんたちだもの。全然何言ってるかわかんなかったの。ほんっとーにおっかしいぐらいに何にもわかんなくって、笑っちゃったわ。」
「でも、英語なら少しはわかるだろう?」
「ううん、ミリアも台湾の人も英語あんましわかってないの。わかってない人同士が無理矢理英語でしゃべるのは、もう、無理なの。だから諦めてミリアは日本語しゃべってたし、あっちの人は中国語しゃべってた。全然通じてないのに、自分の言葉でしゃべり続けてんの! ヘンテコなの!」
「あっはははは!」
そこにそっと扉が開いて、カイトの母親らしき女性が顔を覗かせた。
「あ、こんにちは。」ミリアは軽く頭を下げる。
「こんにちは。……カイトの、お友達?」
「ああ、そう。」カイトは振り返って言った。「1、2年と同じクラスで、あと、部活でも一緒だった……」
「黒崎ミリアと言います。済みません。明日受験なのに、お邪魔しちゃって。もう帰ります。じゃあね、カイト。明日頑張って!」
「お邪魔だなんてとんでもない。」母親はぱたぱたとサンダルで駆け寄ると、「そんな所にいないで、中へどうぞ。カイトも気が利かないんだから……。お茶ぐらい出しなさいよ。」
「い、いいんです。お守りも渡しましたし、私はもう、これで。あのね、カイト、台湾の人ってすっごい日本人に親切なの。ライブ会場の人も通訳してくれた人も、バンドマンもみーんな優しくしてくれたし。だからきっと台湾の神様は日本人のカイトを絶対守ってくれると思う。だから、安心して頑張ってきてね。そしたら絶対受かるから!」ミリアは言い終わらぬ内に、踵を返した。
「え、ダメよ! ちょっと待って! カイト、あなたからもお願いしなさい!」母親はそう叫ぶように言うと、慌てて家へと戻った。
「ごめんな、強引な母親で。」
「ううん。」
暫くすると母親は何やら小さな包みを手にミリアの所まで駆けて来た。
「あの、また、カイトが受験が終わったら是非遊びにきて頂戴。これ、今日わざわざ来てくれたお礼。良かったら食べて。」
固まるミリアの手に、ミリアでさえ見知っている高級チョコレート店の名が躍った紙袋が掴まされた。
「え、そんな! こんな高いもの頂けません!」
「そんなことないのよ。わざわざカイトを訪ねてきてくれて、どうもありがとう。おうちの方と食べて。」
困惑するミリアを慮って、自分とは全く相反して社交的な母親に対し、「もういいからさ。家入っててよ。」とカイトは抗議する。
「だってこんなに可愛い子。」
ミリアは唖然とする。
「うちのお嫁さんになってくれたらどんなに嬉しいことか。」
「勘違いするなよ!」カイトは母親の手を引っ張り、引き戻す。「マジで帰れよ! ミリアには将来を約束した人がいるの! 母さんが期待してるような、そんなんじゃないの。」
「ええ、嘘でしょ。高校生でそんな婚約なんてするわけないじゃない!」
ミリアは慌てて「あ、ありがとうございます。じゃあ、さよなら。」と類稀なる瞬足でもってその場を脱兎のごとく立ち去った。
随分カイトとは性格を異にした母親だと、感嘆する。カイトは穏やかで、無口な方でさえあるのに。カイトはお父さん似なのかしら、とミリアは訝った。そうして、では自分は一体誰に似ているのだろうと考え始めた。あの母親かしら。それは生理的嫌悪を齎し、ミリアは慌ててぶるぶると頭を振った。では、自分の本当の父親という人かしら。ミリアはふと立ち止まり、長い溜息を吐いてまだ見ぬ父親を思った。でもそれは何の具体性も持たなかった。ミリアにとって父親というのは、好き嫌いではなく、ただただアルコール中毒で暴力的なあの人物以外には考えられなかった。
でも自分の体はその、実態さえ浮かび上がらぬ実の父親という人のお蔭でこの世に誕生し得たのだと思うと、なんだか不思議な気がする。どんな人であったにせよ、感謝をしなければすまぬような気がする。ミリアはワンピースから伸びた自分の手足を眺めながら、ふとそんなことを思った。
夕方リョウは帰って来るなり、ソファに座ってギターの練習をしていたミリアに、「お前さあ、大学の入学式。どうすんの。」と問うた。
「どうすんのって?」
「スーツだよ。びしっと決めていくもんだろ? 何せ大学生なんだからよお。」どこかで知識を得て来たのだか、思い付いたのだか、リョウはやけに勢い込んでいる。
「……ああ。そうねえ。」
「今から行くぞ。」リョウはぐいとミリアの腕を取って立たせた。さっさとギターを取り上げ、壁に掛ける。
「どこに?」
「だからスーツ屋だよ、スーツ屋。」
「今から行くの?」
リョウはミリアに何かをしてやらなくてはならないという衝動に駆られていた。そうでなければ、いつ誰かに取られてしまうようなそんな焦燥から、今日は一時も逃れられなかったのである。
「入学式再来週だわよ?」
「善は急げだ。」
はあ、と溜め息を吐いてミリアは鏡を見る。
目の前には黒いスーツに身を包んだ、いつもとは明らかに異質な自分がいた。
「大人みたい……。」
「ええ、サイズもぴったりですね。大学の入学式も、それから四年後の就職活動にも十分に使えますし、よろしいかと存じますが。」女店員は完璧な営業スマイルでそう言った。
リョウはミリアが鏡を見入っている内に財布を慌てて検分した。大丈夫だ。三万五千円も入っている。月末だというのによくやった。我ながら素晴らしい。あれはジャケットとスカート合わせて税込み二万八千円。やれる。もやしキャンペーンと、例の業務用スーパーでうまくジャガイモさえ安売りしていれば……。
「ねえ、リョウ。どうかな?」
「買っちまえ。」リョウは財布の中身により得た勇気で、力強く即答した。
「でも……。」ミリアは上半身を捻って、スカートの裏に括り付けられた値札を検める。「こちらは今月いっぱい行っております入学キャンペーン対象商品で、上下セットでお買い頂きますと、二割引きさせて頂いております。」
「マジか!」リョウは厳しい眼差しで立ち上がった。「買った!」
「でも……。」ミリアは困惑している。
「でもじゃねえ。スーツがねえでどうすんだ。俺だってなあ、こう見えてもスーツは持ってる。」
「……知ってる。学校に呼び出された時に着る用。」
「呼び出されてんじゃねえよ! 行きたくて行ってんの!」たしかに呼び出された時も幾度となくあったとリョウは思い成したが、ここで店員という第三者にミリアの恥を晒すのも忍びなかったので全力で否定した。
「お姉さん、これを下さい。二割引きだな。女に二言はねえな。」
「はい、ありがとうございます!」女は深々とお辞儀をして、「それでは同じ商品を奥からお包みして参りますので、お着替えになってお待ちください。」と言い残し、早々に去って行った。
「リョウ、……大丈夫なの? これ、すっごい高いわよう。」ミリアが不安気な眼差しで問うた。
「高いも安いもへったくれもあるか。お前は大学生になるんだからよお。その立派な身分に合ったモン着ねえとダメじゃねえか。」
「でも、高い……。」
「普通だ、普通。お前のお陰で海外公演も大成功したんじゃねえか。その収入だってまだ、あんだ。」
「こんなの買っちゃって、今月食べていけんの?」
「お前なあ、俺がそんなに貧乏だと思ってやがんのか。」
ミリアは眉根を寄せて、ここぞとばかりにしっかと肯いた。
「……たしかに、貧乏、だったな。」リョウはミリアの確信に一瞬怯んだものの、「大丈夫だ。今月はライブに加え、レッスンぎっしり入れてんだ。だからいける。」
「ミリアも春休みだから撮影いつもより入れたわよう。」
「それは、あれだ。大学入って服とか本とか必要になっから、その時のためにとっとけ。」
ミリアは再び深い皴を眉間に寄せる。リョウはその様を見て暫し黙し、そっと耳打ちした。
「もし、……あれだ。食費が完全枯渇したら、貸してくれるか。」
ミリアはぱっと笑顔になってうん、と大きく肯いた。
「あの、……ミリア、ちゃん?」
と声を掛けてきたのは、長いストレートの黒髪にぱっちりとした目をした、ミリアと同い年ぐらいの女性だった。
ミリアははっとなって「美桜ちゃん!」と口元を押さえ、叫んだ。
「ああ、やっぱり! ミリアちゃんだ!」美桜はミリアを抱き締め、「久しぶり! 会いたかったよお!」と叫んだ。
リョウは瞠目して二人の邂逅を見守っていた。
「ああ、スーツぴったりね、とってもよく似合ってる。」ミリアよりも背の高くなった美桜は右から左からミリアを見下ろし、感嘆の声を上げた。
「ありがとう! これね、大学の入学式で着るやつなの。リョウがね、買ってくれたの。」
「まあ。……お兄さん!」美桜はくるりと振り向いて、深々とお辞儀をした。「お久しぶりです。全然お変わりなく、お元気そうで。」
リョウは照れながら「いやいやいや。俺はもう、老けた。美桜ちゃんは随分大人びたなあ。」と笑みを浮かべた。昔はお下げ髪だったのに、と思えば感慨深いものがある。
「ねえ、美桜ちゃんも入学式のスーツ買いにきたの?」
「うん、そうなの。この前あつらえてもらって、今日は受け取りだけ。」
「うわあ、美桜ちゃんも大学生になんだね。一緒だね。」
「うん。」
「美桜ちゃんは昔っから、頭良かったからなあ。」
「そんなことないですよ。高校も二年生からはずっと海外に行ってたから、大学も帰国子女枠でしか受けられなくて。」
「はあああ?」リョウは目を瞬かせた。
「すっごい! 美桜ちゃんやっぱり頭いい!」ミリアも驚嘆する。
「違うんです。日本の大学受験の科目を勉強するのが全然間に合わなくて。うちの高校は海外の姉妹校と提携しているから、そこで取った単位は認定されるんですけれど、向こうの授業が全然日本の大学受験に対応していなくて、……それで海外の大学を受験しようかなって思ってたんですけれど、父がどうしても日本の、……というか自分の母校を受けてほしいって言うので、帰国子女枠で受けて、それで……。」
「はああああ。」ミリアは長すぎる溜め息を吐いた。
「何か別世界の話聞いてるみてえだ。」リョウも首を傾げる。
「でも一般受験じゃ入れなかったから、これから周りの子たちに置いていかれないように、しっかり勉強していかないと。」
「美桜ちゃんどこの大学行くの?」おそるおそるミリアは尋ねた。
「K大学なの。」
ミリアはぽっかりと口を開けた。リョウでさえも聞いたことのある名門大学の名に、ミリアに「……帰るか。」と呟いた。
「ちょ、ちょっと待ってください。でもずっと日本から離れてたから、色々不安で。ミリアちゃんまた昔みたいに仲良くしてくれる?」
「当たり前じゃん!」ミリアはユリの両手を掴み取って揺さ振った。「子供の頃美桜ちゃんに誘ってもらったお陰で調理部入って、そんで料理楽しくなって、そんで美桜ちゃんのママにも色々お料理教えてもらって、そんでミリアは大学、栄養学科に行くんだよ?」
「ええ、そうなの!」美桜は大きな目を更に見開いて驚嘆した。
「そう。リョウがね、去年病気してそんで病気を治すご飯まいんち作って、それでAO入試やって合格できたの。料理がなかったらミリアは大学生になれなかったんだよ。そんでその料理を好きになるきっかけは美桜ちゃんが作ってくれたの。」
「そんなこと言ってくれるなんて……。」美桜は目を潤ませた。
「ミリアは大学頑張って管理栄養士の免許取って、病気の人を治すご飯をたっくさん、作れるようになりたいの。病気って大変だから。バンドもできなくなっちゃうし、みんながみんな辛い思いするし。」ほとんど個別の事象をしか思い浮かべずに言った言葉ではあったが、美桜は真剣に頷いて聞いた。
「でもそっから復活したらすっごい曲が書けるようになるから、ね。やっぱし病気を治せる料理を作れるようになりたいの。」
「ミリアちゃん、凄い……。私も勉強頑張る。なんか、今、すっごい刺激貰った。日本帰って来て良かった。ありがとね。」
「うん、頑張ろうね。」
二人は固い握手を交わす。
そこに先程の店員が戻って来る。「黒崎様、相原様、お待たせを致しました。お品物こちらになります。」手にはスーツの入った紙袋を持っている。ミリアは嬉し気に歩み寄り、二つのそれぞれ紙袋を覗き込んで、「お揃いね。」と美桜に囁いた。美桜も紙袋を受け取り、「昔、ブレスレッドお揃いで作ったよね。覚えてる? それと一緒。」と嬉し気に囁いた。それから自分の袋をそっと抱き締めた。ミリアも笑顔を浮かべ肯いた。
美桜の物はオーダーメイド品だと言ってはなかったか? とリョウは訝ったが、それぞれ同じ店で買ったスーツを嬉し気に抱きしめているので無論そんなことは絶対に口には出さず、そっと店員に代金を握らせ、今月、ライブの収入があったことに心から安堵した。