後篇
「うまそうな物を食ってるな」
あまりに驚いて声が出ない。
「食えよ」
「あ、あの……、なぜここに?」
左近がゆっくりと隣に腰を下ろした。
「いいから早く食え」
「……でも、あっ」
手首をつかまれ強引に口元まで動かされた。思わず口を開けると、餅が放り込まれた。下唇に左近の指先がそっと触れた。かーっと体が熱くなったと同時に、桜の葉の香りが鼻をくすぐった。甘い餡が舌の上に乗る。目は左近を追いかけているのに、勝手に口が動く。左近も自分を見ていた。
「うまいか」
「は、はい」
つい頷くと、左近が笑った。
笑顔をこんな間近で見るのは初めてだった。
茶菓子を飲み込むのが難しくて、茶で飲み干した。
「甘い物が好きなのか」
「は、はい」
「そうか」
左近はゆっくりと視線を逸らして、川の方を見た。
「最近、忙しくて花見どころではなかったな」
ぱっと横を見ると、左近が遠い目をして言った。見つめる先の桜はほぼ葉桜になっていた。
「ちくしょう、葉ばかりだ」
言い方がおかしい。思わず、吹きだした。
「何がおかしい」
「いえ、申し訳ありません」
「ふん」
「あの、頼みましょうか?」
「何を」
「桜餅です。桜の葉の香りがしてうまいですよ」
「甘いものは苦手なんだ」
どう答えていいか分からなかった。
「好きなのか?」
「え?」
「桜餅だ。うまそうに食っているから、思わず坐ってしまった」
「そうでしたか」
真之介は一人納得した。ふふと笑うと、左近がじっと見つめている。
「あの……、何か?」
「ああ、いや、今日は元気がなかったから、心配していたが大丈夫なのか」
「え……?」
「いつも走り回っている奴が道場の隅でしおれていたら心配するじゃないか」
聞き間違いだろうか、と真之介はぼんやりと思った。
「お、おいっ」
左近が慌てふためく声がする。気がつくと涙がこぼれていた。
「何を泣く」
「申し訳ありませんっ」
「辛いことがあるのか? 俺でよければ話を聞くが……」
言ってしまおうか。本当に縁談をするのですか?
しかし、それが真実なら、お祝いの言葉を言える覚悟ができていない。
逡巡すると左近の腕がふっと真之介の髪に伸びた。
「あ……」
「花びらだ、ついておるぞ」
笑う顏に引き寄せられる。目を離せられない。
どうしよう。とても好きだ。
無邪気に笑う笑顔、誰にでも優しい寛大な心持ち。
顔を見ていると苦しくて泣きそうになる。
駄目だ、言えない。気持ちを打ち明けたら迷惑をかけてしまう。
「か、かたじけのうございます。都築さまに気を使わせてしまいまして、申し訳ありませぬ」
「かまわんさ、俺にとってお前は大事な門弟だからな」
ぽんと肩を叩く。
「遅い花見を楽しむとするかの」
茶汲女に注文を取り、酒を頼む。酒はすぐに出てきた。
隣で酒を飲む左近を見つめながら、真之介は唇を噛んだ。
男らしかったぞ、真之介。よく我慢した。
頭の内側で叫んでいる。
いいか、自分の気持ちを打ち明けてはならぬ。
「あ……」
その時、手の平を温かいものが包み込んだ。隣を見ると、まっすぐに川を見つめた左近が呟いた。
「どうして言わぬ」
「え?」
ぎゅっと手のひらを強く握りしめられる。
瞬間、熱く燃えるように血が滾った。がんがんと心臓が頭の中で鳴り響いた。
「そなたが欲しい」
左近が自分を見ていた。
「そなたの元気な顔を見るのが、俺の楽しみだ」
この意味が分かるか? と問われ、首を振る。
信じられない――。
「今朝は死んだような瞳で俺が見ていたことにも気付いていなかった。そなたが気になって仕方ない。こうして追いかけて来たのに」
食い込むような指先を感じて体が熱い。坐っているのに、自分がどこにいるのか分からなくなりそうだった。
「聞いているのか? 真之介」
「あ、あの……、驚いて声が……」
「俺が欲しければ、ついて参れ」
すくっと立ち上がり勘定を払った。真之介の分まで払い、土ぼこりの道を歩き始める。
今すぐ、今すぐ立ち上がれっ。
真之介は自分に言った。
男ならここで立ち上がって追いかけろ。
草履を踏ん張り立ち上がる。
ふらりと体が傾いだが、なんとか体制を整えた。
左近がゆっくりと歩いている。真之介は走った。
心の中で叫びながら、左近のそばに追いついた。
「つ、都築さんっ」
「うん……」
左近が薄く笑った。
「桜がきれいだの」
川の方を眺め、それからきゅっと唇を結ぶと黙って歩き出した。
今すぐ腕につかまり、手を握りしめたい。
慾望に揺さぶられながら、真之介はふらふらと左近について行った。
左近も黙ったまま、どこへともなく歩いてゆく。






