前篇
川の向こうにも茶店がいくつか並んでいた。
水面は太陽が反射してきらきらしていた。風が吹くたびに川沿いの桜が揺れて花びらが舞っていた。
床几に腰を掛けて茶を待っていた波方真之介は、その風景をぼんやりと眺めていた。吐息をついて空を眺める。雲ひとつない青空だ。川から上がってくる風からは春の匂いがする。
真之介は今年で十六になった。
伊予国正岡藩の藩士で、百石の扶持を食んでいる。波方家は馬廻組で父はまだ健在であった。長男である真之介が波方家を継ぐのはまだ先の話であるが、真之介は十六歳になってもいささか頼りない風貌をしていた。四つの頃から通っている道場では、いまだに未熟者で年下の者に追い抜かれる始末である。丸みをおびた体つきと白い肌のせいで、子ども扱いされる事が多い。
練習中、相手に打ち負かされると二の腕はすぐにみみず腫れになって、よくからかわれた。そのたびに口惜しい思いをするが、歯向かうには小柄すぎた。
「はあ……」
大きなため息が漏れる。武士のくせに情けない、と母に叱られるが、今日は切実な事情があった。
今朝は早めに道場へ行き、汗を流すつもりだった。次々と門弟たちが現れる中、こっそりと都築左近の姿を探した。
都築左近は、真之介の通う堀内道場の師範代である。幼少の頃から剣術、槍に優れており目録を頂いてから師範代になった。教え方も丁寧で面白いため、門弟たちに人気があった。
真之介も密かに憧れていたが、いつの間にか顔が見られない日は生きた心地もしないほどに、左近を好きになってしまっていた。
左近は見た目も素晴らしく、見上げるほどの上背に堅く盛り上がった胸板、長い手足に二重の目、鼻梁が高く、遠目にも目立つ容貌をしていた。
一方、真之介はちっぽけで顔立ちも地味だ。ちんまりとついた鼻と唇。目だけは女のようにぱちりと愛らしいがそれこそ迷惑な話で、賢そうな目元のほうがよほどうれしい。
こんな自分が憧れるのもおこがましく、見つめるだけでいいと諦めていた。
しかし、今朝になって左近に縁談の話があるという噂を聞いた。そのとたん、目の前が真っ暗になり、息をするのも辛い心境に陥った。
練習に身が入らず心ここにあらずで、今日は何をしたのか記憶がない。結局、のろのろと道場を後にした。
帰り道、あまりの辛さに家に帰る気にならず、気持ちを落ち着かせたいと、自然と川の方へ足が向いていた。そこで茶店に寄って、空を眺めている始末である。
そういえば桜が散っている、と今さらながら気が付いた。はらはらと舞う桜を見ていると、自分の心が空洞になっているのに気が付いた。
左近が結婚してしまう。
おめでたいことなのに、心にぽっかりと穴が空いてしまった。
「お待たせいたしました」
茶菓子を盆に載せた娘が現れた。ようやく出された茶を受け取り温かさに息をついた。
「ありがとう」
礼を言うと、娘はぽっと頬を染めて暖簾の向うへ引っ込んだ。熱い茶に息を吹きかけて口をつけた。体が冷えていたのか、茶がうまい。
出された茶菓子は桜餅だった。鼻を近づけると桜葉の匂いがした。一口かじる。ぱり、と葉が千切れる音がした。葉は少し塩の味がした。代わりにぎっしり詰まった餡が甘い。
桜の葉の匂いが鼻に届いた。噛み砕いて茶を飲む。桜餅が腹に流れ落ちていくのが分かる。
甘い――。
とたん、鼻がつんとした。目じりに涙が滲む。真之介はぐいと指で涙をぬぐった。
もう一口。皿を持ち、口許へ運ぶ。
ぱり、と桜の葉が千切れる音がした。再び口を開けて食べようとすると、ふっと自分の側に人の影がよぎった。顔を上げると、
「よお」
と、男が言った。
息が止まる。
左近が立っていた。




