5話
「そこでいいか。入るぞ」
あの後、いきなり目の前に現れた無藤恭一に驚きを隠せないでいた僕に「そんな顔して一人で歩いてるってことはどうせ暇なんだろ? ちょっと付き合えよ」なんていう有無を言わせない言葉に従い、混乱したままの頭でとりあえず頷いてしまった僕は、近くの喫茶店に足を運んでいた。
「ブラック一つ。お前はどうするんだ、佐渡誠也?」
「えっ? じゃ、じゃあホットココア一つお願いします」
何が何だかわからないまま喫茶店の席に一緒に座り、注文の際にまるで友達とでもいうような感覚で話を振ってきた無藤恭一にただただ唖然とする僕。
「そんなマヌケな顔してんなよ。ま、気持ちはわからんでもないが」
こちらの考えはお見通しとばかりに話しかけてくる。
え? 本当にどういう状況なのこれ?
僕、ただみんなと仲直りできなかったのを落ち込んでただけのはずなんだけど……。
そうこうしている間に注文したものが運ばれてきて、笑顔でウエイトレスさんが僕らの元を離れていく。
少しだけ行かないで。と思ってしまった。
「えっと……なんでわざわざ僕に話しかけたの?」
話す内容が見当たらない僕は、とりあえず何か話のきっかけを掴むべく、まずは当然の疑問を投げかけた。
「何を言ってるんだ佐渡誠也。俺が歩いてるところにお前がぶつかってきたんだろうが」
「そ、それはそうだけど……。でも、そのまま無視することだってできたでしょ? それなのになんで僕と喫茶店なんか」
「そりゃあ、お前が辛気臭い顔してたからだよ。他人の不幸は蜜の味ってな。どうせ嫌なことでもあったんだろ? 理由も当ててやろうか? おおかた仲間との喧嘩とかってとこだろ? 違うか?」
言っていること自体は最低だけど、指摘してきた部分に関してだけは知っていたんじゃないかってくらい的確だった。
普段から考えてることがすぐに顔に出ると言われるだけあって、なんで当てられたの!? という感情が顔に出てしまったのか。「やっぱりか」と、無藤恭一は楽しそうに嗤う。
笑い事じゃないんだけどな……。
「半分当てずっぽうだったんだけどな。まさか大当たりとは。笑いが止まらねえな」
冗談なんかではなく、本気で楽しそうに笑う無藤恭一に我ながら珍しく不快感を覚えるも、それを口にすることはなかった。
そんな気力がなかった。というのが本当のところだけど。
「お前はこんな話をしたくないだろうから話題を変えてやるよ。ありがたく思えな」
妙に上から話しかけてくる無藤恭一にそろそろ慣れ始めた僕は、せっかく暖かいココアを冷ましてしまうのが忍びなくて口に含む。
ココアのほんのり甘い暖かさが体の芯から僕の体も心も温めてくれた。
「なあ、佐渡誠也。お前はなにも聞いてこないけど気にならないのか? なんでアトフィックが何事もなかったようになくなったのか? どうして俺があそこにいたのか? 気にならないのか?」
「そ、それは気になるよ……」
「ならなんで聞いてこない? せっかく俺が話す時間を作ってやってるというのにのんきな奴だな」
「それは、僕が質問すれば教えてくれる……ってこと?」
「そいつはわからないな。俺に話すメリットは何一つない。俺の気分次第では話すかもしれないってくらいだな」
ならなんでこんなこと言ってくるんだろう? という疑問が浮かぶも、あの時の話を聞ける可能性が一パーセントでもあるなら僕はそれに縋ってみたい。
あの時のことは本当に不可解で、あの間宮さんや奏ちゃんたちですら何も情報が掴めなかった一件だ。
気にならないなんてことは絶対にない。
「それじゃあ聞かせてもらうよ。……あの時の動画はどうしたの?」
「動画? ……ああ、あの女どもの盗撮動画か」
僕が投げかけた質問に一瞬驚いた顔をした無藤恭一。それでも少しして僕の言っている意味がわかったのか、つまらなそうにブラックコーヒーを一口飲んだ。
「お前はどんな時でも他人優先なんだな。……腹が立つ」
ひどく苦々しい顔を無藤恭一はした。でも、それはブラックコーヒーが想像以上に苦かったからなどでは決してないだろう。
「あの動画は消した。売りにも出してないし、誰かに譲ったりもしてない。ネットの海に出ることなく、正真正銘この世から姿を消した」
「え……? どうして?」
「なんだ? お前はあの女どもの着替えやら用を足しているところが見たかったのか? なら残念だったな」
「違うよ。僕が言いたいのは、君はあの時この動画を売ってお金にするみたいなことを言ってたじゃないか。それなのにどうしてなのかなって?」
記憶が正しければ、僕はアトフィックの社長室にあったパソコンで、アトフィック社の女子トイレや更衣室に仕掛けられていた隠しカメラの映像を見てしまった。
そのことについて彼に問い詰めたときに彼は当然のように売ってお金にすると言っていたはずだ。
「ああ、あれは嘘だ。そう言った方がお前を怒らせられると思ったからな」
「ぼ、僕を怒らせる? なんでそんなこと……」
「なんでって、俺はお前のことが嫌いなんだ。嫌いな奴のいやなことをするのは当然のことだろう?」
「そんな当然は僕は知らないよ。人が嫌がることはやっちゃだめだ」
「まったく、嫌になるほどまじめな奴だな。本当に腹が立つ」
テーブルに肘をつき、頬に手を当てて窓の外を見やる無藤恭一。その姿は人と話す時に姿勢にしてはとても失礼な姿勢だった。
でも、文句は不思議と出てこなかった。なんでだろう?
「とにかくあの動画は世界どこ探しても一生見つからねえよ。残念だったな」
「残念じゃないよ。むしろ、ありがとうだよ」
「ありがとう? どこまでおめでたい頭をしてるんだお前は」
「おめでたくないよ。自分がやってほしかったこと。やってもらってうれしいこと。そういうことをやってもらったらありがとうってお礼を言うのは当然のことだよ」
何かをやってもらって嬉しかったり、何かをしてもらって助かったらお礼を言う。ありがとうを言う。そんなことは幼稚園児だって知っている。
僕はそんな子供でも知っている当たり前のことをしただけだ。
「俺は女どもの恥ずかしい姿を録画してたんだぞ? 売りにこそ出してないにしても、おまえの言うところの人の嫌がることはしてる。そんな相手にお前はお礼を言うのか? 自分で悪いことをして、自分で悪いことをやめた人間にお前はお礼を言うのか? バカだな」
退屈そうに、つまらなそうに、淡々と、しかしそれでいて今度は僕の目をしっかりと無据えたまま無藤恭一は言う。
「確かにそうかもしれない。でも、なんでかな? 僕はどうしても、君のことを悪い人には思えないんだよ」
先ほどからずっと引っかかっていたことを口にした。
確かにあの時の僕は無藤恭一の言葉にある種の絶望をしてみんなに迷惑をかけた。
今だって決して普通に人と話すような態度ではないし、口だって悪いし、僕のことを見下してだっている。
それなのにどうしてか、僕は彼のことを、無藤恭一のことを嫌いになれなかった。
基本的に僕が人を嫌いにならないようにしているとかそういうものじゃなく、ただ純粋に、素直なままの僕が彼を嫌いになれないでいる。
「……」
僕の言葉に無藤恭一は返事をしなかった。
ただ僕の顔を見て、まるで時間が止まってしまったかのように動かない。
僕が世界の時間が止まっていないと確信できるのは、周りにいる他の人が普通に動いているからだ。
「佐渡誠也。本気でそう思っているのならお前はバカだ。もしくは世界一の偽善者だな。だが、そんなことすら気にせずに、もし、俺と仲良くやっていきたいと思っているのなら、まずは考え方を変えるべきだ」
少しして、無藤恭一は意を決したようにそう言葉にした。
僕が「考え方を変える?」と、オウム返しをすると、無藤恭一はさっきまでの無関心な感じとは一転して真面目な顔で語りだした。
「俺はお前みたいに世の中のすべての人が善人だとは思ってない。むしろ本当の善人なんていないとすら思ってる。いるのは悪人か偽善者か傍観者だと思っているんだ」
僕とはまるで違う考え方をする無藤恭一の言葉を僕なりに咀嚼して聞き入る。
「悪いことをする悪人と、それをどうにかしたいと考える偽善者と、見て見ぬふりをする傍観者。この世には三種類の人間しかいないんだよ。そして、違うように見えるこいつらには一つだけ共通することがある」
そこまで説明したところで無藤恭一はカップに残っていたブラックコーヒーを口にする。
たったそれだけの短い時間でも、僕は彼の話の続きが気になって仕方なかった。
「ねえ、今言った人たちの共通することって?」
溜めに溜められて続きが気になって仕方なかった僕は、自分から質問してしまう。
そんな僕に無藤恭一は真面目な顔で言った。
「結局は自分が一番大事だってことだ」
まるで世界の心理でも語るようにそう口にした無藤恭一は、さらに続けた。
「悪人は楽して自分が得するためや自分を満足させるために、偽善者はそれを解決した際のメリットや、周りからの自分の評価、そしては問題を解決した自分に酔うのために、傍観者は危険な出来事から自分の安全を守るために、結局みんな自分なんだ。誰一人として他人のために動いてる奴なんて存在しない」
「そんなことないんじゃないかな?」
「あるさ。逆にお前に聞くが、お前は誰かを助けるときに自分のことは一切考えていないって言えるか?」
「それは―――」
ない。と言い切れなかった。
ここ最近、みんなとケンカをしてしまって、自分の今までの行動を顧みて、そして今、みんなと仲直りしたいと奔走して、僕は、誰かのために行動しているつもりになっているだけなんじゃないか? 誰かのためになっていると思い込んでいるだけなんじゃないかと、そう考えてしまうことがあった。
「お前は俺が今まで会った人間の中で一番良いやつだ。ただの一般人の分際で、友達のために一会社に喧嘩を吹っ掛ける。大した奴だな。そして、バカがつくほどのお人よしだ。そんなお前ですら、今の質問に即答できない。自信をもって、誰かのためだけに行動していると宣言できない。―――もうわかっただろ。世の中には善人なんていない。仮にこの世に人間が一種類しかいないといえば、俺は絶対に悪人だと思うね。どんな言葉で飾ろうと、どんなに言い繕っても、どんな大義名分を掲げたって、結局は自分のためだ。誰かのためじゃない。誰かのためだって自分を言い聞かせて、騙してるに過ぎない。他人どころか自分さえも騙している俺たちは、全員―――悪人だ」
「……」
「世の中、悪に対する武器が正義だけだとは限らない」
「え……?」
「一つだけ教えておいてやる、佐渡誠也。あの時お前は馬鹿正直にアトフィックに挑んでいたが、俺がいなかったらお前たちは警察行きだった」
「ど、どういうこと……?」
「理由なんてどうでもいいだろ。今話してるのは悪に対する武器の話だ」
僕の質問に答える気がないらしい彼は、淡々と話を進める。
「はっきり言っておく、あの会社、アトフィックが潰れたのは俺の働きがあったからだ」
「説明は、してもらえるの?」
「詳しい話はなしだ。ただ、あの会社は女性をメインとしたエクササイズ以外に、表沙汰にはできないことをしていたってことだけだ。そのために、俺は武器を取った」
正直、詳しい説明が聞きたかった。
どうして社長代理だったはずの彼がその会社を倒産に追い込んだのか、
表沙汰にはできないことって言うのは、あの盗撮映像以外に何があったのか。
その他にも本音を言えば聞きたいことだらけだった。
でも、その中でも一番気になったのは。
「その武器って?」
彼が手にした、武器についてだった。
「簡単な話だ。よく言うだろ? 目には目を、歯には歯をって」
ここまで言われてはさすがの僕だって彼の言葉の続きが予想できた。
目には目を、歯には歯を。その理論でいけば、悪に対する武器は―――。
「悪には悪を」
悪しか残ってなかった。
「普通に戦っても勝てない。正当な方法では相手を潰せない。なら、どうすれば相手を陥れられるのか。簡単な話だ。相手が卑怯なことしてるならこっちも同じことをすればいい。お前たちみたいに真っ向から立ち向かうのはバカのやることだ。成功率なんて欠片ほどしかない。それで成功すればいいが、失敗したしたら不幸な人間が増えるだけだ」
「それは、そうかもしれないけど……」
「かもしれないじゃない。そうなんだよ。考えてみろ、佐渡誠也。自分一人が泥を被れば、悪人という役を引き受ければ、自分がすべての悪を背負えば、たくさんの人が救えるんだ。お前の大好きな人助けができるんだ。事実、お前とはやり方は違うが、俺はアトフィックを潰して、不幸になるはずだった大勢を結果的に救っている。数学とかだっていろんな解き方があるように、現実の出来事にもいろんな解決方法がある」
「でも、それでも―――」
「お前の勝手な正義論を他人に押し付けるな。お前は、お前の勝手な理想で救えるはずだった奴らを見捨てるのか?救えるはずだったものを、手放すのか?」
「……」
「おい、佐渡誠也。本当はこんな話しをお前にするつもりはなかったが、ここまで話しちまったのも何かの縁だ」
ついに黙りこくってしまった僕に、無藤恭一は考える時間も、落ち込む時間もまともにくれることなく、僕に驚きの一言を言い放った。
「お前に覚悟があるのなら、俺と手を組まないか。佐渡誠也」