3話
私が佐渡誠也に対して何故かあんなことを口走ってしまった次の日。
いつも通り学校に登校してきた私は、今日は運が悪かったのか、机の中に入っていたゴミをゴミ箱に捨ててから自分の席について、カバンの中から文庫本を取り出し、開く。
ちょうどその時だった。
教室の扉が勢いよく開かれる音が耳を叩いた後、ドタドタと大きな足音がしてきて、それが私の机の前で止まった。そして、大きな声が私を呼ぶ。
「間宮さん!」
佐渡誠也だ。
本当なら相手にするのも面倒だけれど、今日は違った。もしかしたら昨日の私が抱いていたよくわからない感情の正体がわかるかもしれない。その可能性が佐渡誠也との会話を望んでいたのだ。
だから私は、開いたばかりの文庫本を閉じて、目と耳を佐渡誠也に傾ける。
佐渡誠也は何故か少し汗をかいていて、息も荒れていた。
「なに、そんなに慌てて。まだ遅刻するような時間じゃないわよ」
「そ、そうだなんだけど、少しでも早く間宮さんと話したかったんだ!」
「ふーん。それで、いつもの挨拶すら忘れてまで私に話したいことって何かしら?」
意地の悪い私の言葉に一瞬焦ったような顔をした佐渡誠也。でも、それはほんと一瞬で、次の瞬間には笑顔で、いつもの二割増しの声で挨拶をしてきた。
「おはよう間宮さん!」
「はいはい。おはよう。それで、そんなに急いでまで私に話したいことってなんなの?」
「うん! これなんだけど!」
そう言うと佐渡誠也はカバンの中から一冊の文庫本を取り出し、私の机の上に置いた。
それは、昨日私がおすすめしたばかりの小説だった。
意味がわからずに私が呆気に取られていると、佐渡誠也はそんな私を置き去りにして言った。
「間宮さんがおすすめしてくれたこの本。すごく面白かった!!」
と。
そのあとも、呆気に取られたままの私を無視して佐渡誠也は喋り続ける。
「最初はいじめについて関心がなかった主人公が、話が進むにつれていじめについて深く考えるようになるところとか。ヒロインをいじめてたのが実は主人公の親友だった時の反応とか。最後にいじめに耐えきれなくなって自殺しようとするヒロインを止める主人公のセリフとか、とにかく何から何まで全部よかったよ!!」
とりあえず言いたいことが言い終わったのか、佐渡誠也が喋るのをやめた。
結局私は佐渡誠也が話している間中、呆気に取られていた。それどころか周りの連中すら呆気に取られていた。
私からの返事がないことでそれに気が付いたのか、佐渡誠也が申し訳なさそうな顔になったところで私は意識を取り戻した。
「まさか、そんなことを言うためだけに急いで来たわけ? 私なんかに本の感想を伝えるためだけに汗掻いて、息を荒げてまで来たっていうの?」
「え? そうだけど……。なにか変だったかな?」
当然の私の疑問に佐渡誠也も当然だとでもいう様に答える。
「だってこの本、本当に面白かった! 少なくとも僕が今まで読んだ小説の中で一番面白かったよ! ちょっと恥ずかしいけど、最後の方なんて僕、少し泣いちゃったんだ……」
佐渡誠也の瞳は輝いていた。穢れを知らない子供の目のようだった。
そんな純粋な瞳で佐渡誠也は本当に楽しそうに、それでいて嬉しそうに、でもちょっと照れくさそうに、そう語った。
私がこの本を読んだ時はどうだっただろうか? 読んだ後に面白かったとは思ったはずだ。でも、目の前のクラスメイトほど楽しめただろうか。いや、絶対にそれはない。それに少なくとも私は、この本を読んで泣いたりなんてしなかった。
この本は別に感動させるのが目的の本じゃない。どちらかといえば、どんなにいじめというのは人を傷つけ、どんなに無意味なことなのか、それを主人公の心の成長と共に書いた本だ。少なくとも私は読んだ後にそう感じた。
でも、目の前のクラスメイト、佐渡誠也は同じ本を読んだはずなのに私とは全く違うものをこの本から感じ取った。それは別に問題じゃない。私自身が言った通り感じ方なんて人によって違う。私が疑問に思うのは、私と佐渡誠也が全く違うものをこの本から感じ取ったからだ。
同じ本を読んだのなら、少なくとも多少は同じ意見があるはずだ。同じ反応を示すはずだ。
でも、私と佐渡誠也は違うものを同じ本から感じ取った。
確かに同じものを感じ取ったところもあった。面白かったとか、楽しかったとか。でも、その度合いが違う。
その証拠に私はこの本を読んだ後にこんな綺麗な瞳にはならなかったし、涙を流したりしなかった。
この時になってようやく私は、自分がこの本を存分に楽しめてなかった可能性に気が付いた。それと同時に、もう一度この本を読み直すことを決めた。
でも、このままじゃダメ。
このまま私がこの本を読んだって、前と同じ結果に行きつくだけだ。
だから私は、佐渡誠也がどういう風にこの本を読んだのかを知る必要があった。
「ねぇ、ちょっと聞いてもいいかしら?」
「ん? なになに! この本のこと!」
「えぇ。……ねぇ、あんたはどういう気持ちでこの本を読んだの?」
ひどく抽象的な質問だ。
私が同じ質問をされたら言葉に詰まっただろう。
でも、佐渡誠也は少し悩んだような仕草を取るだけで、特別深く迷ったようなことはなく、口を開いた。
「僕は、とにかく登場人物の気持ちになって読んでた……かな?」
質問がひどく抽象的なものなら、返事もそれなりに不思議なものが返ってきた。
「登場人物の……気持ちになって」
「うん。これを言われたときにこの人はどう思ったんだろうとか。こんなひどい目にあってヒロインはどう思ってるんだろうとか、どうして主人公の親友はこんなことをしたんだろうとか、そういうことばかり考えてたよ。そのせいかな、最後に主人公とヒロインに感情移入しすぎて泣いちゃったんだ……。」
そんなこと考えたことなかった。
私はいつも他人事のように小説を読んでいた。これは物語なんだから、作り話なんだから、そんな風に思いながら、いわゆる神視点という読み方をしていた。一人称小説でも三人称小説でも、私はあくまでそこにはいない人物で、関係のない人物で、登場人物たちと自分は全く違う人物。そういう風に読んでいた。
でも、佐渡誠也は違った。自分はその物語の中にいて、登場人物たちと自分を重ねて、常に登場人物の気持ちを追っていた。
私と佐渡誠也のこの本から感じ取ったものの違いはそこだろう。そう思った。
「そっか……。そういう風にあんたは読んだんだ」
「うん。間宮さんはどういう風に読んでたの?」
「私は、自分はこの物語には関係ない人間だって読んでたわね。あくまで赤の他人の話だって。赤の他人の、現実ではありえない素敵な物語を見せてもらってる。そんな感じで読んでたわ。あとは、作者が伝えたいことを探りながら読んでたかしらね」
「作者の伝えたいことを探る……か。そんな読み方もあったんだね! うーん、そう言われると、今度はそういうことに注意してこの本を読みたくなってきたよ!」
私のなんてことのない感想に佐渡誠也はその瞳をまた輝かせた。
私には絶対にまねできない。子供の様に純粋な瞳がそこにはあった。
その瞳を見ていられなくて、目線を外すように視線を少し下に下げる。そこであることに気が付いた。
「そういえばあんた。小説はあんまり読まないって言ってなかった? それなのにこの本を昨日の一日で読んだわけ? それも放課後にわざわざ買いに行ってまで」
「そうだよ。読み始めたらすごい面白くて、気が付いたら全部読んじゃってたんだ」
「それで私に感想を伝えたくて急いできたわけよね?」
「うん。そうだね。すぐにでも間宮さんにこの本の感想を話したかったんだ」
「なんでそこまで……」
さっきも聞いたその問。
でも、さっきの答えに私は満足がいってなかった。だからこんな言葉を吐いてしまったんだろう。でも、佐渡誠也は同じ質問をされたにもかかわらず、嫌な顔一つせず、それどころか不思議そうに私に言ったのだ。
「え? だって、誰かと同じものを共有したら感想を言い合いたいって思わない?」
と。
それは今まですべてのことを自分の中で完結させてきた私には思いもつかない考えで、選択肢にすらなかった答えだった。
でも―――
キーンコーンカーンコーン。
昨日の朝と同様、私と佐渡誠也の会話を打ち切るように無情にもチャイムは鳴り響いた。佐渡誠也はチャイムを聞いて慌てたように「あっ! もうそろそろホームルームだ! この話はまた今度ね! 間宮さん」なんて言いながら自分の席に戻っていった。
「そっか……これが誰かと感想を共有するってことなのね」
この日、私は初めて誰かと感想を共有するということを知り、それがとても面白くて、いいことだということを知った。
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次の日、私は二冊の文庫本を持って家を出た。文庫本を二冊持っているのは、一冊がもうすぐ読み終わるからとか、そういう理由じゃない。今読んでいる方の小説はまだ百ページ以上残ってる。もう一冊持っているのは、昨日佐渡誠也と話し、私が昨日の夜に読み直した、おすすめしたばかりの本だ。
いつも通りの時間に家を出て、いつも通りの道を通り、いつも通りのペースで学校に向かった。はずだったんだけど、なぜかいつもより少し早く学校に着いてしまった。
そのことを不思議に思いながらも、まぁ、たまにはこんなこともあるわよね。なんて思いながら、自分の教室に向かう。
「ふう……」
教室に入り、自分の席について、カバンの中から二冊の文庫本を取り出す。一冊は机の上に、もう一冊は自分の手に。手に持った一冊の文庫本を開き、私は自分の世界に入り込んだ。
そんなことをして五分ほど経過したころ、私は自分の世界を閉じた。あの音が聞こえてきたから。ドタドタと騒がしい音が廊下の方から聞こえてくる。その足音がどんどんと近づいてきて、最終的には私の目の前で止まった。
そこまで来て、私はようやく文庫本に落としていた視線を上にあげる。
「おはよう! 間宮さん!」
案の定というかなんというか、佐渡誠也が目の前に立っていた。
「おはよう。今日も随分と急いできたのね。遅刻でもすると思ったのかしら」
昨日同様、少し汗を掻いて、息を荒げながらやって来た佐渡誠也に昨日同様の言葉を私は投げかける。そんな私に嫌な顔をせずに佐渡誠也は笑ってカバンから一冊の文庫本を取り出した。
おそらく、私が今机の上に置いてある同じ本を、取り出した。
「昨日間宮さんが言ったみたいに読んでみたんだ! そしたら、また違った読み方ができて面白かったよ!」
「そう。それはよかったわね。私もあんたの読み方をしてみたら少しは違った読み方ができたわ」
昨日、佐渡誠也が言った通り、私は登場人物の気持ちを常に追うようにして小説を読んでみた。結果は今言った通り。前に読んだ時とは違う読み方ができた。
そしてそれは―――
「前より面白い読み方ができたわ。ありがとうね」
私が素直にお礼を言ってしまうほど、良い読み方だった。
「そっか! でも、間宮さんの読み方も面白かったよ! 登場人物だけじゃなくて、作者の伝えたいことを考えて読むのも面白かった。小説ってこんなに面白いものだったんだね!」
「そうよ。小説は面白いの。下手な現実なんかよりよっぽど私たちに色々なことを教えてくれるわ」
「うーん……全部が全部賛同できるわけじゃないけど、間宮さんの言うことも少しはわかる気がするよ!」
「そう。それはいいことね。小説の面白さがわかるのはいいことよ。少なくともそこらのバカよりは全然マシね」
珍しく話が合う人を見つけた私は少し舞い上がっていた。自分でも驚くほど口が開いていたし、言葉が飛び出していた。
だから私はそのことに気が付くのに遅れてしまった。いつもならすぐに気が付くようなことに、時間をかけてしまった。
佐渡誠也が、仮面の様に張り付けていた笑顔を外し、少し悲しそうな顔をしているのに気が付くのに遅れてしまっていた。
「どうかしたの?」
気が付けば私は、人を心配するような言葉を投げかけていた。
その言葉にハッとしたような反応をした佐渡誠也は、すぐにいつもの笑顔を張り付ける。
「ごめん。ちょっとこの本の最後の方を思い出して悲しくなっちゃって……」
「あんた……さすがにそれは感情移入しすぎなんじゃないの?」
「そうかな?」
「そうよ。感情移入するのはいいけど、ほどほどにしなさい」
「うん。気を付けるよ」
私の忠告に素直に頷いた佐渡誠也。
それから私たちは、ホームルームを知らせるチャイムがなるまで本の話で盛り上がった。