1話
次の日の朝。
私は決まった行動しかできないロボットの様にいつもの時間に目覚め、顔を洗い、朝食をとって、学校へと向かった。いつもと何ら変わりのない景色にうんざりしながら、今日もまたつまらない日常が始まってしまったと嘆息を零す。
「こんなことなら、もっと上の学校を目指しておくべきだったかしらね」
中学の時に一応は提案されていた。私の頭ならもっと上の高校を狙えるから狙ってみるべきだと担任からも両親からも言われていた。でも、残念なことにここは田舎だった。学力の高い学校というのは大抵東京のような大きなところにある。近くても片道だけで二時間以上かかる距離だ。そんなことに時間を使うくらいなら近場の適当な高校で我慢して、家で自習でもしていた方が効率がよさそう。そんな理由で私は担任と両親の提案を突っぱねた。今になってそれを少し後悔している。
もっと学力の高い学校に行けば競争相手がいたはずだ。私に及ばないまでも、今の学校よりまともな考えを持った人がいたはずだ。そうであれば、今の私の様な苦労をせずに済んだのだろう。そう思うと、あの頃の私はまだまだ子供で現実が見えていなかったんだろう。
人というのは自分よりも優れている人間を見ると嫉妬し、妬み、省く生き物だ。弱い者たちで固まって、強いものを追い出す。もしくは、強いものへの嫉妬心を自分より弱いものに当たって自分を保つ。それを一般的にいじめという。私はそれの被害者でもあった。もちろん前者の意味で。
「またつまらないことを……」
学校に着いて下駄箱で靴を履き替えようとすると、私の上履きがなくなっていた。こういうことをする連中には心当たりがある。ただ、数が多すぎて特定は難しそうだ。
「どうせ、こういうところに隠したんでしょね」
私は下駄箱にある来客用のスリッパを履いて、ここから一番近くのトイレのごみ箱をのぞき込んだ。そこには案の定一足の上履きがあって、私はそれを拾い上げる。
「ゴミが全然入ってなかったから助かったわね。さすがにゴミだらけのごみ箱から取り出した上履きを履くのなんてごめんだもの」
冷静に上履きを取り出した私は上履きに付いている埃を軽く払って、スリッパから上履きに履き替え、そのままの足で教室へと向かった。
私が教室に入ると、みんなが一瞬こっちを向いて、こそこそとなにか話し始める。どうせまた私の悪口だ。そうに決まっている。
「そんなんだからバカなのよ……」
誰にも聞こえないように小さく呟き、窓際の自分の席に座った。
「今日は大丈夫そうね。面倒が省けて助かったわ」
机の中身を確認してほっと一安心。毎日ではないけど、机の中にゴミが入れられていたり、虫の死骸が入っていたりすることがある。その度に机の中を掃除するのはやっぱり面倒だ。それがないだけでも私は気分が少し楽になる。
虫の死骸なんてみても、気分が悪くなるだけだもの。
「こんなものかしらね」
朝の確認事項をすべて終えた私は、今読んでいる文庫本を取り出し自分の世界に入り込む。本だけは私を裏切らない。本の中にこの世の楽しさも嬉しさも、苦しさも悲しさも、それ以外のありとあらゆるものも全部詰まっている。
友達は誰か? と、問われれば間違いなく本と答えるわね。
今私が読んでいるのは、なんてことのない学生の生活を描いた友情もの。友達と喧嘩したり、困ったことは助け合ったり、笑って泣いての普通の話だ。でも、そこには魅力的な人たちがいて、心惹かれる人間関係がある。
「この世界も、この本と同じならいいのに」
そんな少しファンタジーなことを口にしながら、私は朝の時間が過ぎるのを待った。
「ちょっと付き合いなさいよ、間宮」
お昼休み。私が昼食を取り終わり、文庫本を取り出して本の世界に入り浸ろうとすると、クラスメイトの女子三人組に話しかけられた。喋り方は好戦的で、少なくとも楽しい話ではないことをすぐに理解する。
「なんのよう? 見ての通り忙しいのだけど」
これ見よがしに取り出したばかりの文庫本を見せつけて、私の方は話すこともなければ、話す意思もないということを暗に告げる。でも、そんなことがわかるほど彼女らの頭はできていないようで、「はあ!?」と、切れ気味に言ってきた。
面倒なことになりそうだ。
「はあ~」
これはどうしようもないと文庫本を閉じながら嘆息を漏らすと、目の前の女子三人組は腹立たしそうに舌打ちを鳴らす。それはこっちも同じなのにね。
「何の用なの?」
仕方なく私の方から話を振ってあげると、「あんたってホントムカつく」と、言いながら、指で廊下の方を指し、「ちょっとついてきてよ」と言う。
これまた仕方なく嘆息を漏らしながら立ち上がる私。そのまま三人組の散歩後ろを歩く私。そんな私を見たこの学校の生徒たちは誰も私たちに声をかけてくることもなければ、可哀そうなものを見る視線すらも送ってくることもなかった。
要するに、この学校の全員が私の敵なのだ。
この学校に私の味方なんて誰もいないのだ。ここはそういう場所なのだ。
「呆れちゃうわね……」
今日も私は、この世界の汚いところを見せつけられていた。
「間宮、あんたさぁ、最近ちょっと調子に乗ってるんじゃないの?」
あのまま屋上まで連れてこられた私は、ずんずんと三人組に囲まれるように壁際まで追いやられ、逃げ道を完全にふさがれた。逃げるつもりなんてないから別に構いはしないのだけど。
「悪いけど言ってる意味がわからないわ。私はただ普通に学校生活を送っているだけよ。あなたたちのように人の悪口も言ってなければ、こんなこともしてないわ」
本を読む時間を奪われて若干腹が立っていた私は、彼女らの好戦的な姿勢に倣って好戦的な姿勢を取った。そんな私の態度が気に食わないのか、三人組のリーダーらしき真ん中の女子が代表して口を開く。
「なに? それ私たちのことを言ってるわけ?」
「別に誰とは言ってないわよ。でもそうね、あなたがそう思うってことは、自分でも思うところがあるのかしら?」
「こいつっ……! ホントムカつく! 話してるだけで耳が腐りそう」
「あら、それは大変。今すぐ学校を早退した方がいいわよ。保健室の先生呼んできましょうか?」
「あんたっ……!!」
痺れを切らしたのか目の前のリーダーらしき女子が私の横の壁を壊すようにグーを放った。体の動きからそういったことになるのがわかりきっていた私は瞬き一つもしないまま、目を逸らすこともないまま、彼女に目を向けたままでいる。
それすらも彼女らの勘に触ったのか、三人は一斉に舌打ちを鳴らす。
舌打ちが好きなのかしら?
「手、大丈夫?」
相手を逆なでする行為だとわかった上で私はその言葉を選択して言う。
「ねえ、もうこいつやっちゃおうよ。少し痛い目を見ないとわかんないんだって」
「そうだよ。少し綺麗な顔してるからって調子に乗ってるし、ここまで馬鹿にされて黙ってるのなんて私無理だよ」
長いものに巻かれてしか生きていけないらしい取り巻き二人が、リーダーらしき女子にそう言った。でも、リーダーの女子は意外なことに首を横に振る。
「気持ちはわかるけど、それはなし。こんなことで問題になって、停学にでもなったら私たちもつまらないじゃん」
意外なことに目の前の女子は少し頭が回るようで、このまま暴力を振られるようなことがあれば、ポケットの中で密かに録音モードにしようとしていたスマホで話の内容を録音し、適当に正当防衛で三人をどうにかした後に職員室に向かうつもりだった私は、正直少し驚いた。
「少しは頭が回るのね。驚いたわ」
こんなことを言ってしまうくらいには、私は彼女のことを称賛していた。
「うっせー。二人とも、もう行くよ。こんな奴と話してる方が時間の無駄だし」
そんな捨て台詞を残して三人は何か言い足りなさそうにしながらも屋上から去っていく。私はそんな三人の背中を見送ってから、空を見上げてため息を零す。
「いい天気ね」
地上ではこんなことが行われているのに、遥か上にある空は青く、楽しそうで気持ちのよさそうな天気をしていた。
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その日から目に見えて私に対する嫌がらせは加速した。上履きは毎日のように隠され、机の中には絶対に何かしらのものが入っていて、陰口だった悪口は私にだけ聞こえるような声量にまでなっていた。
今あげたように今までの嫌がらせがひどくなった他にも、あることないこと噂されたり、知らない上級生に呼び出されたりもするようになった。
私はまた生きづらくなったのだ。
「面倒なことになったわね~」
こんな状況になったのに、私はそれほど気にしてはいなかった。確かに面倒なことは増えた。上履きは毎日持って帰らないといけなくなったし、机の中は常に空っぽにしないといけなくなった。毎日のように自分の悪口を耳にするし、この前のような呼び出しも増えてきた。
でも、逆に言えばそれだけで、私本人に対する被害は特にないのが今の現状だ。それが私が今の現状を気にしていないことにも起因している。
一番迷惑なのは本を読む時間が奪われていること。今までは最低でも一週間に二冊は読んでいた文庫本が今では一冊になってしまっている。これだけが私を苦しめているくらいだ。
「これ以上ひどくなったら手を打たないとダメかもしれないわねー」
窓際の自分の席で、急に自習になったことをいいことに、課題として出されていたプリントをあっさり終わらせた私は、呑気に青い空を見上げながらそんなことを考えていた。
といっても、一介の学生、いじめられている私側にできることは限られている。証拠を自分で掴んで先生に見せる。こちらも先生にばれない程度に対抗する。今までの様にされるがままの現状維持、それくらいしか端から選択肢はない。その中でこの現状を打開する方法となれば実質選択肢は二つだ。証拠をつかむか、対抗するか。でも、どちらを選ぶのかなんて迷うことはない。対抗なんてすれば、私もあいつらと同じ土俵の上に立つことになってしまう。同じことをしてることになってしまう。そんなのはお断り。なら、もしもの時に私が取れる方法は実質一つ。
「証拠をつかんで先生に渡す……。面倒なことに変わりはないのよね。これ以上事態が悪化しないことを祈るわ」
自分のことなのに、どこか他人事のように考えている私は、どこかおかしいのだろうか?
自習の時間が終わり、次の時間は現代文。
意図的に私の分だけプリントを回収してもらえなかったので、私は現代文の準備をする前に教室を出て職員室に向かう。担当の先生に、「あら、そうだったの。ついてないわね」なんて、お門違いな言葉をもらいながらも、私は特に何を言うでもなく「そうですね」なんて、心にもない返事をして職員室を出た。
誰に話しかけられるでもなく廊下を歩き、教室に戻ってくる、次の時間まではあと五分ほどだ。これでは文庫本を開くには少し時間が足りそうにない。若干悲しくなりながら私はカバンの中から現代文の教科書とノートを取り出すことにする。
「……あら?」
カバンの中身を確認すると、現代文のノートは出てきた。でも、教科書が見当たらない。
「昨日予習した後に入れ忘れたのかしら? それとも―――」
教室中を見渡す。家に教科書を忘れた以外のもう一つの可能性。私がプリントを出しに行ってる間に、誰かが私のカバンから教科書を盗んだ。
可能性としてはなくもない。意図的に私のプリントだけを回収しなければ私は授業終わりに自分で職員室に向かわなければならない。その間、私のカバンは無防備だ。教室には三十人近い人間がいるけど、この中に私の味方いない。私のカバンをいじっている人を見ても、みんな見て見ぬふりをするだろう。
「弱ったわね……。家にあればいいんだけど……」
ただ単に私が家に忘れたなら問題はないけど、盗まれて隠されたとなれば話は別ね。これから半年は使う予定の教科書をなくすのは私でも少し痛い。主に親に教科書をなくしたと報告することと、いじめられてるんじゃと心配されること、それと今回と同じようなことが繰り返されることが不安材料なのよね。
「まあ、それは今気にしてもしょうがないわね。問題は目先の問題……。教科書、どうしようかしら?」
私には友達と呼べる人がいない。隣の人に見せてもらうにも隣の人はそれを嫌うだろう。そんなことをしたら、クラスメイトを敵に回すことになるんだから当然と言えば当然よね。
「はあ…… 仕方ないわね。今日は先生から教科書を借りるか、借りられないなら適当に具合悪い振りして保健室にでも行きましょ」
最初から隣の人に借りるという選択肢は消して私はものを考えた。
起きてしまったことはしょうがないし、自分で言うのもなんだけれど、私はこの学校一の優等生だ。一度や二度教科書を忘れたくらいで評価が下がることはない。勉強だって私は家で勝手に先を進めてるし問題ない。面倒なのは、あとで今日の分のノートをどうやって取るか考えるくらい。それも先生に教科書を借りられれば考える必要すらない。
どう転んでも私が困ることはない。
「とりあえずノートだけは出しときましょうか」
ノートすら出していないと最初から授業を受ける気がないと疑われてしまうので、ノートだけは机の上に出しておく。それに教科書が借りられれば授業を受けるのだから出しておいて損はない。
そう思って、授業まであと一分くらいになった教室で、ノートだけを机の上に置いておくと一人の男子生徒と目が合った。
私はクラスメイトの名前を覚える気がないから誰だかわからないけど、平均的な長さの黒髪に、普通としか言いようのない顔。体格も平均的で、人間の平均値をすべて詰め込んだような男子生徒だった。
私と運悪く目が合ってしまった男子生徒はすぐに私から視線を逸らした。いつものことなので気にもならない。
教室を見るくらいなら外でも見ていた方がマシに思えた私は、窓から青い空を見上げる。今日もうっとうしいくらいに青く澄み切った青空だった。
トン。
そんな風に私が本以外の現実逃避をしていると、ふいに私の机の上に何かが置かれた。―――現代文の教科書だ。
「……」
それを置いて行ったのは今さっき目が合った男子生徒だった。
私に何を言うでもなく、自分の現代文の教科書をまるで当然の様に私の机の上に置いた男子生徒は、何事もなかったように元のグループに戻っていく。
おかしいと思った私は、もしかしたら現代文の教科書をどこかに落としていて、あの男子生徒が拾ってしまい、誰にもばれないように返すタイミングを伺っていたのかと思い、教科書に書かれている名前を見る。
そこには私の名前は書かれていなかった。そこには男の名前が書かれていた。
私に現代文の教科書を貸してくれた? らしい、男子の名前が、そこには書かれていたのだ。
佐渡誠也。
教科書の裏側、その右下の方にある名前の欄に掛かれている名前。私はおかしなことが起こったとばかりにその男子生徒に目を向ける。また目が合った。でも、彼は何を言うでもなく、私から顔を背けて仲間の方へその顔を向けた。
意味がわからない。彼の考えが理解できない。どうしてこういう行動をしたのか、何を思ってこんなことをしたのか、まるで私にはわからなかった。
そしてこれが、私と佐渡誠也との初めての接触だった。