エピローグ
「……」
彩ちゃん麻耶ちゃんの一件が解決してから三日が経った。しかしそれは、僕の周りの環境が変化してから三日が経ったということでもある。
あの日―――奏ちゃんに土下座をしてお金を借りたあの日、あの瞬間から僕と翔君たちとの間には見えない壁が存在していた。
あの後、どうにか唯一僕の前から去らないで居てくれた彼方ちゃんに身も心も支えられ、僕は帰宅した。帰るときに色々と彼方ちゃんが言ってくれていた気がするけど、その内容もまともに思い出せない。なんなら、この三日間のことがまともに思い出せなかった。
記憶にあるのはどうにか気持ちを落ち着けて大学に行ったのに翔君も、間宮さんも、広志も僕とまともに会話をしてくれなかったことと、お金を借りたときのことを謝ろうと天王寺家に電話をして、安藤さんに奏ちゃんも桜ちゃんも僕と話すつもりはないと言われたことくらいだ。
それ以外のことは、まるで何も覚えていない。
昨日何を食べたのか、大学でどんな勉強をしたのか、昨日の天気は、大学には言っていたのか、そんなわかっていて当たり前のことが何一つとして覚えてなかった。
「佐渡さん。……大丈夫ですか?」
「え……? あぁ、うん……」
彼方ちゃんに声を掛けられて、僕は初めて隣に彼方ちゃんがいたことと、自分がいま大学に向かっていることに気が付いた。
「佐渡さん……。気持ちはわかりますけど、元気を出してください。無理ならせめて大学を休んでください。さっきから赤信号でも渡ろうとするし、電柱に頭をぶつけそうになってるし、とにかく危ないです」
「そうだった?」
「そうですよ! 私がいなかったら佐渡さん死んでてもおかしくないですよ!!」
言われて初めて自分がそんな危ない心理状況だったことを知った。自分では最近の記憶が曖昧なだけで普通にしているつもりだったのだ。
「お願いです佐渡さん。……今日は大学を休みましょう。私も学校休んで一緒にいますから……。ずっと一緒にいますから……」
僕はまた、女の子を泣かせてしまった。彼方ちゃんの顔に、あの日僕の目の前で怒りながら泣いた女の子の姿が重なる。その光景に僕は全身から少し力が抜けるのを感じた。
「わかったよ、彼方ちゃん。今日は大学を休むことにするよ。なんだか体もだるいしね……」
いつもの僕だったら「大丈夫大丈夫。ちょっとボーっとしてただけだよ」なんて空元気でも振る舞っていただろう。でも、今の僕にはそんな余裕はなかったし、あの時の光景が重なって、少しでも彼方ちゃんを傷つけないで済む選択肢を選ぶほかなかった。
「そうですか……。じゃあ、引き返しましょうか」
未だに目元に涙が残っている彼方ちゃんにどうにか作り物の笑顔を向けつつ、僕は頷いた。いつもは楽しいはずのこの時間が、なぜだかとても悲しい時間に思えて、空も晴れているのにどこか曇っているように感じる。
気持ち一つでこうも世界の見え方が変わることを、今日僕は初めて知った。
「お邪魔してもいいですか?」
「もちろん。それに僕一人じゃ、何をするかわからないみたいだしね」
僕の家の前まで来て、彼方ちゃんがおずおずと聞いてきたので、僕はできる限り平静を装って答えた。その受け答えがいつもの僕みたいだったのか、彼方ちゃんが少し笑顔になる。
「ただいまー」
「おじゃまします」
彼方ちゃんと二人、僕の家の玄関をくぐる。そのまま二人で居間まで行って、二人でカバンを部屋の隅に置き、二人でテーブルを挟んで対面になるように座った。
そのままお互いが何を話すこともなく時間が過ぎ、久しぶりの穏やかな静寂が時間を支配した。
「佐渡さん……少し、お話してもいいですか?」
一分か、それとも十分か、はたまた一時間以上経っているのかわからなくなってきた頃、目の前に座っている彼方ちゃんが俯いたまま口を開いた。久しぶりに平静を保っていた僕は彼方ちゃんの話を聞くことにする。
いや、少し違う。彼方ちゃんの優しくて暖かい声を僕が聞きたかっただけだ。それだけだ。
「佐渡さんは、なんであの時、奏ちゃんが怒ったのかわかりますか?」
それは聞かれて当然の質問だった。
むしろ今まで聞かれていないのがおかしいくらいの話だった。
もしかしたら彼方ちゃんは何度もその質問を僕にしていたのかもしれない。でも、僕は平静じゃなかったから、その質問に答えてなかっただけなのかもしれない。
時間はたくさんあった。そう思えるほどには僕はこの三日間に孤独を感じていた。今まで自分がいかに恵まれた環境にいたのかを知った。自分が誰かがいてくれないとダメな人間だということを痛いほどこの身で味わった。
でも、僕にはわからないことが一つだけあった。それが今の彼方ちゃんの質問だ。
「ごめん……恥ずかしながらそれがわからないんだ。僕なりに考えてもいたんだけど、何もわからない。どうしてみんなが僕から離れて行って、なにがみんなを怒らせたのか、僕にはわからなかったんだ」
たくさん考えた。いろいろ思考した。ない頭をねじ切れるくらいにひねって、少しでも自分のしたことの何が悪かったのか考えた。
―――でも、ダメだった。
やっぱり僕は、一人じゃ何もできなかったんだ。
「私は……わかります。なんでみなさんが佐渡さんに背を向けてしまったのか。何を怒っているのか、わかります。私だってそうですから」
彼方ちゃんは絞り出すような声でそう言う。
僕と彼方ちゃんは似ている。他の人からそう言われることもあったし、自分でもそう思うこともあった。でも、僕と彼方ちゃんでは決定的に違う点がある。僕が劣っている点がある。
それは、人の心に敏感なところだ。
それだけが僕と彼方ちゃんを決定的に別の人間だというように違っている。だから僕にはわからないことを、彼方ちゃんはわかるのだ。
「あの時、奏ちゃん言ってましたよね? どうしてあんたはそんなに優しいのよ。どうしてそんなに他人のことばかり考えて自分のことを考えられないのよ。どうして、どうしてって」
「うん……言ってたね」
「私には、あの言葉には続きがあると思うんです」
「続き……?」
確かにあの時の奏ちゃんの言葉は今になって思えば続きがありそうな感じだった。でも、それを言うのがダメな気がしてやめたような、そんな言葉だった。
「私にはあの時奏ちゃんが何を言おうとしたのか、正確にはわかりません。でも、きっとこういうことを言いたかったんだと思います」
彼方ちゃんが俯いていた顔を上げる。そこには決意見満ちた優しい顔があった。
「どうして―――どうしてもっと自分に優しくなれないんですか? どうして自分を慕ってくれている人の気持ちを考えられないんですか?」
「そんなこと……」
反論しようとして、そこで言葉が詰まった。そのあとに続く言葉が見つからなかったんだ。
「佐渡さんはあの時、きっとあの時の言葉通り彩ちゃんたちのことを思ってああいう選択をしたんだと思います。それが最善の選択で、みんなが笑顔で終われる方法だと思ったんだと思います」
「うん。僕はあの時の行動は今でも間違ってないと思ってる。……結果的には間違っちゃったみたいだけど」
そこがわからないから、僕はみんなが怒っている理由がわからないのだろう。
「私から言わせてもらえば、佐渡さんはいつも自分に優しくありません」
「どういうところがそうなのかな?」
「今みたいなところがです」
彼方ちゃんの言葉に僕は首を傾げた。
「佐渡さんは今、自分が苦しい思いをしてるのに、九重さんや間宮さん、奏ちゃんや桜ちゃんが怒っているのをどうにかしたいって考えてますよね?」
「うん。僕が怒らせちゃったなら謝らなきゃいけない。そんな不快な感情をみんなに抱いてほしくないって思ってるよ」
「それが、私が佐渡さんが自分に優しくないって言っている理由です」
確かにそうなのも知れない。僕はいつも自分よりも他人を優先してきた。みんなの笑顔が見たいから、自分のしたいことを押しとどめたこともあったかもしれない。でも、その行為に僕は後悔なんてない。だから今までそのことを気にしたことがなかった。
「佐渡さん。佐渡さんがいつもみんなに笑っていてほしいと思ってるのと同じで、私たちも佐渡さんにいつも笑顔でいてほしいんですよ? 佐渡さんに幸せになってほしいと思ってるんですよ?」
彼方ちゃんの言葉が刃の様に胸に突き刺さる。
今まで考えたこともなかったことを突き付けられ、思考が追い付かない。
「佐渡さん―――私は、私は……」
彼方ちゃんは対面の席から僕の方にすり寄るように来て、僕に抱きつき―――
「私は佐渡さんにあんな借金を抱えてほしくなかったです」
そう、涙声で言った。
「確かにあれくらいしか方法はなかったかもしれません。あったとしてもそれは時間がかかることだったかもしれません。でも、それでも―――」
静寂に包まれた空間の中、彼方ちゃんの綺麗な声だけが僕の耳に届く。
「あんなことだけはしてほしくなかったです」
胸が痛い。今までにないほど胸が痛い。今までだって胸が痛くなることはあった。そういう思いをたくさんしてきた。でも、その中でも一番、彼方ちゃんにかなれることが、僕には辛かった。
気が付けば僕は、彼方ちゃんを抱きしめていた。彼女の存在を確かめるように、彼女の体温を感じるように。
暖かい。彼方ちゃんは暖かかった。
「ごめん……。ごめんね」
もっと言わなきゃいけないことはあった。言ってあげたい言葉があった。
でも、その中でも一番言わなくちゃいけないと思う言葉は謝罪の言葉だった。
「……前にも言いましたよね? もう絶対、一人で全部背負おうなんてしないでくださいって」
「うん。言ってくれたね。僕はそれを破っちゃったけど……」
「次破ったら私は佐渡さんのことを嫌いになります。だから―――」
彼方ちゃんはさらに僕に強く抱き着き、耳元で言う。
「私が佐渡さんを嫌いにならないようにしてくださいね」
と。
「わかった……。約束する。もう絶対に、約束は破らない」
言葉だけなら簡単だ。言うだけなら誰にだってできるだから僕は、それを行動で証明していかなくちゃいけない。もう約束を破らないとみんなに信じてもらわなくちゃいけない。
「もう一度、ゼロから始めよう」
今まで築いてきた絆をリセットするような勢いで、それを取り戻す勢いで、もう一度始める。
「ゼロからじゃありませんよ。私がいます」
「そうだったね。それじゃあ、二人でゼロから始めようっか。僕だけじゃなくて、彼方ちゃんだけでもない。僕ら二人で、ゼロから始めるんだ」
僕は何度もいろんな人に言ってもらっていた。佐渡は一人じゃない、いつでも頼ってくれていいんだって、それを僕の勝手な都合で頼らなかった。わかったつもりになって、何も考えてなかった。
「早速だけど彼方ちゃん。僕がみんなと仲直りするのに協力してほしいんだ」
もう、迷わない。
誰かに頼ることも、誰かにお願いすることも、もう―――迷わない。
「しょうがないですね。でも、任せてください。私だって、佐渡さんやみなさんが仲直りできないのは嫌ですから」
僕のせいでこんなに遅れちゃったけど、僕と彼方ちゃんはここまで来てようやく心から繋がることができた。
今回の話で無事「ホームレス少女」5章終了です。
大変長い時間がかかってしまいすいませんでした。
ご意見・ご感想よろしくお願いします。