42話
「すいませんけど、今度はこのままお話させてもらいます。また逃げられると僕たちも困りますので」
まだどうにか逃げようとしているお母さんを逃げられないように適度な間隔を空けながら囲む。その姿はまるで恐喝をしている感じに見えるかもしれないけど、運がいいのかこの辺りはあまり人通りの多い場所ではなく、ぽつりぽつりと人が歩いているくらいだった。
これなら怪しまれて警察を呼ばれてしまうこともない。
「なんで……なんで……」
うわ言の様にそう呟くお母さん。
まずは落ち着いてもらいたいところだけど、どうやっても落ち着いてもらうことなんてできそうにもなかった。
「なんで逃げようとしたんですか?」
正直答えてもらえるかどうかは半信半疑だった。どうみても錯乱しているし、そうじゃなかったとしても僕らから逃げだそうとしたということは何かした後ろめたいことがあるからだ。
「答えてください。どうしてこの子たちから逃げるような真似をしたんですか?」
本当のところ、僕は少し怒っていた。
どんな事情があるにしろ、この二人には事情を聞く権利があるはずだ。もっと言うならまだまだお母さんと一緒に暮らすべきだ。
なのになぜ。
さっき話していたときに僕が感じたのは間違いだったのだろうか。
「……」
僕たちに囲まれる中、驚くばかりだったお母さんは大きな嘆息を零すとおずおずと口を開いた。
「……。申し訳ないですけど、私はその子たちともう暮らす気はありません。よかったらこれからも二人のことをお願いします。無理なんでしたら孤児院にでも預けてください」
「な、なんでっ!!」
「落ち着きなさい!」
僕がお母さんに詰め寄ろうと間宮さんが手で制した。
「どういうことか説明くらいはしてもらえるわよね? 説明もなしじゃこの場にいる誰も納得しないわよ。仮にあなたがここから逃げたとしても私たちは意地でもあなたを追いかけ続けるわよ」
間宮さんの半ば脅迫じみた言葉に二人のお母さんは唇を噛んだ。それに間宮さんも相当苛立っているみたいだ。いつもならどんな時でも年上相手にへ敬語を忘れない間宮さんが敬語を忘れている。
よく見れば翔君も広志君もいつもより顔が険しかった。
いつも通りなのはお母さんの態度に悲しそうな顔をしている二人を心配そうに見ている彼方ちゃんと、当の二人だけだった。
「なぁ、あんた。あんただって母親だろう。なんでそうも簡単に子供を捨てれるんだよ。ニュースとかでも自分の子供を虐待とかしてる親がいるって聞くけどよ。俺にはさっぱり意味わかんねえよ」
「九重殿の言う通りでござる。こんな幼気な子供を見捨てる親の気持ちなんてわからないでござるよ」
追い打ちをかけるように翔君と広志君が言葉をつなげる。途中から下を向いてしまったお母さんは、何も言わずにただただ俯いていた。
でも、なんでだろう。どうしてだろう。
―――僕にはこの人がやっぱり悪い人には思えなかった。
さっきは怒りが率先してしまったけど、落ち着いてみると、なぜだかそう思えた。
「なぁ、黙ってないで何とか言ったらどうなんだよ」
翔君がさっきの僕の様に少しお母さんに詰め寄る。
今度は僕が止める番だと、同じように思ったらしい彼方ちゃんと同時に一歩を踏み出した。でも、その一歩は完全に踏み出される前に止まってしまった。
その理由はお母さんがいきなり顔を上げて怒り始めたからだ。
「あなたたちになにがわかるって言うのよ!! 私の気持ちをわからないくせに勝手なこと言わないで!!」
「だからその理由を聞こうとしてるんじゃないでござるか」
「理由を聞いてどうするの? あなたたちが何とかしてくれるの? 人の家庭事情に勝手に入ってくるのが正しいことなの? ねぇ、どうなのよ!」
なにがお母さんの逆鱗に触れたの僕らにはわからない。ただ、今の言葉ではっきりとした。
この人は二人と一緒に暮らしたいわけじゃない。
「佐藤さん」
「なによ!」
「確かに僕たちのやり方は少し強引でした。そのことについてはいくらでも謝ります。でも、僕たちは二人を放っておけませんでした」
言いながら僕は僕の足にしがみついて、今にも泣きそうな顔をしている二人の肩に手を置く。その様子を見て、お母さんははっとしたように表情を和らげた。
「佐藤さんの言う通り僕たちは一介の大学生で、なんでもできるわけじゃありません。社会人のあなたにしかわからない苦しみだってあると思います。でも、聞くことはできると思うんです。全部は無理でも、少しくらいはその荷物を持ってあげられると思うんです。だから、この子たちのためにも僕らに協力させてください」
まぎれもない本心だ。僕らはどこにでもいる普通の大学生で、特別に何かに優れているわけでもなくて、むしろ無理なことの方が多い。お母さんは社会人でもない僕らにはわからない苦労をしているのかもしれない。
でも、それでも、僕はこの人たちに幸せになってほしかった。
「おかあさん……」
「……」
二人の小さな女の子の視線が母親に向けられる。
さっきまで僕らの心にくすぶっていた怒りという感情はとうになくなっていた。
「……わかりました。でも、ひとつ条件があります」
二人の様子を見てあきらめたように嘆息を零したお母さんは、話辛そうに何度か口を噤みながらもそう口にした。
「条件って何ですか」
「私の話を聞いて、あなたたちが納得してくれたら、その子たちを―――彩と麻耶を引き取ってほしいの……」
「そんな……っ!」
お母さんのあまりにも残酷な言葉に今まで静観を貫いていた彼方ちゃんは大声を上げる。そんな彼方ちゃんの方に僕は手を置いて、任せてとばかりに一歩前に出た。
「……わかりました。でも、簡単に納得する気はありませんよ。僕、結構頭が固い方なんです」
こんなことを言ったけど、僕が意地でもお母さんの話に納得する気なんてない。そんな僕の考えは僕をよく知っているこの場のメンバーにはお見通しなのか、みんなは何も言わずに少しの間僕を見て、任せたとばかりに頷いた。
「それじゃあ単刀直入に言うわ。……私には借金があるの。それも十や百何かじゃない。一千万以上の借金が……」
その言葉を聞いてお金の価値を知らない麻耶ちゃん以外の全員が一斉に驚きを露わにした。彩ちゃんもこのことは知らなかったようだ。
「彩から聞いてるかもしれないけど、私の今の旦那はね、この子たちの本当の父親じゃないのよ」
「それは……聞いてます」
さっきの発言が尾を引いて、僕は言葉を返すのに少し詰まった。
「その人がひどい人でね……。こっちも言いてるかもしれないけど、虐待ををされてるのよ」
「なんだよそれ……なんでそんなことできんだよ」
「いくら自分の子供じゃないにしたっておかしいでござる」
この話を知らなかった翔君と広志君が怒りと悲しみの混じった表情をした。
「でも、なんでそんな人と結婚したんですか?」
彼方ちゃんの言葉にお母さんは重々しく口を開く。
「私はね、前の旦那と別れてからこの子たちには父親が必要だと思ったのよ。だから私は深くは考えずに私たちに優しくしてくれたあの人と結婚をした。……でも、それはあの人の策略だったのよ」
「策略……?」
「あの人はね、自分のため込んだストレスを発散させる相手が欲しかったの。そこにちょうどよく私が転がり込んできたってわけ」
聞いててとても気持ちの良い話じゃない。最悪な想像はいくらでもしていた。
借金に関ししてもしていたし、虐待の話もしていた。でも、その両方だとは思ってなかった。僕は甘かった。最悪の状況を考えていたつもりが、全然最悪の状況を考えれてなかった。
自分の詰めの甘さをこれほど憎んだことはないかもしれない。
「それからの生活はさんざんのものだったわ。毎日毎日お酒を飲んでは暴れて、暴言を吐いては酒瓶を投げつけて、私たちに暴力をふるう。そんな生活が嫌になって私たちはあの日、家を出たの」
あの日とは、きっと僕と彼方ちゃんが彩ちゃんと麻耶ちゃんと出会った日のことだろう。あの日、僕らが二人と出会う前にそんなことがあったなんて思いもしなかった。それは、彩ちゃんがあんな態度を僕らに取ったのだって頷ける。
「でもね、彩はともかく麻耶を連れてあの人から逃げるのには限界があったのよ。だから私は彩に麻耶を任せてあの人の足止めをした。その時だったわ……あの人に一千万以上の借金があって、その連帯保証人が勝手に私の名前にされていることを」
ひどい。ひどすぎる。そんなひどい人間がこの世にいるのか?
そんな言葉が浮かんでしまうほどには、聞いていて胸が痛くなるような話だ。
僕は今回の一件が彼方ちゃんの時と似ていると思っていた。でも、そんなことはなかった。彩ちゃんと麻耶ちゃん。そしてそのお母さんが抱えている今回の一件は彼方ちゃんの時よりも酷く、残酷な物語だった。
「さあ、ここまで話を聞いてあなたたちにどうにかできる? 父親の方はどうにかできもお金の方はどうしようもないわよね? 一介の学生どころか、普通の社会人だって簡単には返せない金額だもの」
まるで僕らを試すような言葉を投げかけてくるお母さん。
みんながみんなあまりにも重すぎる話に口を噤んだ。でも、それも仕方ない。だって今お母さんが言った通り、お父さんの方の件は警察にでも頼ればなんとかなる。でも、借金の方はどうしようもない。普通の僕らにはどうしようもない。
「わかってもらえるわよね? 私だって、本当ならこの子たちと暮らしたいわよ。でも、そんな借金を抱えた状態でこの子たちを幸せにすることなんて私にはできない。せめて、彩と麻耶には幸せになってほしいのよ。こんな親とも呼べない親の、最後の願いくらい、叶えてもらえないかしら?」
二人のお母さんは優しい顔で僕らにそう言った。みんなは反論もできずに黙りこくっている。
「彩と麻耶もわかってね……。こんなダメなお母さんでごめんね。でも、お母さんはあなたたちに幸せになってほしいの。離れててもちゃんとお母さんは二人のこと思ってるから。いつも考えてるから」
そう語るお母さんの瞳と、それを言われた二人の瞳には涙が浮かんでいた。
見るからにバッドエンド。誰も救われず、誰も幸せになれず、何もできないままに終わる最低最悪の終わり。
―――そんなものは見たくない!!
「父親の件と借金さえどうにかなればいいんですよね……?」
気が付けば、僕はそう口にしていた。
「え、えぇ……。でも、あなたにそんなことはできないでしょう?」
僕の言葉が意外だったのだろう。お母さんは驚きと困惑の混じった表情で僕を見た。ほかのみんなも同じだ。でも、彼方ちゃんだけは、僕と似たような感性を持った彼方ちゃんには僕の考えがわかってしまったようだ。
「佐渡さん……」
心配そうに僕を見つめる彼方ちゃんに僕は笑いかける。大丈夫だと、平気だよと。安心していいんだよと。そういった意味を込めて精いっぱい笑う。
「僕がその借金を全額返済します。今、ここで」
「え……?」
不思議なものを見るようなお母さんの目が、僕に向けられた。
僕はその瞳から目を逸らさずにもう一度言う。
「僕がその借金を全額返済します。今、ここでです。少しだけ待っていてもらえますか?」
僕はそう言って、携帯を取り出した。電話を掛けるためだ。相手はもちろん―――。
「奏ちゃん。近くにいてくれてるんだよね? 大切な話があるからこっちに来てほしいんだ」
天王寺家のお嬢さま、奏ちゃんだ。