40話
あれからなんてことのない日常が続き、気が付けば彩ちゃんたちのお母さんと会う日の朝になっていた。いつもと変わらずに窓から差し込んできた光で眼を覚まし、少し遅れて起きてきた二人に朝の挨拶をして返されて、みんなで朝食を食べて、そんな当たり前の日常がそこにはあって、それがもう少しで終わってしまうことが少し寂しくて、でも喜ばしくもあって、そんな複雑な感情を胸に抱きながら、僕は午後の待ち合わせまでの時間を少しでも良い思い出にしようと精一杯楽しもうとした。
「ねぇねぇ、せーちゃん。まだおかあさんのところにいかないの? きょうだよね? おかあさんにあえるの」
「うん、そうだよ。会えるのはもう少し後だけどね。えっとね……時計の短い針が1のところに来て、長い針が12のところに来たら会えるよ」
「んー……よくわかんない」
さすがに幼稚園児に時計の読み方は少し難しかったのか、僕の説明に麻耶ちゃんは可愛らしく首を傾げる。
「じゃあね、プニキュアを六回見たらお母さんに会える時間だよ」
時間を時計で説明するよりも麻耶ちゃんの大好きなプニキュアというアニメの時間で説明した方がいいと思った僕は説明の方法を切り替える。
その作戦は上手くいったようで麻耶ちゃんは可愛らしい顔に笑顔という花を咲かせた。
ちなみにプニキュアというのは日曜日の朝にやっている女の子向けアニメだ。麻耶ちゃんが見れそうなアニメを教えてほしいと広志君に頼んだら、いくつもの作品の名前を挙げてくれて、その中で麻耶ちゃんが一番気に入ったのが女の子が変身して悪と戦うプニキュアだった。
意外と面白くて僕も麻耶ちゃんと彩ちゃんと一緒になって見ている。
「じゃあプニキュア見るー!!」
「いいよ。ちょっと待っててね」
麻耶ちゃんのお願いをノータイムで了承した僕は録画しておいたプニキュアをテレビで流す。可愛らしいオープニングが流れ始めて、麻耶ちゃんはそれを見て楽しそうに一緒に歌いながらオリジナルの踊りを披露し始めた。
「プニッキュア! プニッキュア!」
「もう麻耶、近所の人に迷惑なのです。もう少し静かに見ましょうなのです」
プニキュアを見てテンションが上がってしまったらしい麻耶ちゃんをお姉ちゃんである彩ちゃんが窘める。といっても彩ちゃんもお母さんと会えるのが楽しみでしょうがないのだろう。怒っているはずのその顔にはどこか優しい笑顔が隠れていた。
「大丈夫だよ彩ちゃん。せっかく楽しそうなんだし、そのままにしておいてあげよう? もし何か言われても僕がちゃんと謝るから」
「ですが……」
「いいんだよ。せっかく楽しそうなのに可哀想じゃない」
本当は、一緒に生活できる最後のひと時を少しでも楽しいものにしたかったという僕のわがままでもあった。でも、それを口にしてしまうと彩ちゃんが困ってしまうことはわかりきっているので、僕はそれを黙っていることにした。
「せーちゃんもあーちゃんもいっしょにうたおー! プニッキュア!!」
楽しそうに笑っている麻耶ちゃん。
その笑顔がもっと良いものになることを祈らずにはいられない僕だった。
「それじゃあ一緒に歌っちゃおうかな! プニッキュアー!!」
そんな心配と緊張を紛らわせるように、僕は少し大げさ気味に一緒にプニキュアを一緒に歌い始めた。
少しでも楽しい時間を一緒に共有したくて。
それでも時間は過ぎていくもので、その中でも楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去って行く。三時間もあったはずの時間は二時間、一時間と残り時間を確実に減らしていき、今ではもう家を出ないと間に合わない時間になってしまっていた。
「それじゃあもうそろそろ行こうか」
ちょうどよく終わったプニキュアを止めてテレビを消して立ち上がる。
「やったーっ!! おかあさんにあいにいくんだよね!!」
「そうだよー。これからはお母さんとまた一緒に暮らせるからねー」
麻耶ちゃんの眩しすぎる笑顔に、さっきまでの自分の考えがいかに自分勝手で、身勝手で、子供の言うわがままの様なものなんだと情けなくなった。
そんな様子を気取られないように僕は注意しながらさっそく出かける準備を始める。
といっても、朝のうちに準備は終えていて、確認作業くらいしかすることもない。その確認作業だって彩ちゃんにも手伝ってもらって入念に確認済みだ。
「お兄さん。一緒に確認したので大丈夫だとは思いますけど、忘れ物は大丈夫ですよね? です」
玄関を出てカギをかけている途中に彩ちゃんが後ろからそんな声をかけてくる。
「大丈夫だと思うよ。元から必要なものなんてほとんどないし、財布とスマホがあれば最低限大丈夫だしね」
「そ、そうですか? もう一度よく確認した方がいいんじゃないですか? です」
カギを掛け終わり彩ちゃんの方を振り向くと、彩ちゃんは何やら複雑そうな顔をしていた。これからお母さんに会えて、また一緒に暮らせるようになるはずなのになんでこんな顔をしているのか僕はすぐにはわからなかった。
今この場にいるのは僕と彩ちゃんと麻耶ちゃんだけ、この状況で他の誰かに「彩ちゃんどうかしたのかな?」なんて聞くことはできない。だから僕は自分なりに考えてみた。
運よく一つの考えがすぐに浮かび、確信は持てないにしろ可能性としては十分にあった。
「ねぇ、彩ちゃん。大丈夫だよ」
「な、何がですか? 荷物のことですか? です」
投げかけた言葉にいつもの彩ちゃんの様なしゅんとした感じはなく、ぎこちない様子で答えた。
「彩ちゃんはお母さんと会うのが怖いんだよね? もう会えないと思ってたお母さんに会えるようになって、でも、また会えなくなるのが怖いんだよね?」
僕は前々から今の状況がどこかで聞いたような話のように思っていた。
理由がわからないけど女の子が帰る家をなくしていて、女の子は事情を話したくないみたいで、僕に迷惑をかけないように必死になって、いざ家族と会えるようになったかと思えば、どこか不安げにしている。
そんな話をどこかで見聞きしたことがあるような気がしていた。その答えは、向かいの家を見たことで気が付いた。
僕の向かいにある家、彼方ちゃんの家。
今のこの状況は初めて出会った時の彼方ちゃんと僕だったんだ。
「あんなこと言ってたけど、心の中ではやっぱりお母さんとまた一緒に暮らしたいって思ってたんだよね? それで、今ようやくそれが叶いそうになってる。でも、また拒絶されたら、断られたら、現実を見せられちゃったらもう頑張れなくなっちゃうから不安なんだよね」
彼方ちゃんはお母さんとお父さんが入院している病院に行くときにそれを拒否した。両親に会いたいと思っていたはずで、意識が戻ってほしかったはずで、なのに、いざ病院に行こうと僕が言うとそれを渋った。
あの時の彼方ちゃんは今両親に会いに行って、両親がすぐに死んでしまうかもしれない状況を目の当たりにしたくなかったら行くのを拒んでいた。
両親の現状を見たら嫌でも理解してしまうから。仮に死んでしまった時に自分自身の目で確認しない限り、もしかしたら、という可能性があるのに、確認しちゃったら認めざる負えないから、だから彼方ちゃんはあの時両親に会いに行くのこ怖がっていた。
今の彩ちゃんも同じだ。お母さんに会って、また一緒に暮らせないと言われるのが怖かった。一回言われただけでもこんなに苦しくて悲しくて寂しかったのに、二回目を言われたらと思うと怖くてしょうがなかった。今までどうにか麻耶ちゃんという妹の支えとなろうと、姉として頑張っていたという支えがあってももう立ち直れないと自分でわかってしまったのだろう。
だから僕は安心させてあげたくて優しい言葉と共に彩ちゃんを抱きしめる。
「大丈夫だよ。言ったでしょ? 絶対に二人を笑顔にして見せるって。絶対にまたお母さんと一緒に暮らせるようにしてあげるって。僕なんかじゃ頼りないかもしれないけどさ。たまには信じてよ」
今まで情けないところをたくさん見せちゃったと思う。小学生の女の子の目から見ても、かっこ悪いと思うところをたくさん知られちゃったと思う。でも、今回ばかりはかっこ悪いところも情けないところも見せられない。
頼れるようにしなくちゃいけないし、かっこよくならなきゃならない。
「安心して、僕に任せて」
なんの確信もない。絶対にどうにかできるなんて思いあがってもいない。
でも、絶対にどうにかしたいとは思ってる。だから僕は二人よりは大人として精いっぱい見栄を張った。
「……お兄さんは、何でもわかっちゃうんですね」
「なんでもはわからないよ。むしろわかんないことの方が多いよ。この前だって芽衣と彼方ちゃんと間宮さんになぞなぞみたいなこと言われて、その答えだせてないしね」
「でも、私のことはこんなにわかってくれています」
「前に似たことがあったんだ。今の彩ちゃんみたいに事情があって家に帰れなくて、それを隠そうとしてて、いざ家族と会おうとしたら怖くなっちゃった女の子を」
僕の言葉に彩ちゃんは一瞬疑問符を浮かべたけど、僕の視線の先を見てそれが誰だったのかを悟ったのだろう。僕の視線の先、彼方ちゃんの家を彩ちゃんも見た。
「そういうことでしたか……」
「うん。僕に遠慮ばかりするところとかすごくそっくりだったよ」
「そうだったんですね……。でも、私とお姉さんは違います。お姉さんはいい人だったんでしょうけど、私は悪い子ですから」
彩ちゃんのその言葉を聞いて、僕は実家に帰る頃に彼方ちゃんから聞いた話を思い出した。
「実は、さっき彩ちゃんと話してた時に、彩ちゃん言ったんです……麻耶は私と違って良い子だからって。なんか私気になっちゃって……。あんなに彩ちゃんは良い子なのに……」
という言葉を。
「なんで彩ちゃんは自分が悪い子だなんて思うの?」
「私は……ずるい子なのです」
「するい子?」
彩ちゃんの言葉を上手く理解できなかった僕は首を傾げた。そんな様子から僕の考えを理解したのか、彩ちゃんはそのまま言葉を紡いだ。
「まだ私たちが一緒に暮らしていたときに私はお母さんに甘えてる麻耶に嫉妬しました。まだ小さい麻耶ばっかりを甘えさせているお母さんにイライラしました。……それで、悪い子ぶってお母さんの気を引こうとしました」
まるで懺悔するように語りだす彩ちゃん。
「悪い子ぶってお母さんに構ってもらっても嬉しくありませんでした。それで気が付いたんです。私ばっかりがお母さんに甘えたって嬉しくないんだって。麻耶と一緒に甘えられなきゃ意味がないんだって。今こうやって麻耶のお姉ちゃんと頑張っているのも、その時のお詫びがしたかったからです。それに私はお兄さんたちに最初の頃たくさんひどいことを言ってしまいました。だから私は」
悪い子で、ずるい子なんです。
そう語る彩ちゃんを頭を抱くようにもう一度抱き寄せて、耳元で喋りかける。
「彩ちゃんはずるい子なんじゃないよ、ちゃんといい子だよ。ちゃんと反省できてるんだもん。本当に悪い子は自分が悪いことをしてるってわかってるのに反省もできない子なんじゃないかな? だから彩ちゃんは悪い子じゃないよ。僕が保証する」
今の話を聞いても僕はどうしても彩ちゃんは悪い子のようには思えない。僕の知ってる彩ちゃんはお姉ちゃんとして頑張っていて、妹を守るために一生懸命で、そのために自分を犠牲にしちゃうような優しい女の子だ。少し不器用なところもあるかもしれない。でも、心は優しい。それを僕は知っている。
「本当にお兄さんは……言ってほしい時に言ってほしい言葉を言ってくれますね」
耳元で少し震えた声が聞こえる。
気が付けば彩ちゃんの背中が小さく震えていた。
僕はより一層、彩ちゃんを強く抱きしめる。その小さな震えを止めるように、少しでも不安を取り除けるように、ぎゅっと、ぎゅっと抱きしめた。
「あーっ! あーちゃんとせーちゃんがだきあってるー! まーちゃんもー!!」
そんなことをしていたら、さっきまでずっと周りの風景を見て喜んでいた麻耶ちゃんが僕らが抱き合っているのを見て自分もと飛び込んでくる。
そんな麻耶ちゃんを拒むなんて選択肢は僕にあるはずもなく、態勢を少し崩しかけながらも麻耶ちゃんを受け止め二人まとめて抱きしめる。
「えへー」
「ふふっ。麻耶も甘えたがりですね」
「あーちゃんもね」
「そうかもですね」
微笑ましい姉妹のやり取りを特等席で鑑賞しながら、僕は少しの間二人の体温を忘れないように強く抱きしめ続けた。