32話
「おはようございます佐渡さん。麻耶ちゃんたちはまだお寝むですか?」
二人の姉妹がお互いの存在を確かめ合っているのを邪魔したくなくて下に降りてきた僕を出迎えてくれたのは母さんでも妹の芽衣でもなく、彼方ちゃんだった。
居間にたった一人でポツンと座っていた彼女に僕は軽い挨拶を返し、気になったことを聞く。
「そういえば芽衣は? ……もしかしてまだ寝てる?」
今ここにいるのは僕と彼方ちゃんの二人だけ。母さんの姿も芽衣の姿もない。台所から包丁のこ気味良い音も聞こえず、二人が起きている気配が全くない。
「はい、芽衣ちゃんはまだ寝てます」
僕の心配が的中した。
「はあ~。ごめんね彼方ちゃん。お客さんを一人にしちゃって……。居心地悪かったでしょ」
誰だって他人の家に初めて入るのは緊張する。それが仲の良い人の家でもだ。
それに彼方ちゃんも漏れることはない。ましてや友達の家なんかではなく、男の実家だ。いくら僕という知り合いがいるにしても異性だし、人の家というのはそれだけで居心地が悪いものである。
そんな中、お客さんである彼方ちゃんを一人にしてしまったことに僕は胸を締め付けられていた。
「いいんです。気にしないでください佐渡さん。昨日は遅くまで二人で話しちゃってたのでまだ眠くても仕方ないと思います」
「そうなんだね。でも、彼方ちゃんは起きてるんだから芽衣だって起きててもおかしくないんだし、やっぱり申し訳ないよ」
「本当に平気だったので気にしないでください。そんなに謝られちゃうと私も困っちゃいます」
そう言って笑う彼方ちゃんに救われつつ、僕は畳に腰を下ろした。
この状況で芽衣に気を使える彼方ちゃんはやっぱりいい子なんだと思う。
僕は心の中で妹と自分の不甲斐なさをもう一度彼方ちゃんに謝り、声に出すと今と同じような会話を永遠と繰り返すことになるのでグッと飲み込んだ。
「それに芽衣ちゃんも昨日は疲れちゃったんですよ。久しぶりに大好きなお兄ちゃんと話せたって喜んでましたから」
「……え?」
「ん?」
お互いが頭にはてなを浮かべた。
「芽衣が僕のことを大好き……? そんなことはないと思うんだけど……」
僕の知る限り芽衣と僕の仲は普通より少し仲のいい兄妹というくらいだ。友達と兄妹について話したりすると、大体が生意気だとか、うるさいだとか、めんどいだとか、否定的な言葉が挙げられていた。
僕と芽衣の家での感じを話すと、兄妹のいるみんながそんなに仲良く出来るわけがない。お前の家が珍しいんだよ。なんて言われていた。
そんな世間一般の意見をもとに出した僕と芽衣の関係値が少し仲の良い兄妹。アニメや漫画みたいに恋愛関係になるような仲じゃないし、普通に楽しく会話はするけどドキドキとかは全くしない。母さんの家事の手伝いで洗濯物を干す時だって芽衣の下着を見ても触ってもなんとも思わない。思ったら思ったで問題なんだろうけど……。
芽衣の方だって別にそんなに好意がむき出しなわけじゃない。それどころか今まで僕のお助け病のせいで少しすれ違っていたくらいだ。
「あー……そういうことでしたか……。芽衣ちゃんに悪い子としちゃったな……」
彼方ちゃんがなんともばつの悪い顔をして何かを呟いている。声が小さいのでほとんど声が聞き取れなかった。
「佐渡さん。すいません、今の話は忘れていただけないでしょうか? おねがいします!」
「べ、別にいいけど……。そんなに大事なことだったの?」
「はい! 女の子にとってはすごく大事なことなんです!」
「わ、わかったよ……」
珍しく声を大にして言う彼方ちゃんの迫力に気おされつつも、僕は何とか頷いた。
……女の子ってやっぱり難しい。
「それより、まだお時間は大丈夫なんですか? 確かもうそろそろ起きようとしてた時間でしたよね?」
話の方向を変えるためか彼方ちゃんが話題を振ってきた。
「うん。っていっても、そんなに余裕があるわけじゃないんだけどね。今もこれから簡単な朝食をとって、着替えて、軽く休憩してから出ちゃうつもりだったんだ」
いくら時間に余裕を持って行動しているとはいえ、念には念を。
基本的にネガティブ思考な僕は五分前行動どころか、三十分前行動位を基本としている。
「そうだったんですか。なら、今日の朝食は私に準備をさせてください」
「いや、悪いよ。彼方ちゃんはお客様なんだし、ゆっくりしてて」
「いいんです。ずっとじっとしてるのもなんか落ち着かないんです。いつもはこの時間お母さんの朝食の準備を手伝ってる時間なので」
「そうなんだ。通りで最近彼方ちゃんの料理の腕が上がってると思ったよ」
僕と一緒に住んでいた時よりも彼方ちゃんの料理の腕は上昇していた。
元から料理が上手だったのも手伝って今の彼方ちゃんの料理は正直下手な一人暮らしの人よりも上手い。
もちろんその中に僕も含まれていて、あの時は同じくらいか僕の方が少し上かな? くらいに思っていたのに、今ではもう彼方ちゃんの方が上手いように思う。
「それじゃあ、一緒に作らない? 彼方ちゃんもこの家の勝手はわからないでしょ?」
このまま一緒に彼方ちゃんと話を続けてもいつもと同じように平行線をたどることはわかり切っていた僕は、これまたいつものように妥協案を提案する。
その提案に、彼方ちゃんも僕と同じような考えが思い浮かんでいたのか悩むことなく頷いてくれた。
「それじゃあ早速で悪いけど手伝ってくれる?」
「はい、もちろんです!」
笑顔で彼方ちゃんが立ち上がり、台所に向かう。僕も少し遅れて後に続いた。
彼方ちゃんと並び立つ台所。なんだかあの時を思い出して懐かしくなってくる。
「どうかしましたか? 佐渡さん」
「ううん、ただ、少しこの感じが懐かしいなって……」
「懐かしい……ですか。確かにそうかもしれませんね」
二人であの日々を思い出すように黙り込み、見つめあう。
そんなことをしていると、彼方ちゃんの長いまつ毛や、くりくりとした可愛らしい瞳、整った鼻に、しっとりとした桜色の唇が嫌でも目に入って心臓をかき鳴らす。
あれ? 彼方ちゃんてこんなに―――
「何々あんたたち、朝の台所で見つめあっちゃって。もしかして母さんお邪魔だった?」
「か、母さんっ!?」
「っ!!」
今の戸の辺りでニヤニヤした顔で僕と彼方ちゃんを眺めていたらしい母さんが面白そうな顔で僕らに声をかけてきた。
母さんの存在に気が付いた僕らはハッと我に返り少し距離を取る。ただ、二人とも顔は真っ赤で、そう簡単に普段の表情に戻りそうにはない。
彼方ちゃんが恥ずかしさのあまりに俯いてしまったのを確認した僕はどうにか冷静な対応をしようと、母さんに真っ赤な顔のまま向き直る。
しかし、母さんは僕が口を開く前に余裕な表情で口を開いた。
「お邪魔虫は退散しますねー。誠也ー、いちゃつくのはいいけど、場所は少し考えなさいね。あと、やることやるなら責任も取りなさいよ」
「な、なに言ってるのさ! 母さん!」
「それじゃーねー」
僕の言葉に取り合うつもりがないのか、母さんは手をひらひらとさせながら自分の寝室へと戻って言った。それを確認した僕は大きく息を吐く。
「ごめんね彼方ちゃん……」
あまりの申し訳なさに謝罪を口にした僕をまだ顔を真っ赤にしたままの彼方ちゃんが見つめる。そして口を開いた。
「いえ、別に気にしてませんから。あの……佐渡さんは、私のことを、その……どういう風に……」
口ごもりながら言葉を紡ぐ彼方ちゃん。
僕はその言葉をしっかりと聞こうと耳を傾ける。
「私のことを、一人の女の子として……どういう風」
「おはよー」
「「っ!!!」」
母さんに続く参戦者の存在に僕と彼方ちゃんが再び顔を真っ赤にする。
「……あれ、もしかしてお邪魔だった?」
結局、僕と彼方ちゃんが簡単な朝食を作り終えたのは三十分後だった。
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何やかんやありながらもみんなと楽しく、ただし僕と彼方ちゃんだけは少し気まずい雰囲気の中朝食を取り終えた僕は、仲良く話をしている女性組を居間に残して自室に戻ってきていた。
もちろん、お見合いの準備のためである。
「これで準備は大丈夫かな?」
時間を確認するとそろそろ家を出ようと思っていた時間だ。
昨日準備しておいた荷物の何度目になるかわからない確認を行った僕は、まだ少し不安な気持ちを残しつつも、荷物を持って立ち上がる。
「少し時間に余裕があるけど、余裕はあればあるほどいいよね。着替えの時間もあるし」
今の僕の服装はいつもの私服だ。
家を出るときに僕がスーツなんて着ていたら事情を知っている彼方ちゃんと芽衣と彩ちゃんはいいが、事情を知らない麻耶ちゃんと母さん、特に母さんに見られたら根掘り葉掘り聞かれることが決まっている。
そんなことをすれば間宮さんの計画が最初から僕のせいで破綻する。そんなことは絶対にあってはいけない。
私服のまま、スーツやら最低限の荷物の入ったバックを持った僕はこのまま誰にも挨拶をしないで家を出ようとこそこそと自室を出る。
もちろん、こそこそ出る理由は母さんは変に勘が鋭いし、僕は嘘を吐くのが下手だから簡単に見抜かれる可能性があるからである。
彼方ちゃん達には昨日あらかじめ出来れば母さんにはバレずに家を出たいことは話してあるし、あとで連絡を入れれば問題ない。
「お願いだから彩ちゃんと麻耶ちゃんを可愛がっててよ。母さん」
軋む階段をなるべく音を立てずに下り終えた僕は今の方を首だけ出して確認する。中の様子はわからないけど、楽しそうな声は聞こえてくるからどうにか大丈夫そうだと当たりを付けた。
「行ってきまーす……」
律儀にも小声で行ってきますを言ってなるべく最小限の動きと音で玄関を開ける。
「誠也? あんた荷物もってどこ行くのよ?」
「!!」
背後から声を掛けられ背筋をピンと立たせる。
「えっと……何かな、母さん?」
「だから、みんなを置いて、こそこそとどこに行くのよって聞いてるのよ」
冷や汗がどっと溢れてきた。
最初からバレずに出ていくつもりだったからバレた時の対処法なんて考えてなかった。
……どうしよう。
「それは、その……」
誰が見ても明らかに動揺している僕を目の前に、母さんはただただ平然としている。別に悪いことをしているわけじゃないのに罪悪感が胸いっぱいに広がる。
「お話し中すいません……」
頭の中が大変なことになっている僕の前に小さな天使が現れた。
彩ちゃんだ。
「なーに、彩ちゃん?」
突然現れた彩ちゃんに母さんが対応する。僕はその間に頭の中を整理することに努めた。
「あの……昨日の件でお礼ができていなかったので、何かお礼がしたくて……」
彩ちゃんが珍しいくらいに可愛らしい声と仕草で母さんにそう言った。
昨日の件とはおつかいに行ってすぐに帰って来れなかったことだろう。
母さんはまるで娘がもう一人増えたかのように笑顔になりながら、しゃがんで彩ちゃんと目線を合わせつつ、頭をなでる。
「いいのよー、気にしないで。私の方こそごめんなさいね。こっちのことはよく知らないのに一人でおつかい行かせちゃって」
「そんなことないです。自分で言いだしたことですから。それでその、そのお詫びというわけではないのですが、肩を叩かせてはもらえないでしょうか?」
おずおずとした様子で彩ちゃんが言う。
その頃には僕の頭も冷静になっていた。
「え? いいの? 正直言うと最近少し肩こりがひどくてね。芽衣に頼んでもやってくれないし困ってたのよ。お願いしちゃってもいいかしら?」
「はい。もちろんです。上手くできるかはわからないですけど……」
「そんなのどうでもいいわよー。やってもらえること自体が嬉しいんだから。なんだかもう一人娘が増えたみたい」
彩ちゃんの提案に母さんが嬉しそうに微笑む。
……僕も今夜あたり肩でも揉んであげようかな。いつも仕送りしてもらってるし。
「……」
そんなことを彩ちゃんをと母さんを見て思っている僕に彩ちゃんが鋭い視線を送ってくる。え? なに? 僕何かした? と、本気で不安になる僕に彩ちゃんは母さんには見えないように手を振った。
鈍い僕は彩ちゃんの考えを一瞬で理解することはできず、少しの時間が掛かったけど、どうにか彩ちゃんの行動の意図を理解することができた。
「ありがとう」
母さんには聞こえないように小声でお礼を言いながら両の手を合わせる。
そして僕は母さんが振り返らないように細心の注意をしながら静かに玄関の戸を開けた。そのまま静かにドアを閉め、そそくさと急ぎ足で家を後にする。母さんが追って来ないように家から十分距離を取ってから、大きな息を吐いた。
「はぁ~。彩ちゃんが来てくれて助かった。僕だけだったら絶対に色々聞き出されちゃったよ」
小学生の女の子に助けられる情けない大学生である僕はようやく安心できるとばかりに深呼吸をする。
あの時、彩ちゃんは僕に無言でこう言ったのだ。
「私がお母さんの目を引き付けておきますので、お兄さんは早くお姉さんのところに行ってください。です」と。間宮さんの事情を知っていて、その手伝いを今日僕がすることを知っていた彩ちゃんは僕に手を貸してくれたのだ。
「今度、お菓子でも作ってあげようかな。作ったことないけど、レシピとかを見ればどうにかなるだろうし」
青く澄んだ青空の下。僕はそんな思いを馳せながら間宮さんとの待ち合わせ場所、三駅ほど離れたお見合い会場まで足を運ぶのだった。