31話
「泣き疲れて寝ちゃったか……」
あれから数十分後。僕の胸で泣き続けていた彩ちゃんが静かになった。起こさないように僕の胸からそっと彩ちゃんを離す。目元にはまだ涙が少し残っていて赤い。それほどまでに彩ちゃんは苦しんでいたのだと僕は今更ながら知った。
そのまま彩ちゃんをゆっくりと麻耶ちゃんの寝ている隣に下し、ふと時計を見ると、もうそろそろ僕がいつも寝る時間になっていた。
今日はあの大雨の中で彩ちゃんを探し回るという行為をしたので、体は休息を欲している。それに明日は間宮さんのお見合いの件もある。ちゃんと寝ておかなければならない。
でも、頭はそれを拒否するように回っている。
「彩ちゃんから話を聞いて大体の事情はわかったけど、状況が何か変わったかって言われると……そうでもないよね」
さっきの話の中で僕がわかったことはどうして彩ちゃんと麻耶ちゃんがあんなところに二人だけでいたのかと、二人のお母さんの置かれている状況。そして、彩ちゃんが僕らから距離を置いていた理由だ。
知りたかったことの大方は知ることができた。それは事実だ。でも、肝心要のこの問題の解決に繋がる情報は何一つと言ってもいいほどなかった。
彩ちゃんたちの住んでいたところがわかれば少しは状況が変わったかもしれないが、話の中で彩ちゃんは道も知らないところに着ていたと言っていた。つまり、彩ちゃんに自分の家まで案内してもらうということができないことを意味している。
子供の歩いて来れる距離なのだから探す気になれば探せるかもしれないけど、さっきの話を聞いた限りだとお母さんの方は少なくとも二人を探せない状況には陥っている。でなければ、捜索願なり自分自身で探すなりの行動があるはずだ。
「明日お母さんの名前を聞いて警察に調べてもらうのが一番確実かな? でも、そんなにすぐに動いてくれるかな。警察って色々と手順がありそうな気もする。だとしたら、やっぱり僕らで探すのがいいんだろうけど、結局時間がかかるよね」
なけなしの頭を振るったところで碌なアイデアが出るはずもなく、思いついては否定が生まれ、思いついては否定が生まれを繰り返す。後悔はしたくない。失敗もしたくない。そんな考えがいつも以上に僕を慎重にさせ判断を鈍らせる。
「とりあえずみんなに相談して、みんなの意見も聞かないとダメみたいだ。やっぱり僕一人の頭じゃこの状況を上手く収められる気がしない……」
情けないとは思わない。もう何度の考え抜いてきた答えだ。
自分に出来ないことは他の人に頼る。それは恥ずかしいことなんかじゃない。みんなも困ったら頼ってくれって言ってくれている。彼方ちゃんなんか頼らないと怒ってさえくれる。
僕一人のちっぽけなプライドなんかいらない。僕の勝手な行動で自分勝手で彩ちゃんと麻耶ちゃんの未来を奪うことは僕にはできない。
「そうと決まれば彩ちゃんには悪いかもだけど芽衣と彼方ちゃんだけにでもまずは事情を説明して相談を……」
そう思って腰を上げようとすると、何かに引っ張られたような感覚が腰の辺りにした。不思議に思って腰の辺りに目を向けると、彩ちゃんが僕の服の裾を握っていた。どうにか起こさないように手を放してもらえないかと服を軽く引っ張ったり、彩ちゃんの手を広げようと試みるもどれも失敗。
想像以上に強く僕の服の裾は握られていた。
「……お兄さん」
「彩ちゃん……」
集中していなかったら聞き逃してしまったであろう小さな言葉。その小さな女の子から発せられた小さな言葉は僕をこの場に留めておくには十分すぎる言葉だった。
「ごめんね彩ちゃん。少し遅くなっちゃうかもしれないけど、絶対にお母さんに会わせてあげるから」
もう何度目とも知れない約束の言葉に彩ちゃんの顔が少しだけど緩んだ気がした。
「さて、こうなったら僕も寝ようかな。寝坊なんかしたら間宮さんに悪いし、せっかく気を使ってくれた彼方ちゃんと芽衣にも悪いしね」
結局寝ることにした僕は膝に手を置き立ち上がろうとする。
そして、なぜ自分がここに留まることにしたのかを思い出す。
「ど、どうしよう……」
どうしようもないほど強く握られている服の裾を見ながら僕は困り顔をし、最終的になるべく二人から距離を取るようにして眠りにつくことにした。
「ん……」
いつの間にか眠っていたらしい僕の閉じられた瞼に光が飛び込んでくる。まだ眠たい目元を擦り、けだるい体を強引に起こす。
「おはようございますです、お兄さん。いい朝ですね、です」
「あぁ、うん。おはよう彩ちゃん」
まだ完全に回り切っていない頭を最大限に回し、なんとか彩ちゃんの挨拶に挨拶を返す。
「もう七時過ぎですよ。もうそろそろ起きておいた方がいいんじゃないですか? です」
そんな彩ちゃんの一言で僕の頭は完全に覚醒した。
「えっ!? うそっ!? もうそんな時間!?」
「はいです。もうそんな時間です。朝ごはんの時間や、着替えの時間、移動の時間を考えたらもうそろそろ起きておくべきではないですか、です」
「そ、そうだね! ありがとう彩ちゃん!」
僕が向こうに余裕をもって到着をするには家を八時半には出ないといけない。今の時刻は彩ちゃんが教えてくれた通り七時過ぎ、危うく寝過ごすところだった。
頭が覚醒したのと同時に体も覚醒した僕は勢いよく立ち上がり早速行動に移る。
「あっ、そうだ、彩ちゃん」
まだ気持ちよさそうに寝ている麻耶ちゃんを起こさないように急いで布団をたたみ、朝食を取りに向かおうとして、昨日の夜に彩ちゃんに言おうと思っていたことを思い出す。
僕の突然の言葉に疑問符を浮かべながら小さく首を傾げる彩ちゃんを可愛いなんて思いながら僕はそれを口にする。
「もう無茶はしないと思うけど、一応言っておくね。もう絶対に一人で抱え込んだり無理をしちゃだめだよ。彩ちゃんは自分だけが麻耶ちゃんを支えてるって思ってるかもしれないけど、彩ちゃんだって麻耶ちゃんに支えられているんだから、それを忘れないですね」
これだけは言っておきたかった。
いつも妹のためと頑張っている彩ちゃん。麻耶ちゃんを守るため、麻耶ちゃんの笑顔のため、麻耶ちゃんの幸せのため、そう言った理由で頑張ってきた彩ちゃん。でも、僕は今回彩ちゃんが帰って来れなくなった時の麻耶ちゃんを見て気が付いた。
頑張っているのはなにも彩ちゃんだけではないということを。
「それはどういうことでしょうか。です。麻耶のために私が頑張っているから支えられているってことでしょうか? です」
「ううん。ちがうよ」
案の定、彩ちゃんは僕の言葉の意味を理解できていないようだった。
自分がいつも間宮さんたちにしてもらっているように一から説明を始める。
「彩ちゃんが麻耶ちゃんのためにって頑張っているのは知ってる。でも、それと同じくらい麻耶ちゃんも頑張ってるんだよ」
「それはそうだと思いますです。お母さんとこんなに離れるのは初めてですし、よく文句も言わずに私の言うことを聞いてくれているとは思いますです。それはちゃんと私なりにわかっているつもりですけど、です」
彩ちゃん言ってることは正しい。僕だってそう思う。
あの彼方ちゃんですら両親と別れて生活するのに苦労をしたのだ。辛い思いをしたのだ。それと同じことを一回りも年の違う麻耶ちゃんがしている。それはとてもすごいことなのだろう。それはわかる。
でも、今僕が言いたいのはそういうことじゃない。
「違うんだ。彩ちゃんが麻耶ちゃんを支えているように、麻耶ちゃんも彩ちゃんを支えてるんだよってこと。彩ちゃんのために頑張ってるんだよってこと」
「ん? さっきの私の言ったことの何が違うのですか? です」
「えっとね……うーん、難しいな。あのね、彩ちゃんは麻耶ちゃんのために寂しがらせないようにしたり、いつも一緒にいてあげたり、優しい言葉をかけてあげたりしてるよね?」
「はいです。お姉ちゃんですから、です」
「それを麻耶ちゃんもしてるんだよってこと」
「……どういうことですか? です」
説明が下手な僕のせいで彩ちゃんが未だにはてなを浮かべている。
こんな時に間宮さんみたいに順序を立てて、要領よく説明ができたらどんなにいいかと思う。
「その……ね。麻耶ちゃんがいつも笑顔でいるのはなんでだと思う?」
質問に質問で返すのはよくないと間宮さんに言われるけど、今回ばかりは他に言葉が出てこなかったので、仕方なしに質問に質問で返す。
「それは、私やお兄さんたちが麻耶が笑顔でいられるように頑張っているからではないですか? です」
僕の問いかけに彩ちゃんはそう答えた。
でも、その答えは間違っていると僕は思う。
「僕はね、違うと思うんだ。僕は、麻耶ちゃんがいつも笑っているのは彩ちゃんに心配をかけないためなんじゃないかなって思う」
「私に心配をかけないため……?」
「たぶん麻耶ちゃんは小さいなりに今の状況をそれなりに理解してるんだよ。もちろん詳しいことはわからないだろうけどね。でも、彩ちゃんが自分のために頑張ってくれているのは知ってる。だから、麻耶ちゃんはそれに答えようといつも笑顔でいるんじゃないかな?」
僕の言葉に彩ちゃんがハッとする。
「彩ちゃんが昨日帰って来れなくなってた時、いつも明るくて我儘も言わない麻耶ちゃんが初めて僕たちの言うことを聞いてくれなかったんだ。外は危ないから家で待っててって言った僕たちに、いやだ、自分も探しに行く。って。その時はなんとも思わなかったけど、今になって冷静に考えると、心の支えだった彩ちゃんがいなくなったから取り乱してたんじゃないかって思えたんだ」
真剣な面持ちで僕の言葉を聞く彩ちゃん。
僕はさらに言葉を続けた。
「彩ちゃんが麻耶ちゃんが笑顔でいられるように頑張った。それに応えたかった麻耶ちゃんは寂しい気持ちを抑え込んで笑顔を作った。彩ちゃんがいつも麻耶ちゃんと一緒に居てくれようとしたから、麻耶ちゃんは常に彩ちゃんにべったりだった。彩ちゃんが優しい言葉をかけてくれたから、麻耶ちゃんは彩ちゃんに自分は大丈夫だよって思ってほしくて平気そうに振る舞った」
ようやく僕の言いたいことが伝わったのか、彩ちゃんは驚いた表情をする。
「彩ちゃんは自分だけが麻耶ちゃんを支えてるって思ってたのかもしれない。自分より小さい麻耶ちゃんを一方的に支えてたつもりかもしれない。でも、実は違った。彩ちゃんが麻耶ちゃんを支えているように、麻耶ちゃんも彩ちゃんを支えてた。お互いがお互いを支えてたんだ。あの時二人が泣いたのはお互いの支えがいなくなっちゃったから」
彩ちゃんは麻耶ちゃんのために頑張っていた。心配を掛けまいと、笑っていてほしいと精いっぱい頑張っていた。
麻耶ちゃんは彩ちゃんのために頑張っていた。心配はいらないよと、ちゃんと笑っていられるよと、一生懸命頑張っていた。
お互いが、お互いがを支えていた。
それこそ、人という字は人と人が支えあってというやつだ。
そしてそれが昨日、危うく崩れかけたのだ。支えを失った二人はそのまま地面に倒れこんでしまった。もう少しで立ち上がれなくなっていたところだったのだ。
「そういう……ことですか……」
彩ちゃんの顔が自然と麻耶ちゃんの方へ向く。
そこには無垢な顔をした天使の姿があった。幸せそうに眠るその天使は今も笑顔だ。その天使の唇が小さく動いた。
「あーちゃん……まーちゃんはだいじょうぶだよー。あーちゃんがいるからおかあさんがいなくても、へいきだよー」
「っ……!!」
偶然にしては出来すぎている言葉が麻耶ちゃんから発せられる。
それはただの寝言だった。でも寝言だからこそ心理をついていて、嘘なんかが介入する余地がなくて、麻耶ちゃんの心からの言葉となった。
それを一番近くで聞いていた彩ちゃんは口元に手を当て、目元に涙を溜める。
「私はバカなお姉ちゃんです……。一人で頑張っているつもりでしたです。一人で抱え込んでいるつもりだったです。でも、違ったのですね……です」
鼻をすすり、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら彩ちゃんは言う。
「私は、麻耶に支えられていたんですね……」
ようやく気付けた真実を口にした。
「なんでこんなことにも気が付かなったのでしょうか、です。……お母さんと別れて、辛くて、怖くて、苦しかったのに、私が今もこうしていられるのは麻耶のおかげだってわかってたはずなのに、です」
今までのことを振り返り、今思えばということを思い出しているのだろう。彩ちゃんは何度もえづきながら言葉を重ねた。
「本当にダメなお姉ちゃんです……結局妹一人助けられないで、辛い思いもさせちゃって、昨日から泣いてばかりで、本当に私はダメダメですね……」
そんなことないよ!
あまりの彩ちゃんの言葉にそう発しようとした瞬間、天使の目はうっすらと開かれた。
「ん~……あーちゃんないてるの?」
眠気眼を擦りながら麻耶ちゃんが目を覚ます。
「だいじょーぶ。だいじょーぶ。だいじょーぶだよー」
麻耶ちゃんが眠気眼を擦っていた手を彩ちゃんの頭に乗せて、撫でる。
「なかなくたって、だいじょーぶだよ」
「麻耶っ!!」
その言葉を聞いて彩ちゃんが麻耶ちゃんに勢いよく抱きついた。
「あーちゃん、ちょっといたいよー」
「麻耶! 麻耶! 麻耶!」
「なーに、あーちゃん?」
「……いつもありがとです」
「どーいたしましてー」
泣きながら麻耶ちゃんに抱き着く彩ちゃん。その彩ちゃんを笑顔で受け入れる麻耶ちゃん。二人はやっぱり姉妹なんだなと僕は思った。
この光景を邪魔するのは気が引ける。
かといって、このまま成り行きを見守っていると、間宮さんのお見合いに間に合わなくなってしまう。僕はこんな素敵な光景を前に、名残惜しく思いながら、静かに部屋を後にした。