30話
「おかえりなさいです。……お兄さんだけですか? です」
「うん。芽衣に話したら今日は彼方ちゃんと一緒になるからいいよって言ってくれた」
部屋に戻ってくると彩ちゃんは布団で寝ている麻耶ちゃんの頭を撫でながら布団にちょこんと座っていた。
「そうですか……。気を使わせてしまいましたですね」
「芽衣が自分でいいって言ったんだからいいんだよ。それに僕は彩ちゃんにそうやって我儘言ってもらえる方が嬉しいよ。なんていうか。仲良くなれたって感じがするから」
少し恥ずかしいセリフを口にして照れる僕。彩ちゃんもまさかそんなことを言われるとは思ってもなかったのか頬を少し赤くする。ちょっとの間二人で顔を真っ赤にしていると、我慢の限界とばかりに彩ちゃんが喋り出す。
「あの、話したいことがあるのですが……です」
まだ照れが残っているのか若干早口になりながら彩ちゃんが言う。その言葉を受けた僕は芽衣のおかげで確かにできた覚悟を胸に無言で頷く。
大丈夫。ちゃんとできる。
「話というのはその……私たちがなんで二人であんなところを歩いていたか、です。元の始まりはその先日……いや、たぶんもっと前です」
真剣な顔で話し始める彩ちゃん。僕も真剣な面持ちで聞く。
「正確な始まりは私たちにもわかりませんです。正確な始まりはきっとお母さんにしかわかりません。お母さんの話だとその時私はまだ二歳だったらしいですから、です」
少し曖昧な言葉から始まった彩ちゃんの説明は嫌というほど心が締め付けられる。聞かなくてもわかる。今から聞く話は絶対にいい話じゃない。僕は何度もこの経験をした。誰かの大切な話を、大切な思いを聞いた。そのすべてが全部悲しくて苦しくて、辛くて重い話だった。明るい話だったことなど一度もない。
「なので、始まりについては私も本当に知りません。……まぁ、今まで嘘をついて、隠し事ばかりしていた私を信じてくれるかはお兄さんに任せますが、です」
「信じるよ」
彩ちゃんが次の言葉を紡ぐ前に僕は割り込むように口を挟む。
これだけは、絶対に聞き逃せない言葉で、ちゃんと伝えたい言葉だった。
「僕は彩ちゃんを信じるよ。いくら今まで嘘をついてたとしても、隠し事ばっかりだったとしても、今から話してくれる話が嘘だったとしても、僕は彩ちゃんを信じる。信じぬくよ」
彩ちゃんの瞳が大きく見開かれる。
「彩ちゃんが僕を信じてくれるまで、信頼してくれるまで僕は何度でも騙される。何度でも隠し事をされる。彩ちゃんが頼れる大人だって証明する」
ある意味これは僕の自己宣言だ。
確証なんて何もない。今の言葉に嘘がないことなんて当然証明できない。でも、これだけは言える。みんなが信じてくれる僕を誇るためにも、僕は絶対にみんなの言ってくれる僕を裏切らない。
お人よし、お助けマン、みんなを笑顔にする佐渡、今までいろんなことを言われてきた。そのすべてに、僕は嘘をつきたくない。
何より、自分を信じて色々と支えてくれた彼方のためにも。
「だから大丈夫。僕は彩ちゃんを疑わない、どんなに彩ちゃんが突拍子のないことを言って、それこそ明日地球がなくなるなんて言っても、彩ちゃんが本気でそう言うなら僕は信じるよ」
嘘偽りなんて微塵もない。大人も子供も関係ない。彩ちゃんを自分と同じ人間としての対応。今の僕にはそれくらいしか彩ちゃんできることはない。
「な、なんで……」
彩ちゃんが下を向く。
そして、次の瞬間瞳にいっぱいの涙を浮かべながらその顔を上げた。
「なんだ、理由もなくそんなに信じられるんですか……」
心の底からの疑問だったのか、彩ちゃんは今にも零れそうな涙を服の袖で拭いながら言う。
いつもの僕ならここで悩んでしまうことだろう。でも、今回に限っては答えはもう出てる。
最初から、僕の答えは決まっていた。
「僕が彩ちゃんたちを放っておけないから。だから、二人に信用してもらうためにも僕は彩ちゃんたちを絶対に裏切らない。さっきも言ったけど、彩ちゃんが信じって言うなら僕はちゃんと全部信じるよ」
「……」
僕の言葉をどう受け取ったのか彩ちゃんは喋らない。ただ下を向いて、床に涙を落としている。
抱きしめようか、頭を撫でようか、優しい言葉の一つでもかけるべきか、そんな様々な考えが頭を過ぎり、なかなか結論を出せない僕よりも先に彩ちゃんが顔を上げる。
「お兄さんは……私が思ってた以上にお人よしですね、です」
笑いながら彩ちゃんが言った。
未だに瞳に涙を溜めて、顔を赤くして、そう言った。
でも、これは悲しみの涙なんかじゃない。これは嬉し涙だ。きっと今まで誰も信用できず、誰を信じていいのか、頼っていいのかわからずに妹と二人で歩いていた彩ちゃんに生まれてしまった警戒心が崩れた際の欠片だ。
「そうだよ。僕はみんなからお助け病とか、お助けマンなんて言われちゃうくらいにはお人よしなんだ。だから、彩ちゃんを助けたい。たとえお礼を言ってもらえなくても、嫌われたっていい。ただ、彩ちゃんを助けたい」
子供の心は純粋。子供だからわかることがある。子供だから見えるものがある。
よく言われる言葉たちだ。そのすべてを僕は嘘じゃないと思ってる。だから、僕は絶対に彩ちゃんに嘘はつかない。子供は嘘をしっかりと見抜くから。大人が勝手に騙せたと思っても子供は騙されてあげているだけだから。
だから僕は嘘を吐かない。誠心誠意、心を込めて彩ちゃんと向かい合う。
「ありがとうございますです……お兄さんのお気持ちはよくわかりましたです。だから、ちゃんとわかったから、お兄さんには私たちのことをちゃんと知っていてほしいです」
彩ちゃんの言葉に僕は黙って頷き、彩ちゃんはそんな僕を見て笑うと静かに話し始めた。
「最初に言いましたが、話の初めは私にもわかりません。ただ、最後はわかってます。私と麻耶は……逃がされました」
「逃がされた……?」
言っていることの意味が分からずに頭に疑問符が浮かぶ。
二人の今の状況は今までの僕の経験からすると彼方ちゃんの件に似ていた。両親の所在、状況が不明。説明はなし。ただ、帰る家はないという。いわゆる家出少女ということだけだった。
しかし、今回は少し状況が違うみたいだ。
ただ、捨てられたとか、逃げてきたではなく逃がされた。どういうことだろう。
それだけがどうしてもわからなかった。
「ごめん彩ちゃん。もうちょっと詳しく説明してもらってもいいかな」
わからないことは聞く。
わからないことだらけないつもの僕の行動だ。
「はいです。あの男は……正確に言えばお母さんの再婚相手のあの男は私たちに暴力を振るうような人でした」
「っ!!」
彩ちゃんの口から発せられた言葉に息をのむ。
自分がなにか別の言葉を聞き間違えたのではないかと耳を疑った。しかし、そんなことはないと証明するように彩ちゃんは言葉を重ねていく。
「最初はただ暴れるだけでした。お酒を飲んではその瓶を壁に投げつけて、私たちを怒鳴って、私たちを罵りました。そんな行為が日に日に酷くなってなってきていつの日かお母さんに暴力を振るようになりました」
「……」
言葉が出なかった。
何を言ってあげればいいのかわからない。
「お母さんは毎日ケガをするようになりました。顔には当て布、腕には包帯、そんな格好がお母さんの普通の格好になりました。でも、あの男はそれでも満足がいかなかったのかどんどんと暴力を重ねていきました」
「……」
「麻耶はそんな怖い光景を見ては泣いてました。私も同じです。……耐えきれなかった私は、そんなお父さんに反抗しました。そしたら今度は私にまで暴力を振るうようになりました」
「……」
「さらには泣いてばかりでうるさいと麻耶にも手を上げようとしました。それは何とか私とお母さんで防ぎましたが、私たちももう限界でした。このままだといつか殺されちゃうんじゃないかって毎日怖かったです。……お母さんの持つ包丁が野菜やお肉を切る道具じゃなくて、私たちに向けられるんじゃないかって本当に怖かったです……」
「……」
「そしてある日お母さんはあの男と別れることを決意しました。本当はずっと前から考えていたみたいなんですけど、私たちに父親の居ない生活をさせるのが嫌だったみたいです」
「……」
「別れる話をあの男にしたら、あの男はそれまで以上に怒って暴れました。何が別れるだ。そんなこと俺は許さないぞって。……本当にふざけた話です。私たちのことが嫌いなくせに、自分の苛立ちを私たちに向けるためだけに私たちとの関係をそのままにしておく。私たちを暴力を振るうための道具としかみてないくせに……」
「……」
「結局どうしようもなくなった私たちはあの男から逃げることを選びました。……でも、あの男は私たちを簡単には逃がしてくれなかった。逃げた私たちを追ってきて、私たちを無理矢理家に連れ戻そうとしました。お母さんだけなら逃げられたかもしれません。でも、子供の私と麻耶の足ではあの男から逃げきれそうにありませんでした。少しの間、身を隠してた時にお母さんは私に言いました「彩、よく聞いて。このままだとみんなで捕まっちゃう。だからお母さんがあいつを引き付けている間に麻耶を連れて逃げなさい。あとで絶対に追いつくから」そう言いました」
「……」
「結局お母さんは追いついてきませんでした。私と麻耶はがむしゃらに逃げたせいで道もわからないところに来ていました。その時に会ったのがお兄さん達です」
「……」
「あの時お兄さんたちに冷たく当たったのは、男はみんなあの男みたいな奴だと思ってたのと、大人が信用できないと思ったからです。お姉さんもそんな大人と仲良くしていたので警戒していました」
「……」
「本当は三日もしないうちにお兄さんたちはあの男とは違うってわかりました。でも、やっぱり心のどこかで信用できませんでした。裏切られるんじゃないか、暴力を振るわれるんじゃないか、怒鳴られるんじゃないか。そう思ったら素直に助けてとは言えませんでした」
もう、我慢の限界だった。
いつの間にか握りしめていた手が爪を立ててしまっていたのか手のひらが痛い。食いしばっていたらしい歯もギリギリとなっている。
今までなんて言葉をかけていいのかわからず、どんな言葉を言ってあげればいいのかわからず、ずっと黙ったままだったけど、今だってどんな気持ちで、どんな言葉をかけてあげるのが正解なのかわからないけど、それでもするべきことはわかっていた。
「もういい……もういいよ。彩ちゃん……」
僕は彩ちゃんを抱きしめた。
もう大丈夫だと、もう何も言わなくてもいいと、何度も何度も彩ちゃんに対してこの気持ちになったけど、今回のそれは今までのことよりもずっとその気持ちが強かった。
この子を安心させてあげたい。この子を守りたい。
ただただその気持ちだけが僕の心を満たしていた。
「もう大丈夫。絶対に僕が何とかする。何が何でも彩ちゃんと麻耶ちゃんをお母さんに会わせてあげるから」
僕の言葉に何の信憑性もない。方法だってわからない。叶えられたとしてそれがいつになるのかさえ分からない。無理な可能性の方が強いのだってわかってる。天秤が一方的に僕たちの方に向いていないのは僕にだってわかる。
でも、それでも、僕は彩ちゃん達を助けたいと思った。助けたいと思ってしまった。
もし迷ってしまいそうなら、迷う前に走り出す。そうすれば考える暇もなく後戻りできないところまで来ている。だから、僕はもう迷わない。
この足は、もうスタートラインを切っていた。
「絶対に、大丈夫」
僕の胸の中で泣き続ける彩ちゃんの声を聴きながら、長く深い夜が進んでいく。
僕はもう、覚悟を決めた。
この子たちの笑顔を見るまで、僕は絶対にあきらめない。