29話
あれから時間がたち麻耶ちゃんの就寝時間が近づいてきた。
「んん……」
麻耶ちゃんが手に持ったトランプを落としそうになる。首をカクカクと揺らしては起きてをさっきからもう何度も繰り返している。時計を見ると針は夜の九時を表している。
麻耶ちゃんにはもうそろそろ限界の時間だろう。
「麻耶ちゃん。もうそろそろ寝ようか」
「んー……まだおきてうー……」
麻耶ちゃんが目を瞑りながら答える。
しかし、その声にはいつものような元気はなく眠そうな声だ。僕はどうしたものかとお姉ちゃんである彩ちゃんに視線を送る。彩ちゃんは僕の視線にすぐに気づき小さく頷く。
「麻耶、トランプはまた明日にしましょう。大丈夫です、明日はもっとたくさんできますよ」
「ほんとぉ……」
「本当です。お姉ちゃんが嘘をついたことがありますか?」
「ないー……」
「それじゃあ布団に行きましょう」
彩ちゃんがそう言った時には麻耶ちゃんは電源が切れたようにすっかり眠りに落ちていた。
「お兄さん、すいませんが麻耶をお願いします。私では運べないので」
「もちろん、任せてよ。彼方ちゃん、芽衣、二人はトランプの片づけを頼めるかな?」
「はい、やっておきます」
「はいはい、やっておくー」
二人それぞれから返事をもらい、僕は既に夢の世界へと行ってしまった麻耶ちゃんを抱え上げる。上手く定まらない手の位置を麻耶ちゃんを起こさないように調整し、ようやくそれらしい位置を見つける。
よしっ。と顔を上げる僕はこちらをじっと見ている二つの視線に気が付いた。彼方ちゃんと芽衣だ。
「えっと……なんか変かな?」
僕に何か落ち度があるのかと思い、恐る恐る尋ねる。すると二人は同時にハッとして、少しぎこちない笑顔を作る。
「だ、大丈夫ですよ! ただそのですね、少し羨ましいというかですね、憧れちゃうなというかですね、その……はい」
「そそそ、そうなの! やっぱり女の子の憧れ的なものもあるし、ちょっと見惚れちゃったというか、自分もされてみたいな、みたいなね!」
「「~~~っ!!」」
なにやら慌てた様子で二人が発言した後、お互いの顔を見合わせ顔を真っ赤にしてから俯く。僕はそんな二人の行動に頭に疑問符を浮かべることしかできない。
え……どういうこと?
「お兄さんも鈍感ですね。今の自分の行動を見てみてくださいです」
どうやら二人の行動の意味をしっかりと理解しているらしい彩ちゃんに指摘された通り僕はここまで一通りの自分の行動を顧みる。
まず、眠そうな麻耶ちゃんに声をかけた。そしてまだ寝たくないという麻耶ちゃんを彩ちゃんに説得してもらい、僕が麻耶ちゃんを寝る部屋まで運ぶことになった。運び方は片手で背中を支え、もう片方の手で膝の裏から全身を支えている。いわゆるお姫様抱っこというものだ。
そして、ここまで自分の行動を顧みて僕はようやく二人の言葉の意味を理解した。
「もしかして……お姫様抱っこ?」
ようやくたどり着いたその言葉を口にすると、二人はさらに顔を真っ赤にさせて静かに頷いた。どうやら正解だったらしい。
「そっか、確かにお姫様抱っこって女の子の憧れだったりするのかもね。僕は男だからあんまりわからないけど、やっぱりそういうのって女の子の憧れだったり夢だったりするんだね」
僕の言葉に二人はさらにさらに顔を赤くする。
これ以上赤くなったらまずいんじゃないかってくらいに二人の顔はもう赤い。それこそ煙が出ていてもおかしくないくらいに。
「あれ? でもあれって誰でもいいわけじゃないんじゃないの? その、好きな人とかじゃないとダメなんだと思ってたんだけど……」
ああいうことはてっきり恋人同士とかがするものだと思っていた。あとは劇とかドラマのようなお芝居。こんな僕みたいな男の人がやっても女の子はときめいたりしないのではないだろうか?
「お兄さん……お兄さんのそれはもはや武器ですね……正直私はお二人のことが可哀想で仕方がありません」
「えっ!? なんで!?」
呆れた様子で言う彩ちゃんに僕は驚きの声を返す。しかし彩ちゃんはここまで言ってもわからないのですか、と言いたげな顔で僕を見てため息を零すだけで何も言ってくれない。
答えを求める様に彼方ちゃんと芽衣に視線を移すも二人は僕と目が合うなり顔を背けてしまった。
……すごいショック。
「とにかく麻耶を部屋に運びましょう。どうせお兄さんがいくら考えたって分かりっこないですから、です」
辛辣な彩ちゃんの言葉に追い打ちをかけられつつ、僕はしょんぼりとした気分のまま彩ちゃんの後ろをついて麻耶ちゃんを部屋まで運んでいく。
「二人は今日も芽衣の部屋だっけ?」
昨日の部屋割りは僕の部屋に僕と彼方ちゃん。芽衣の部屋に芽衣と彩ちゃんと麻耶ちゃんといううち分けだった。そして今日は昨日からの順番ということで昨日のじゃんけん大会で二位だった芽衣が僕と一緒で芽衣の部屋に彼方ちゃんと彩ちゃんたちが寝ることになっていたはずだ。
今考えると、この年になって妹と二人同じ部屋で寝るというのは少し恥ずかしい気分だ。でも、積もる話もあるし悪くはないのかもしれない。
「そのことなんですが……」
僕がそんなことを考えていると彩ちゃんが言い辛そうにおずおずと言った。
「今日は私もお兄さんの部屋で寝たいのですがダメでしょうか? です……」
思いもよらなかった彩ちゃんからの言葉に僕は一瞬言葉を失う。
今日の今日、というかついさっきまで僕と彩ちゃんの仲はお世辞にも仲がいいとは言い難いものだった。実際昨日の寝る場所を掛けたじゃんけん大会だって誰と寝ることになっても構わないと彩ちゃんは言っていた。
それが、さっきの彩ちゃんを探しに行くという出来事一つでこうまで変わるとは僕も思ってなかった。
「そうだね。僕はもちろんいいよ。麻耶ちゃんを運んだら芽衣にも言っておこうか。それと、彩ちゃんが僕の部屋で寝るなら麻耶ちゃんも僕の部屋に運んだ方がいいよね?」
「ありがとうございますです」
「気にしなくていいよ。僕も彩ちゃんにそう言ってもらえて嬉しいし」
正直僕はガッツポーズを取りたいくらいには嬉しい気持ちになっていた。
難しいと思っていた彩ちゃんとの関係がどんどんと埋まっていく。そのことがとても嬉しい。
今日、何度僕はこの気持ちになっているだろうか。
「……これでよし」
麻耶ちゃんを一旦僕のベッドに寝かせて布団を敷く。そして麻耶ちゃんを静かに布団に移動させることに成功した。
その証拠に麻耶ちゃんは可愛らしい寝顔ですうすうと寝息を立てている。天使の寝顔とはきっとこういう顔のことを言うのだろう。
「彩ちゃんはどうする? このまま麻耶ちゃんと一緒に寝ちゃう?」
「そのことなのですが、お兄さんも明日早いのですよね? お兄さんの今日はこのまま寝た方がいいのではないですか?」
今日は色々あったし彩ちゃんも疲れてるだろうと、尋ねた僕の方が尋ねられてしまった。これでは本当にどっちが年上なのかわからない。
「うーん……確かに明日は少し早いけど、そんな極端に早いわけじゃないしなー」
心配してくれる彩ちゃんの気持ちは素直に嬉しいけど、正直そんなに朝が早いわけではない。間宮さんのお見合いの時間は午前十時、待ち合わせは現地に集合ということになっているので、その場所の行き方を調べたところ僕はどうやら朝の八時半に家を出れば三十分の余裕をもってお見合い会場に着くことができるようだった。
「お兄さん……。少しは察してください」
「え? な、なにを……?」
考えをまとめ終えたところに彩ちゃんの呆れた声が掛けられ、その返事にさらに彩ちゃんは呆れたような顔をする。ため息まで零していた。
え? なんで僕呆れられてるの?
「大事な話があるから二人だけで話したいと私は暗に言っているんです。これでわかってもらえましたか? です」
もう一度大きなため息を零した彩ちゃんはしょうがないですね。と言いたそうな顔で僕にもわかる言葉で説明をしてくれた。
でも、さっきの言葉でここまでを察せる人は多分いないと思う。
……いないよね?
「わかった。意味をちゃんと理解してあげられなくてごめんね」
「いえ、お兄さんがそういう人だというのはもうわかってたことですから」
「そ、そう……」
僕って、小学生の女の子にも呆れられちゃうくらい空気が読めていないんだろうか。少し自分に自信がなくなってきた。
「それじゃあ芽衣には今日は自分の部屋で彼方ちゃんと寝てくれるように行ってくるよ。それくらいは許してくれるよね?」
「もちろんです。あと、ありがとうございますです」
「うん。じゃあちょっと行ってくるね」
彩ちゃんと寝てしまった麻耶ちゃんを自室に残し、僕はまだ居間で片づけをしているであろう二人のところへ行く。居間に戻ると、すでにトランプの片づけを終えた二人がテレビを見ながら並んで座っていた。
音で僕が戻ってきたことがわかったのか彼方ちゃんと芽衣が同時にこちらを向く。
「お兄ちゃんただいまー……って、彩ちゃんは?」
「あー、うん。そのことなんだけど、今日は彩ちゃんと麻耶ちゃんが僕の部屋で寝てもいいかな? あと、芽衣も自分の部屋で彼方ちゃんと寝てほしいんだけど」
「別にいいけど……何かあった?」
いきなりの僕の提案に少し不安そうな顔をする芽衣。隣を見ると彼方ちゃんも少し不安そうな顔をしていた。僕は二人が考えているようなことではないと説明するために口を開く。
「二人がなにを考えてるのかわからないけど、そんなに暗い話じゃないよ。なんか彩ちゃんが話したいことがあるんだって」
「そ、そうなんですか。それならよかったです」
彼方ちゃんが安心したのか顔を緩ませる。
しかし、芽衣は不安げな顔から訝しげな顔になるだけだった。
「ねぇ、お兄ちゃん。それって彩ちゃんたちのこれまでのことなんじゃないの?」
芽衣は真剣な顔で言う。
妹のここまで真剣な顔を見るのが初めての僕は少したじろいだ。
「……たぶん、そうだと思う」
察しが悪いとよく言われる僕でも彩ちゃんが言う大事な話とは僕らと出会う少し前、両親とどうして離れているのか、という内容だと思う。正直、僕がこうして居間に来たのはその話を聞くための覚悟を決めるための時間稼ぎだった。
「その話、私たちも一緒に聞いちゃダメなの?」
芽衣の発言に確かに、というように彼方ちゃんも不思議そうな顔で僕の顔を見る。
「とりあえず僕にだけ話して、あとからみんなには僕と一緒に説明する気なんじゃないかな?」
これまで一緒に暮らしてきた僕の彩ちゃんに対する印象の中に彩ちゃんは義理堅い、というか責任はしっかりとるというか、今回の話で言うなら今回の自分たちの騒動に巻き込んでしまった人たちには自分たちの置かれた事情を説明する義務のようなものがあると思っているように思う。
少なくとも僕の思う彩ちゃんは僕にだけすべてを話し、ほかの人には何も話さないというような自分勝手な子ではないはずだ。
「別にそんなことしなくてもいいよね? 一緒に聞いちゃった方が話が早いし。間宮さんにはごめんなさいになるけど」
芽衣がもっともなことを言う。
何も間違っていない。正しい。否定するところがないほど真っすぐで正しい。
「……ごめんお兄ちゃん。こんなことが言いたいわけじゃないの。私はただ―――」
突然謝った芽衣に困惑する僕。そんな僕を気にした様子もなく芽衣は言葉を続ける。
「お兄ちゃんにちゃんと覚悟があるのかって聞きたかったの」
さっきまでと打って変わって芽衣の表情は険しいものになっていた。
まるで僕のことを試すかのようなその瞳にいつにもない真剣みを感じる。
「私はさ、お兄ちゃん。お兄ちゃんが今までどうやって人を助けてきたのかほとんど知らない。ううん、知らないように、知ってしまわないようにしてきたからわからない。だから、今回よりもすごい出来事をお兄ちゃんはもう経穴しちゃってるのかもしれない。でも、私はそれを知らない。だから聞くの」
芽衣の瞳と僕の瞳が交わる。
「ちゃんと、覚悟はできてるの?」
掛けられた言葉に僕はすぐに返すような真似はしなかった。
すぐに返事をできればそれはカッコよかったのかもしれない。頼もしく思えたのかもしれない。でも、軽く思われてしまうかもしれない。僕はそれが怖かった。他人から、友達から、妹から、家族から、自分のやっていることに責任も持てないくせに、人を助けたい、困ってる人を笑わせたい、なんてふざけたことを言ううな。そう言われたくなかった。思われたくなかった。
僕は僕なりに一生懸命取り組んでいる。あの人に憧れて、あの人を追って、あの人に焦がれて、あの人に追いつきたくて、あの人の隣に並びたくて、もう叶うことのない思いを胸に、僕は今まで頑張ってきた。
だから、みんなに恥じないように、あの人に恥じないように、僕は慎重に言葉を選んで、選び出して、選び抜いて言葉にしようと間を置いた。
そしてどうにか答えらしいものを見つけ出した僕はそれを口にする。
「できてるよ。ちゃんとできてる」
たった一言、僕はそう言った。
その一言には僕なりの様々な感情や思いが込められていて、どう伝えたらいいのかわからないものも含まれている。全部わかってもらえるなんて思ってない。ちゃんと大事なことさえ伝わればそれでいい。
「……そっか」
僕の方から視線を外し、少し遠くを見るような目で芽衣は小さく言った。
「ごめんねお兄ちゃん……。私、嫌な妹だったよね……」
俯いて芽衣が言う。
「そんなことないよ。芽衣は僕と彩ちゃんたちを心配してくれたんだ。それなのに嫌な妹なわけがない。芽衣は、僕の最高の妹だよ」
心から言った。
嘘偽りなど微塵もない。欠片もない。それは今までも、これからも一緒だ。自信を持って言える。
芽衣は僕の最高で最愛の妹だ。自分の妹が芽衣じゃないなんて想像もできない。想像もしたくない。僕は、芽衣が僕の妹じゃなきゃ嫌だ。
「素敵な兄妹愛ですね」
今までの僕らの会話に口一つ挟まずに見守ってくれていた彼方ちゃんが笑顔で言う。
「私も、佐渡さんみたいなお兄ちゃんや、芽衣ちゃんみたいな妹が欲しかったです」
純粋な思いを口にする彼方ちゃんの言葉に僕と芽衣は何も言い返せずに照れ隠しをするように顔を真っ赤にして背ける。そんな僕らの姿を見て彼方ちゃんがさらに顔を華やかにする。
「佐渡さん……」
「な、何かな?」
まだ顔が真っ赤で、照れからくる緊張のせいで上手く言葉が紡げそうになかったので短く返す。
「やっぱり肝心なことは佐渡さんに任せてしまうことになってしまいました。でも、私もちゃんと協力したいです。だから彩ちゃんとの話が終わったら、私にも聞かせてください。手伝わせてください。できることはあまりないですけど、佐渡さんの支えになることくらいなら私にもできると思います」
真っすぐ純粋な言葉に一瞬言葉を失う。
今までだって僕は彼方ちゃんに助けてもらってきた。心の支えになってもらっていた。折れそうになる心を繋ぎとめてもらっていた。でも、何を今更、とは思わない。
「頑張ってきてください、佐渡さん。明日、期待してます」
「……うん!」
可愛らしい顔で微笑んでくれる彼方ちゃんに僕は精一杯の覚悟を込めた返事をする。
「お兄ちゃん。彩ちゃんを泣かせたら許さないから」
「わかってるよ。絶対に泣かせたりしない。するのは―――」
することは決まっている。
僕が彩ちゃんと麻耶ちゃんにすることは最初から、二人が何かを抱えていると分かった時から決まっている。
「笑顔だけで十分だよ」
心配を掛けまいと、自身をもって宣言する。
頼りないかもしれない。信じられないかもしれない。でも、任せてほしい。
絶対に、二人を笑顔にして見せるから。
そんな意味を込めた僕の言葉に芽衣と彼方ちゃんの二人は微笑を浮かべる。
そんな二人の女の子の思いを一心に背負い、僕は自分の部屋へと足を向けた。