26話
久しぶりの自分の部屋の中で、数十分もの間転がり続けていた僕は、ようやく気持ちが落ち着いてきたので、居間に向かうことにした。
「い、一応洗面所で顔を見ておこう……」
自分で自分の顔を見ることはできない。生憎おしゃれなどに気を使ったことが生まれてこの方ない僕の部屋には鏡というものが存在しない。鏡を使う僕の用事なんて、寝癖の確認と歯を磨く時くらいだ。そんな僕のために専用の鏡は必要なかった。洗面所の鏡だけで充分である。
階段を下り、居間をの戸を通り抜けて、ひとまず洗面所へ。
「顔は……赤くないみたい。これなら大丈夫かな」
洗面所で自分の顔の色を確認し終えた僕は、なんてことなかったかのように振る舞えるように深呼吸を何度か繰り返す。そして、三回ほど深呼吸を終えた僕は居間の戸を開けた。
「あ、おかえりなさい佐渡さん。お疲れ様です」
居間へ戻ってきた僕に最初に声をかけてきてくれたのは、今回の帰省で僕の一番の協力者である彼方ちゃん。いつもと変わらない可愛らしい笑顔で僕を出迎えてくれる。
「せーちゃん。ただいまー」
次に僕を出迎えてくれたのは麻耶ちゃん。元気いっぱいの麻耶ちゃんを見ると、こっちまで元気が出てくるから不思議である。彼方ちゃんが僕に癒しと勇気を与えてくれるのだとしたら、麻耶ちゃんは僕に元気をくれている。
「それにしても遅かったね、お兄ちゃん。間宮さんが戻ってきてから十分以上たってるけど、何かあったの?」
「ですってよ、佐渡。教えてあげたら?」
最後に声をかけてきてくれたのは芽衣と間宮さんだ。芽衣は少し心配げな子を、間宮さんは悪戯な笑みを僕に向けている。どうやら間宮さんは僕に助け舟を出してくれないようだ。心の中の天秤で、僕をからかうことと、僕に助け舟を出すことで、僕をからかうことが勝ったのだろう。
それにしても、なんと返事をしたらいいんだろうか?
さっきの間宮さんとの会話と昨日の電話でのやり取りをすべて話して、色々あった結果、恥ずかしさのあまり部屋で顔を真っ赤にして転げてた。なんて、さすがに言えない。
「ちょ、ちょっとね。明日のことで自分なりに確認しておきたくて」
「ふーん。それにしては確認が早いね。話し合った後すぐに確認するなんてさ」
「う、うん。ほ、ほら、僕はドジだから回数を重ねておいた方が良いと思って……」
「むー……」
芽衣の鋭い視線が僕に突き刺さる。彼方ちゃん辺りは素直だから僕の言ってることを信じてくれているみたいだけど、芽衣は違う。兄妹ということもあり、僕の嘘を見抜いてくる可能性は非常に高い。間宮さんみたいに内容まではバレないだろうけど、怪しんでいるのは目を見れば確実だ。
もし、「嘘ついてるでしょ?」なんて言われたら、彼方ちゃんの僕のことを何も疑いもせずに見る目も相まって、すぐに本当のことを話してしまいそうだ。
「そ、そんなことよりさ」
だから僕は先手を打って話題を自分から変えることにした。
これが、僕が間宮さんとの会話で培ったこんなときの対処法である。問題なのは、この対処法でも間宮さんはごまかせないところだ。
「彩ちゃんはどこにいるの?」
あまりにも無理やりな話題変更と思われるかもしれないけど、実際ここに彩ちゃんの姿はない。僕と間宮さんが上で話しているときに階段を誰かが上ってくるような音は聞こえなかったし、トイレは洗面所の隣で、さっき僕が鏡を見に行った時に誰もいなかったように思う。
他の部屋に一人でいる可能性もあるけど、麻耶ちゃんを一人この部屋に置いて彩ちゃんだけが部屋を移動しているとはとても考えづらい。
つまりは、僕のこの質問は突発的に考えたにしては、結構怪しまれないような質問のはずだ。
「彩ちゃんなら、佐渡さんのお母様が買い忘れた野菜を買いにお使いに行ってます。みんなで行こうって話してたんですけど、彩ちゃんが泊まらせてもらうお礼に自分が行くって」
「えっ? 大丈夫なの? まだ全然こっちの道とかわからないよね?」
「はい……。だから、芽衣ちゃんだけでも行くって言ってたんですけど、彩ちゃんが一本道なら迷いようがないので大丈夫ですって」
「そうそう。私も心配だったから説得しようとしたんだけど、押し切られちゃって……。ホントはこっそり後ろから付いて行こうかなって思ったんだけど、この田舎道の一本道じゃすぐにバレちゃうし、一本道だから大丈夫かなって思って、一人で行かせちゃった……」
説明してくれた彼方ちゃんと芽衣の顔が少し暗くなる。二人が彩ちゃんのことを本気で心配してくれている証拠だ。そして、二人同様、僕も彩ちゃんのことが心配だ。
芽衣の言う通り、ここから無人の野菜販売店までは家を出て右に曲がり、あとは一本道だ。途中に曲がり角がいくつかあるにしても、紛らわしい道は一つもなく、あえて間違おうとしなければ間違いようがない。
しかし、それを考慮したとしても見知らぬ土地に小さな少女が一人、心配な材料の方が多すぎる。
「大丈夫よ。彩ちゃんしっかりしてるし、ここから片道二十分くらいの場所でしょ? 彩ちゃんにとってお使いにもならないんじゃない?」
どんどんと暗くなる僕達をそう励ましたのは間宮さんだ。
でも、僕は知っている。口ではこんなことを言っていても間宮さんも内心は彩ちゃんのことを心配している。僕の知っている間宮さんはそういう人だ。それでも、それを表に出さず、周りを安心させるように振る舞う、僕が間宮さんを見習わないといけないことの一つだ。
「そうだね。僕と違ってしっかり者の彩ちゃんだもん。なんてことない顔して野菜を買って戻って来るよね」
「そうですよね。彩ちゃん、あんなにしっかりしてるんですもん。大丈夫ですよね!」
間宮さんの助け舟の一番に乗っかって、協力することにした僕。その言葉で彼方ちゃんと芽衣の顔に明るさが少しだけど戻った。さすが間宮さんと言わざる負えない。
「……でも、本当に大丈夫かな。今日の天気予報だと午後から少しずつ天気が崩れるって言ってたんだけど……」
芽衣の言葉に全員が窓の外に目を向ける。
お世辞にもいい天気とは言い難い空模様だった。雲が空を覆い、遠くの空にはたくさんの黒雲が固まっている。それは、そう時間もかからない内に大雨が降ってくるだろうことを僕ら示していた。
「大丈夫ですよ。だって、芽衣ちゃんや佐渡さんの話だと、片道二十分位のところに無人販売店はあるんですよね? 彩ちゃんがお使いに出かけて、まだ十分くらいですけど、雨が降るまでには間に合いますよ」
空気を読んでか、彼方ちゃんが明るい声で言った。でも、その声は少し震えていて、内心心配していることが僕にもわかった。
そして、この会話の十分後。すごい風が吹き始め、雷が鳴り、徐々に雨が降り始めた。
さらに十分後、風のせいで雲の動きが早まったのか、雨は大雨に変わり、風も突風になり、雷の頻度が増えた。
しかし、みんなの集まるこの居間に、彩ちゃんの姿はない。
嫌な予感が的中した。
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「僕、彩ちゃんを探してくるよ」
雨風が強くなり、雷まで鳴り始めた外を見て、僕は我慢しきれずにみんなにそう提案した。みんなも僕と同じ考えだったようで、顔を合わせてから一斉に頷く。
「それじゃあ、みんなで手分けをして探しましょう。遠くに出かけたわけじゃないですし、みんなで探せばすぐに見つかるはずです」
意気込んでそう話すのは彼方ちゃん。優しさの塊のような彼女にとって、今までの我慢をしている時間は苦でしかなかっただろう。でも、それは他のみんなも同じで、僕だって同じだ。この短時間に何度外に飛び出そうとしたか、もう覚えてない。
「彼方ちゃん」
気合を入れる彼方ちゃんに、これから僕はさらに酷なことを言うつもりだ。
もちろん、そこに悪意はない。僕が僕なりに考えたことだ。
「彼方ちゃん。彩ちゃんを探しは僕一人で行くよ」
「ど、どうしてですか!」
一瞬、困惑した顔を見せた彼方ちゃんが、珍しく声を荒げた。
「みんなで探した方が絶対に早く見つかります。この辺の土地に詳しくない私でも、誰かと一緒に行ってサポートすることくらいはできます。もし、私のことを気遣ってくれているんだとしたら、気持ちは嬉しいですがいりません。私たちがこうしている間にも、彩ちゃんは一人泣いているかもしれない、それをわかってて、見過ごすなんて私にはできません!」
彼方ちゃんの優しい気持ちがこれでもかと、僕の胸に響いてくる。
わかる。わかってる。彼方ちゃん―――君がこの中の誰よりも優しいのは僕が一番わかってる。彼方ちゃんが今までどんな気持ちで家に留まって居てくれたかも、わかってるつもりだ。
だって、僕だって同じ気持ちだったんだから。
気持ちがわかる。言っていることもわかる。ちゃんと―――わかってる。
「彼方ちゃん……僕は別に彼方ちゃんたちを気遣ってるわけじゃないよ。もちろん、心配はしてるけどね。―――でも、ここは僕に任せてほしい」
なんで僕がこんなことを言い出したのか。それは僕のわがままだ。
昨日、彩ちゃんは僕に少しの弱みを見せた。その時は運悪くそれ以上のことを話してはくれなかったけど、彩ちゃんが今の状況で心を擦切らしているのだけは僕にもわかった。
あの時から僕は、彩ちゃんがなにか話してくれないかと思っていた。頼ってきてくれないかと思っていた。でも、その願いは叶わずに今を迎えている。
そして今、おそらく彩ちゃんは困っている。そんな気がする。
そしてそれは、僕が彩ちゃんと心を通わせる最後のチャンスのような気もするのだ。ここでみんなで動いて、僕以外の人が彩ちゃんを見つけて、笑って戻ってくる。それはそれでいいことだ。でも、そうなってしまったら、彩ちゃんの本当の笑顔を僕は二度と見れない気がする。
何かが終わってしまうような気がする。
こんなのは、ただの僕の直感で、わがままで、傲慢だ。
それをわかった上で、知っている上で、僕は彼方ちゃんに無理を強いてまでお願いしている。
そんな僕の心情を表情から察したのか、彼方ちゃんが怒りを鎮めてくれた。
「何か……佐渡さんなりの考えがあるんですね……」
「うん。考えというよりは、僕のただのわがままなんだけど、僕はこれを機に彩ちゃんとしっかり話したい」
僕の言っていることはある意味最低なことだ。
心が弱り切っている小さな女の子の、心の隙に付け入って強引に弱みを聞こうとしている。隠していることを無理やり聞き出そうとしている。
最低で、最悪で、ひどい行為だ。自分でもそう思う。
でも、例えこの先彩ちゃんたちに嫌われてしまうのだとしても、僕は彩ちゃんたちをお母さんの元に帰してあげたかった。笑わせてあげたかった。
笑顔でいてほしかった。
「お願い彼方ちゃん。このとおり!」
僕はゆっくりと頭を下げた。
「彼方さん……私からもお願いします。お兄ちゃんはバカだけど、いつも真剣なんです。だから、ここは私とお兄ちゃんに免じて兄の我儘を聞いてあげてください」
芽衣も僕に続いて彼方ちゃんに頭を下げてくれた。
本当に、僕にはもったいない良い妹だ。
「はぁ~。彼方ちゃん、わかってると思うけど、こうなったらこの二人はてこでも動かないわよ」
間宮さんも僕らに小さな助け舟を出してくれた。
そこにあるのが、呆れなのか、同情なのか、他の感情なのかはわからないけど。
「……わかりました。確かに、この家で待っている人も必要ですもんね。だから今回は―――いいえ、今回も佐渡さんにお任せします」
そう言ってくれた彼方ちゃんに僕は頭が上がらない。だって僕は、彼方ちゃんなら絶対に許してくれると思っていた。それはもちろん、僕が彼方ちゃんを信用してのことだ。でも、それは逆に言ってしまえば、彼方ちゃんの優しさに、弱みに付け入ったことになる。
全く、人を傷つけたくないとか言っておいて、僕はみんなに我慢を強いてばかりだ。
もっと強くなりたい。力じゃなくて、心が。
「ごめん……彼方ちゃん」
僕のとれるせめてもの償いは謝罪だけ。だから僕は彼方ちゃんにもう一度深々と頭を下げる。
「佐渡さん。気にしないでください。私が決めたことなんですから。だから、謝罪なんてやめてください。言うならお礼でお願いします」
「お礼?」
「はい。言われる方も、謝られるよりお礼を言われた方が嬉しいです。どうせ結果が同じなら少しでも嬉しかったり、楽しかったりする方がいいじゃないですか。だから、謝罪よりお礼の方が私は嬉しいです」
そう言って笑う彼方ちゃんを見て、僕は天使を想像した。
優しくて、暖かくて、眩しい。きっと彼方ちゃんは誰よりも優しく、誰よりも心暖かで、誰よりも眩しい。僕なんかが及びもつかないくらいに。
そんな彼女に、僕ができることは一つしかない。
今教わったばかりの、たった一言。
「ありがとう」
謝罪じゃなくて、お礼の言葉。
彼女が僕に求めた言葉。
それを僕は、口にした。
「はいっ! でも、絶対に彩ちゃんを連れて戻ってきてくださいよ。もし、連れて帰ってきてくれなかったら、私でも怒っちゃいますからね」
「うん。絶対に連れて帰るよ。怒られるのは怖いからね」
どうにか和解をした僕と彼方ちゃん。
でも、僕にはもう一人説得しないといけない子がいる。
「まーちゃんはいくよ! あーちゃんがないてるかもしれないもん!」
彩ちゃんの妹、麻耶ちゃんだ。
「麻耶ちゃん。見てわかるだろうけど、外は雷さんがゴロゴロ鳴ってて怖いよ? 風邪さんもビュービュー吹いてるし、雨もザーザーだよ? おへそ取られちゃうかもしれないし、風に飛ばされちゃうかもよ?」
まず最初に麻耶ちゃんを説得してくれたのは、今僕に我慢を強いられたばかりの彼方ちゃんだ。
「でもいく! あーちゃんがまってうもん!」
「でもね、麻耶ちゃん―――」
「いくもん! ぜったいにいくんだもん!!」
今まで笑顔を絶やすことのなかった麻耶ちゃんが初めて別の感情を見せた。
それほど、お姉ちゃんである彩ちゃんのことが心配なのだろう。
「まーちゃんがないたり、こまったりすると、あーちゃんいっしょにいてくれる。だから、あーちゃんがないたり、こまってるなら、こんどはまーちゃんがあーちゃんといっしょにいてあげるの!」
ずっと良い子だった麻耶ちゃんが言った、初めてのわがまま。
子供らしい、けど、言ってることは下手な大人よりずっと立派だ。
「お兄ちゃん。私と彼方さんで麻耶ちゃんはどうにかしておくから、お兄ちゃんは早く彩ちゃんを探しに行ってあげて」
「でも……」
「でもじゃないよ。彼方さんに無理聞いてもらったんだから今度はお兄ちゃんが無理を聞く番。これで貸し借りもなし。それでいいよね、彼方さん?」
「うん。もちろん。……佐渡さん、芽衣ちゃんの言う通りです。麻耶ちゃんは私たちに任せて佐渡さんは彩ちゃんをお願いします」
「ごめ……ううん。ありがとう」
僕はいったい、何度彼女たちに感謝をすればいいのだろう。
彼方ちゃんにも、芽衣にも、これはもう頭が上がりそうにない。
今度、二人にパフェでも奢ってあげよう。
「行ってくるね!」
「はい、お気をつけて」
「気を付けてね、お兄ちゃん」
「まってっ! まーちゃんも!!」
二人には応援を、一人には制止の声をかけられつつ、僕は居間を後にした。