8話
次の日の朝、僕はテレビと一緒に今日の大学をどうするか一生懸命に考えていた。
今日、僕が住むこの東京に台風と呼ばれるものが来ている。
テレビの中ではこんな日だというのにニュースキャスターのお姉さんがカッパに身を包み、最初の原型を残していない傘を風に飛ばされないように差しながら、いつもは出さないような大声で今の状況を必死に中継していた。
「早く帰してあげて~。もうお姉さんが可哀想だよ。もう今日が危ない日だって十分にみんなに伝わってるからっ」
返事が返ってくるはずがないのに、つい、テレビにお姉さんに救いの手を差し伸べるように頼んでしまう。
あまりに可哀想でテレビを画面を見ていられなくなった僕はチャンネルを回す。
が、どこのチャンネルも今日の台風のことばっかりだ。ただお姉さんがお兄さんになったり、少し年を取った人に変わったり、複数人に増えたりするだけ、どこのチャンネルも台風一色だった。
結局テレビを見ていられなくなった僕はテレビの電源を落とし、窓から外の景色を見る。
窓から覗く空はすでに夜なんじゃないかというくらい真っ暗で、空からはダムを真っ逆さまにひっくり返したんじゃないかってくらいの勢いで止めどなく雨が降り注ぐ。その音もいつもの様なしんみりと心の落ち着く様な音ではなく、例えるなら映っていないテレビの砂嵐の様な状態の音がしている。
さらに極めつけは暴風と言ってもおかしくない風。窓や玄関の戸を壊す勢いで叩きつけ、軽い子供くらいなら宙に浮かせてしまうんではないかと疑ってしまいたくなるくらいの暴風。
僕だって今の状況なら傘を持って外に行けば浮いてしまうんじゃないかと本気で思ってしまうくらい。
実際は傘が一瞬で壊れて強制終了になってしまうんだろうけど。
それに僕の家にではそういうことになっていないけれど、ある一定の地域では家に浸水してきてしまったり、津波の心配が懸念されていたり、中には家の屋根の瓦が飛んでしまっている家なんかもあるってさっきテレビで言っていた。
空は漆黒、雨はダム決壊、風は暴風、家は浸水、津波の恐れあり、家の屋根の瓦は飛ぶ。
今日の台風の状況を完結にまとめてしまえばこんな感じになる。
そして今日東京に来ている台風はそれくらい大きな規模だということだ。
それに最悪なことはさらに最悪なことが重なる。それは今回の台風の進行速度が極めてゆっくりで今日一日から、明日の午前中くらいまではこの調子が続くというのだ。
それをさっきニュースで見た僕は正直ぞっとした。
大学に行けない件はこの際どうでもよいのだ。僕はしっかり単位は確保しているし、一日や二日休む件に関しては本当に問題ない。
では、何が問題なのか―――
「洗濯物は干せない乾かない。食材を買いに買い物にも行けない。 暇つぶしの散歩にも出かけられない。……どうしたらいいんだろう……」
今日一日、どうやって暇をつぶすか、それが問題なのだ。
ただでさえ休日を過ごすのに苦労している僕なのに、こう考えてもいなかった休日が入るとどうにも困る。
本当にどうしよう。
そんなことを考えながら、とりあえず洗濯物でも回そうかと洗い物をまとめた籠をお風呂場まで取りに行こうとしたその瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろう……?」
そんな独り言すら、この雨風の音にかき消される。
僕は、こんな日に外で人を待たせるのもなんだと思い、少し小走り気味に玄関へと向かう。
そして一分もしないうちに玄関までたどり着いた僕は、勢いのままドアノブを握り、回す。
ドアを開けると、そこには漆黒の雲に大量の雨、吹きすさぶ風に轟く雷鳴。
そしてそこには―――
「間宮さん……?」
全身雨に濡れ、暴風に髪が乱された
間宮さんが立っていた。
「ど、どうしたの間宮さん!? こんな日に傘の一つも差さずに! えっと……とにかく中に入って!」
間宮さんの現状に一瞬思考を放棄しかけた僕は僕にしては上出来と言える速さで我を取り戻し、全身びしょびしょの間宮さんをとりあえず家に上げる。
僕は家の中に戻る勢いのまま居間に戻ってできるだけ大きなタオルを持って玄関まで戻った。
「まずはタオルね! これで身体拭いて。あと、シャワーも貸すから浴びてきなよ。そのままじゃ風邪ひいちゃう。そのあとも僕ので悪いけど服貸すから」
我ながらこんなにてきぱき行動できたことは人生で初めてなんじゃないかと思うくらいの冷静かつ迅速な行動。
それに僕はこの間にも温かい飲み物の準備を進めている。
「……」
でも、僕の動揺とは裏腹に間宮さんは今の空模様をそのまま映したような暗い顔で、無言で、僕の渡したタオルで体を拭くどころか触れようともせずに水を滴らせたまま、キッチンでホットミルクを作る僕を見つめてこう言った。
「……佐渡……今日……泊めてくれないかしら……?」
今日は天気だけでなく、僕の人生のうちの一日としても嵐の予感がした。
―――――――――――――――――――――――――――――――
「……うん。一日でも二日でも間宮さんの好きなだけ泊まっていきなよ。でも、まずはお風呂に入って、温まって。その間に温かい飲み物とか食べ物、用意しておくから」
「……うん」
短いやり取りを交わし、間宮さんは重たい足取りでお風呂場へと向かって行った。
僕は間宮さんがお風呂場に入ったのを確認してから居間に行って間宮さんに着てもらう服を用意し、シャワーの音が聞こえたのを確認してから間宮さんに確認を取って、返事をもらった後に中に入って籠の中に着替えを入れる。
その後、先ほどから作っていたホットミルクを温かい状態で飲んでほしかったので、一定の温度に保ちつつ、何か適当な料理を作る。
「間宮さん。どうしたんだろう……」
玄関に立っていた間宮さんのことを思い出す。
今までにこういうことがなかったわけではない。
雨で電車が止まって、帰れなくなった時にしばらく家に居たり、そのまま泊まることもあった。
他にも、買い物でこっちの方に来ていて雨に降られたから雨宿りさせて、なんて言って来たこともある。
でも、今日は違う。
「あんな間宮さんの顔……初めて見た……」
僕は今まで、あんなに落ち込んだ表情の間宮さんを見たことがない。
間宮さんは普段あんな表情は決して僕たちには見せてくれない。どれだけ辛くても、苦しくても自分でどうにかしてしまう、できてしまうのが間宮さんだ。
その間宮さんが、普段鈍いと言われている僕にでもわかるくらい、あからさまに落ち込んでいた。
いや、困っていた。
「とにかく、今は僕にできることをしよう。温かい飲み物、温かい食べ物、事情を聞くのはそれからでもいいはずだよね」
僕はない頭を使うより今自分にできることをしようと料理を再開する。
「でも……できることなら……」
できることなら
―――間宮さんの抱えているものをどうにかしてあげたい。
そう思わずにはいられなかった。
それから少しして間宮さんがお風呂から上がってきた。
先ほどと同じように髪は濡れているけど、その髪からは少し温かみを感じる。ような気がする。
着ている服は僕の服だ。さすがに間宮さんの服をすぐに乾かすことはできなかった。
女の子や女性の服を触るのは今の僕にはハードルが高い。彼方ちゃん、奏ちゃん、桜ちゃんの時も服はよかったけど、最後まで下着はどうしようもなかったので自分でどうにかしてもらった。
そのことで奏ちゃんを苦労して説得したのは記憶に新しい。
間宮さんの表情は先ほどと同じく晴れない。まるで今の空模様を鏡に映したようにどんよりと曇っている。それを見ているだけでこっちまで気分が落ち込んでくる。
でも、ここで何もしないのは一番してはいけないことだと僕は思う。
だからこそ、ここはなけなしの勇気を振り絞って間宮さんに聞こう、何があったのか、どうして泣いているのか、どうしてそんなに悲しそうなのか、苦しそうなのか、その全部を、間宮さんの心を聞こう。
そうは思うものの、体は心のように簡単に動いてはくれない。こうしよう、ああしよう、そうは思っても実行するのは難しいのだ。それを僕は何度も経験しているのに成長できていない。
もし、僕が間宮さんに事情を尋ねてさらに傷つけてしまったらどうしよう。下手に聞いて傷つけるくらいなら時間が解決してくれるんじゃないか、と任せてみたくなったり。そんな今は考えるべきではないことばかりが頭を支配して、どうにもあと一歩を踏み出させてくれない。
本当に、こんな自分が嫌になる。
「い、今ホットミルクとご飯持ってくるね。そこ座ってて」
結局、先ほどから温め続けてきたホットミルクと作り終えた朝食を持ってくるという、現状からの逃げを選択してしまった。
本当に、本当に、なんであと一歩を踏み出せないのか。
傷つけるのが怖くて、誰かが傷ついてるのを見過ごすなんてそんなの
そんなの―――
「……ただの、腰抜けだ」
僕が決意を固められずに越し抜けている間に間宮さんは僕の出した料理を食べ切ってくれた。最初こそ無言のまま指一つ動かしてくれなかったのだが、十分ほどたったころ、僕に悪いとでも思ってくれたのか間宮さんはゆっくりとした動作で箸を握り、そのままのスピードで料理を食べ始めた。
僕は間宮さんが料理に手を付けてくれたことにひとまず安心してホッと一息をして、そのまま間宮さんに何かを聞けるわけでもなく時間をただ無駄に費やした。
耳に届くのは窓の外から聞こえてくる激しい雨音と雷の轟。激しい風が窓を打つ音、あとは間宮さんが箸を動かす音だけだった。
無言のままでいるのにいたたまれなくなった僕は間宮さんの使い終わった食器を片すという名目のもと、キッチンへと一旦逃げるように移動した。
食器を流し台に置き、すぐに居間に戻ればいいのに戻れない。足がすくんで動かない。理由はわかってる。間宮さんだ。
本当に間宮さんが困っているのにあの間宮さんが困るようなことを僕にどうにかできるのか? なんて考えて行動ができない僕は情けない。
そしてそんなことを考える僕が、僕は嫌いだ。
頭ではわかっているのだ。
間宮さんが困ってる。友達が困ってる。仲間が困ってる。知り合いが困ってる。そんなことは言われなくたってわかってる。どうにかしなくちゃっていうのもわかってる。本当に、本当にあと一歩が踏み出せないのだ。
間宮さんがどうにもできない問題を僕なんかにどうにかできるのか、それだけが頭をウイルスのように支配している。
今まではよかった。彼方ちゃん、奏ちゃん、桜ちゃん、今までの三人は出会う当初まで何も知らなかった。何も知らなかったから何も気にせずに助けにすぐに入れた。桜ちゃんの時は知っているにしてもそんなにまだそんなに知らなかったからどうにでもなった。
でも、今回は違う。相手は間宮さんだ。高校の時からの知り合いで、仲間で友達だ。大学も一緒になってもう3年以上の付き合いになる。
僕は間宮さんをたくさん知った。いや、今回の場合は知り過ぎたといった方がいいかもしれない。
間宮さんがどんなにすごい人間なのかを知っているから、わかっているから、理解しているから、だからこそ、僕なんかがどうにかできるのかと思ってしまう。
これが小さな問題なら良かった。間宮さんが軽い感じでこれこれこういう事情だから助けて、そう言ってくれれば僕はすぐにでも動けたはずだ。いつもみたいに簡単に人助けという名の自己満足に乗り出せたはずだ。
でも、今回は問題が大きそうだ。
今までのどの問題より大きな問題を間宮さんは抱えている。そんな気がするのだ。
居間に戻るのがなんだか息苦しくて、少し戸を開けて間宮さんの様子を伺う。
そこには声を殺して、ひそかに涙を流す間宮さんがいた。
涙を流している女の子―――間宮さんがいた。
何をやっていたんだろう僕は。頭ではわかっていたんじゃなかったのか。間宮さんがこんな僕を頼るしかないくらい追い詰められているのがわかっていたじゃないか。どうしようもなく打ちひしがれていたじゃないか。
それなのに僕ってやつは!
「ううん! 違うだろ佐渡誠也! 今は自分を責めてる場合じゃない! 困ってる友達を、間宮さんを助けるのが先だろ! 今困ってるのは僕じゃない! 間宮さんじゃないか!」
ここまできてようやく僕のなけなしの勇気が振り絞られた。こんな最後の最後まで絞られない僕のちっぽけな勇気がようやく本気を見せてくれた。
今なら動ける。間宮さんから事情を聴ける。
助けてあげられるか、支えてあげられるかは関係ない! そんなことはあとで考えていけばいい!
僕はようやく振り絞られた勇気とともにキッチンと居間を繋ぐ戸を開ける。
そして―――
「間宮さん。遅くなってごめん。何があったのか聞かせてくれないかな? どうして間宮さんが泣いているのか、苦しんでいるのか、悩んでいるのか、その理由を……。僕に教えて、救わせてほしい」
ここからが、僕が頑張る時だ。
勇気を振り絞り、気合十分の全力状態で間宮さんのいる居間に戻った僕は僕にしては我ながら珍しく、自信に満ち溢れた表情と声音で間宮さんに第一声を投げかけていた。
あとは簡単だ。走り出してしまったのならあとはゴールまで走り抜けるだけ、たとえタイムが遅くても、途中で転んでしまっても、何があってもめげずに最後まで走りきるだけだ。
間宮さんの話しを聞いて、一緒に悩んで、できることをするだけ。
そう、今まで通り、困ってる人がいたら助けていたように、悩んでいる人がいたら一緒に悩んでいたように、今までと同じようにしてあげるだけだ。
僕は間宮さんの座る前にテーブルを挟んで座る。
でも、さっきまでとは覚悟が違う。今の僕はしっかりと間宮さんを見据えている。けして下を向いたりはしていない。しっかりと誠心誠意間宮さんの話しを受け入れる覚悟だ。
「さあ、話してみてよ間宮さん。今君が何に困っていて、何に悩んでいるのかを……」
僕の問いかけに無表情を貫いていた間宮さんが少しだけ、本当にわずかに表情を変えた。
「……ふっ……ふふふふふっ……あはははははっ!」
そして、突然大きな声で笑い出した。
「え? い、いきなりどうしたの間宮さん? 突然笑いだして……」
いきなりのことに困惑するばかりで状況についていけない僕をそのまま置いてけぼりにして間宮さんはもう少しの時間だけ笑っていた。
その表情は確かに僕の知っている間宮さんの表情の一つで、けして楽しくない時の間宮さんの顔ではなかった。
そのことに内心安堵しつつも、未だにつかめないまま状況に戸惑うばかりの僕。
「あははははっ。ご……ごめんね佐渡。なんかいきなり佐渡みたいなこと言うから驚いちゃって」
「えーっと、僕は僕なんだけど……」
「わかってるわよ。でも、なんか安心しちゃって。……さっきまで私もどうかしてたけど、佐渡も無言でおどおどしてるんだもの。それでいきなりあんな真面目な顔であんなこと言われたら誰だって笑いたくなるわよ」
「え? え? えっ……?」
ここまで言われてもよく状況が掴みきれていない僕。
え? もしかして僕の勘違いかなにかなのかな?
「ごめんさいね佐渡。さっきまで落ち込んでたのは家に洗濯物をうっかり干してきちゃってこんな天気だから、あー、やっちゃったなー、って落ち込んでただけよ。変に心配かけちゃってごめんね」
「えっとー……。それだけ……?」
「そう、それだけよ。それ以外でも、それ以内でもないわ」
「でも、さっき泣いてたよね? ほら、服の袖少しだけ濡れてるし」
「あー、これ? これは今目にゴミが入っちゃって取ろうとして苦戦してたら少し出てきちゃっただけよ」
「……。……っはぁ~っ」
あまりのあっけない間宮さんの言葉に安心とか、安堵とか、よりも先に全身の体の力が無抜けていくのを感じた。
そしてそれと同時に―――
「なんか疲れちゃったよ」
「ふふっ。ごめんね佐渡。でも、さっきの佐渡の真剣な顔、面白かったわよ」
全身にどっと重い疲れが出た。
「というわけで、今日一日よろしくね、佐渡!」
間宮さんがそう言って寝転ぶ僕の顔の上に自分の顔を出す。
その笑顔は僕の知る間宮さんの笑顔そのもので、違和感一つないように見えて、ほんとうにただのいつも通りの間宮さんに見えた。
ただ、僕がもう少し先の僕だったら、もっとちゃんと友達を見るように言っただろう。
本当に、この時の僕は―――バカだった。