8話
次の日、俺は全身怪我を負いながら学校に登校した。朝の新聞配りは事情を話して今日は休ませてもらった。
登校してみると案の定、みんなが俺の噂をしていた。アイツはやっぱり不良だの、やっぱりそうだと思ってただの、お前らが俺の何を知ってるって言うんだとよっぽど怒鳴ってやりたかった。
そしてこれも案の定、朝から先生に呼び出された。担任の教師も一緒だ。しかし、今回ばかりは、あの俺を信じてくれていた担任も俺を信じてはくれなかった。
午前中、授業にも出ずに、空いている先生が俺を質問攻めにする。お前がやったんだろとか、退学だとか、もう好きにしろって気分だ。
そして待ちに待った昼休み、俺の学校での唯一の癒しの時間。その時間がやっと訪れた。
昼休みだからと先生から解放された俺は急いで屋上へと向かう。全身痛いがそんなのどうでもいい、先輩に会えるのならこんなこと屁でもない。
「あっ! 翔くんっ」
「は……え……? 先輩……?」
屋上で出会った瞬間、先輩にいきなり抱き着かれた。
先輩の柔らかい肌が、まだ痛い俺の全身を包み込む。鼻をくすぐるいい匂い、俺は先輩に包まれた。優しさに包まれた。
なんて安らぐ匂いなのだろう。
「昨日はごめんね、私怖くて逃げちゃって……」
「いや、いいんだ。それより先輩怪我とかは?」
見たところ怪我をしているようには見えない。といっても、今の俺が見えているのは先輩の顔と、膝から下ぐらいだ。上半身は全然見えないし、見たらセクハラだ。
本音を言えば自分の目で確かめたいがここはグッと我慢。
「私は大丈夫。すぐに逃げちゃったから怪我なんて一つもないよ」
そう言って笑顔で俺を見つめる先輩。
あの状況からどうやって逃げたんだろうとか、先輩はいつ逃げたんだろうとか、いろいろ気になるところは確かにあるが、アイツラの狙いは俺だったし、途中からつないでいた手を離してしまって、俺もアイツラの相手に夢中だったことを考えると、どれも大して気にならない。
それに先輩の眩しい笑顔の前にはそんなこと本当にどうでもよかったのだ。
この笑顔を守れたのなら俺はあいつらに殴られたことすらも、どうでもよく思える。
「それよりみんなひどいよね……」
先輩は急に落ちこんだ様子で言った。
「翔君は私のために頑張ってくれたのに、みんながみんな翔君のこと悪く言うんだもん。先生たちだってみんな翔君のことを信じてないし……」
「なんだそんなことかよ。気にしてねえよ。俺は……先輩に信じてもらえればそれだけでいい」
「しょ、翔くん……」
おい、何この雰囲気。
確かに自分でもちょっとクサいながらも格好いいこと言えたかなあ、とか思ってたけど、まさかこんないい雰囲気になるとは。
これなら勢いでキスとかできるんじゃね……?
願ってもないこの状況に俺はこの雰囲気に合わず、そんな下心満載のことを考えていた。
そしてどうしようか悩んでいる俺を尻目に、先輩の持っていた携帯が鳴る。
くそっ! 空気の読めないやつめ。
「ごめん、ちょっとでるね」
そう言って先輩は俺から少し距離を取る。
なんで距離を取るんだろうとか考えたが、まあ先輩にも聞かれたくない話もあるだろうと俺はその場に立ち尽くした。
それに盗み聞きは俺の趣味じゃねえ。……趣味じゃねえのだが……。
「電話の相手が男か……。いや、先輩の彼氏とかじゃないのかだけは気になる」
それだけは気になって仕方がなかった。
「……わりい先輩っ」
俺は小さな声で先輩に詫びてから、先輩に見つからない位置で尚且つ、声の聞き取れる範囲限界まで近づく。
「……うん、上手くやった。……え? ……ちがうじゃない……そ、そんなの……」
断片的にしか聞こえてこないがどう見ても楽しそうな会話ではない。この調子なら彼氏とかではないだろう。それに今になって思えば、俺と一緒にお昼はお弁当を食べたり、休日にデートしたりしてるんだから彼氏がいるはずがない。
そんなことも考えられないほど慌てるなんて俺もバカだな。
そう言って少し自虐的に笑う。
そしてそれから少しすると先輩が戻ってきた。
「ごめーん。待たせちゃったよね? あ、そうだっ! 昨日のお礼と今のお詫びってことでジュース奢ってあげるよ。ちょっと待ってて!」
「え? いや、大丈夫だからっ」
「いいの、いいのー」
俺の返事もまともに聞かず先輩は自販機に向かうために屋上の扉から出ていった。
そしてその時、先輩のポケットから何かが落ちた。
「ん? なんだこれ? 先輩の携帯と……封筒? ……ってこれ……」
俺はその封筒を見て驚愕した。頭を何かの鈍器で殴られたかのような衝撃が俺を襲う。
俺としては先輩が落し物をしたから、先輩が帰ってきたらすぐに返そうと思っていた。少しからかってやろうとか考えてはいたが、ちゃんと笑って返すつもりだった。
なのになんなんだこれは……。
「……なんで、なんで俺のバイト代の封筒がここに……。なんで先輩のポケットから出てくるんだっ!」
何がなんなのか、この状況はどういうことなのか、俺はすぐに受け止めることができなかった。
「なんでだ。なんで先輩が俺のバイト代を……。……そうか、拾ってくれたんだ。先輩はこの前のデートで不良連中に襲われたときに俺が落としたこのバイト代を持って逃げてくれたんだ。それを今返し忘れてた、っと。確かに俺、先輩とデートだからって張り切ってバイト代全額持って行ったもんなー……」
一人、そんな現実逃避を始める。
わかってる。自分で言っていてそんなはずがないとわかってる。だって、先輩はすぐに逃げたと言っていた、連中の狙いは俺ではなく、俺のバイト代、その封筒を持って逃げた先輩を連中が見逃すとはとても思えない。
だとすると……
俺はここで思考を止めた。これ以上の思考は触れてはいけない領域だと本能的に理解した。これ以上のことを知ったら、自分が傷つくだけだと、無意識のうちに理解した。
俺はそれでも、恐る恐る先輩の携帯を開き、待ち受けを見る。
そこには……。
そこには、昨日の不良連中のリーダーと―――
先輩が映っていた。
しかし、この世の中は上手くできている。悪いことには悪いことを重ねるということだけは、本当によくできている。
「……なんなんだよこれは……はははっ……笑えねえ、ホントに笑えねえよ……」
その場に膝から崩れ落ちる。
もう、何が何だかわからない。変な笑いが止まらない。
「ははは……ははっ……あはははは……」
一人、現実逃避を続ける俺。
その時、運よくなのか、悪くなのか、自販機にジュースを買いに行った先輩が戻ってきた。
戻ってきたときは「ごめーん。私、携帯ここに落としてかなかったー?」といつもの元気いっぱいだった先輩が、俺が右手で先輩の携帯を開いていて、左手にバイト代を握っていたのを見て、表情が豹変した。
「……みた?」
今までに見たことのない先輩の表情。こんな怖い顔をした先輩は初めてだ。いつもは天使の様に見えた先輩が、今は……。
悪魔に見えた。
「……見たのね? あーあ、せっかくいいカモだと思ってたのにー。ざーんねん」
表情だけでなく態度、言葉遣いまで豹変していく先輩。
俺の中の何かが壊れ始めた。
「なーにその顔? うけるっ。なに? 本気で私があんたのこと気になって近づいてきたと思った? それとも本気で私に惚れちゃってた? あははっ。なにそれっ、ちょーうけるっ!」
先輩の携帯、先輩のポケットから落ちた俺のバイト代、先輩の豹変ぶり、そのすべてが俺を狂わせる。思考をマヒさせる。
いったい……俺は何を信じたらいい……。
「ねえ、面白い顔してないで何とか言いなさいよ。それともさっきの私の言ったこと図星? ねえねえ。図星? うっそー。マジありえなーい。あんたと恋愛とか無理だから。そーれーにー、私の携帯見たならわかるでしょ? 私には彼氏がいるの。あんたよりかっこよくて強い、卓也って言うカッコいいカ・レ・シ」
……やめろ、……やめてくれ。……これ以上、俺の中の先輩を壊さないでくれ……。
「まあ、騙されたあんたが悪いんだし、諦めなさい。あ、これ、あんたのバイト代、今回のことの授業料として受け取っとくから、携帯もしてね。翔くん」
先輩が笑顔で言った。
でも、今の俺には笑顔に見えない。悪魔の嘲笑に見える。
「じゃーあねえー」
そう言って、手をぶらぶらさせながら先輩は屋上を後にした。
俺は先輩を追うこともできずに、ただ何もせずにその場で立ち尽くし、しばらくして、どこへでもなく走り出した。