剥奪
「エイデン!」遠くにいながら近くに感じる声が響いた。「エイデン!」
「誰だ?」少年は思った。「もしかして俺はこの世を去ったのだろうか?俺は、死んじまったのか?」
「エイデン、目を覚ますのを待っている。どうか戻ってきてくれ!」
「戻る?どこへ?もうあの世にたどり着いたと思った。俺は人生を終えたんだ。なぜなら俺は…」
突然、エイデンの目が大きく開き、驚いて目を覚ました。息は荒いがまだ半ば朦朧としている。発作による視界のぼやけは、時間が経つごとに引いていった。振り向くと、ウィルバートだけでなく祖父の姿も見えた。アダムとウィルバートはエイデンのベッドの横でバックギャモンをしていた。少年は信じられないとばかりにすぐに飛び起きようとしたが、そっと横になるように促された。
「そんなに急がなくていい。八日間も昏睡状態だったんだから、無理して動く必要はない」アダムは厳しくも優しい声で言った。
「じいちゃんは…大丈夫なのか?どうしてここに…」エイデンは言葉を詰まらせながら尋ねた。
「ああ、私は元気だ。手術は成功し、手は完治したんだ」アダムはよろめきながら手をエイデンに見せた。
「手についてる金属は何?」エイデンは戸惑いながら尋ねた。
「実はな、手をちゃんと動かせるようにするには金属板を埋め込む必要があったんだ。通常費用がかかるそうだが、鉱山労働者には無料だったよ」アダムはそう説明し、笑顔で手を動かして実演した。
エイデンはそれをどう受け止めていいのか分からなかった。エイデンは長く続いた発作からまだ回復しきっていなかった。
「俺…何も覚えていないんだ…」エイデンは震える声で言った。
「また発作があったんだ…だから私の入院中は両親と一緒にいてほしかったんだ。ギル、バーン、ウィルバートが様子を見に来たときに発見されたのは幸運だった。お前さんは意識を失って床に倒れていたんだよ」
それを聞いた後、エイデンは何が起こったのかすべての記憶をつなぎ合わせようとした。長い間苦しめられていた幻影が徐々に消えていったからだ。エイデンが右腕を曲げようとすると、耐えられないほどの痛みが走った。袖を引っ張り上げると、エイデンは衝撃を受けた。静脈に穴が開き、痣ができていたのだ。
「すまない」アダムは言った。「たくさんの薬を注射しなければならなかった。意識を取り戻さないかもしれないと、とても心配だったんだ。ウィルバートが見つけた後、一度注射してみたんだが、効き目がなかった」
エイデンは疲れていて何も言えなかったが、祖父にも、黙ってそばに座っているウィルバートにも怒りはなかった。エイデンはわずかながらのエネルギーを振り絞り、ありがとうと言った。
ウィルバートは微笑んだ。「ギルとバーンもずっとそばにいたんだよ。両親に戻って来なさいって言われるまでね。みんなすごく心配してたんだ。ようやく目を覚ましてくれて本当にホッとしたよ!」
「ウィルは今日注射したのかい?」祖父が尋ねた。
「ううん、まだ!」
「それはいけない。注射器の場所は知ってるだろう?」
「わかった、わかった」ウィルバートはそう答え、階下に向かった。
「ウィルバートはいい子だ」アダムはいつもの優しい笑顔で言った。「ゲームの続きに付き合ってくれるかい?」祖父はバックギャモンの盤を指さして孫に尋ねた。孫は祖父からの提案に快く頷いた。
突然、蓄音機から大音量のアナウンスとともにサイレンが鳴り出した。「近隣地域で霧の急激な拡散が記録されています。焦らず、警戒を怠らないでください」
「何が起こってるの?!」ウィルバートが階下から叫んだ。「蓄音機から聞こえた通り、警戒を怠らず、冷静でいるように」アダムは落ち着いた声で答えた。
ウィルバートは躊躇した。「ちょっと、両親の様子を見てくるよ」
「気をつけて向かいなさい。注射器を忘れずにな。今はそれが必要だ!」
ウィルバートは言われた通り注射器を持ち、家を出る前にエイデンに向かって「お大事に」と声をかけた。
「避難した方がいいんじゃないか?」エイデンは心配そうに尋ねた。
「私たちは地下区域にいる。霧は広がり始めたようだが、私たちの地域にはまだ来ていない。郊外のどこかだ。心配することはない。私たちのグリムバーグは完全に覆われることはないだろう。それに地下にいるんだから、一番安全なのは間違いない」アダムはそう答え、孫を落ち着かせようとした。
サイレンの音が鳴り響く中、エイデンは祖父の言葉に安心できずにいた。不安を抑え、共振をかき消そうとエイデンはベッドから立ち上がり、ゲームテーブルに向かった。「始めよう」エイデンは平然とした態度を装った。
そうしてゲームが始まった。孫も祖父もバックギャモンが得意だったが、エイデンに遊び方を教えたのはアダムだった。アダムは長年の経験から、どうサイコロを転がせば欲しい数字が出るかを知っていた。毎回うまくいくわけではなかったが、今日は神の手がアダムの駒を勝利に導いているように思えた。一方で、エイデンはサイレンが鳴り止まないため、ゲームに集中できないでいた。
「気が散ってしまったようだな」アダムは言った。「何かがうまくいかなかったり、思い通りにいかなかったりしても、動揺してはいけない。逆にこういう時こそ勝つことに集中し、自分を追い込まなければならないんだ」
「分かってる。ただサイレンが気になって…」エイデンは答えた。
アダムはため息をついた。「そうだ、エイデンを元気づける方法が分かったぞ!」アダムは階下に向かう前に言った。「きっと気に入るよ」
アダムが冷蔵庫を開けようとしたとき、突然、大勢の人が何かから逃げていくのが見えた。困惑しながら家の外に出ると、信じられない光景が目に飛び込んできた。霧がパイプから出て、雲を形成し始め、地下地区を覆い始めていたのだ。アダムはありえない光景に目を見開いた。急いでエイデンを呼び、家の出口に向かって孫の腕を引っ張った。
「何が起こってるの?」孫は手に持っていたバックギャモンのチップを回しながら尋ねた。
祖父は答えず、ただエイデンの腕を引いて進んだ。エイデンは一週間以上ベッドで寝たきりだったため足腰に負担を感じていたが、選択の余地はなかった。霧は急速に、容赦なく迫ってきていた。
「やばい、来るのが早すぎる!」エイデンは叫んだ。
アダムは振り返って霧を見るなり、慌てて言った。「何も話すんじゃない。逃げる力を温存しなさい!もっと速く走るんだ!」
エイデンは衝撃を受けていたが、発作が起きた時に見た夢や幻覚が現実のものとなったことに愕然としていた。目の前の現実は、容赦無く訪れる幻覚と同じくらい不愉快だった。「どうしてこんなことになったんだ?なぜだ?俺たちが何をしたって言うんだ?」
祖父と孫は急いでその場から避難し、他の鉱夫たちやその家族の群れに混じって、逃げ続けた。生き延びられるかは、足が速いかどうかにかかっていた。
逃げ惑う鉱夫が叫んだ。「これはすべてパイプのせいだ!野郎共がパイプを閉じられなかったから、地上の霧が地下に運ばれてるんだ!バルブも詰まってやがる!パイプが全部霧で満たされてるんだ!」
男によって状況は明らかになったものの、霧は異常な速さで近づいており、それを止める手立てはなかった。アダムは皆が鉱山のリフトに向かっているのを察知したが、そこには全員を収容するスペースがなかった。完全な大混乱だ。数百人、いや数千人が死ぬ運命にあった。
あるいは変貌を遂げ、姿が変わってしまうか…
それはおそらく、死そのものよりも恐ろしいことだろう。エイデンは間に合わなかった鉱夫たちがどんな運命に見舞われたのかを目撃した。霧が人々を次々と飲み込んでいった。男も女も子どもたちも、全員が膝をついて倒れた。乳白色の霧が彼らを上から下まで覆い尽くした。
「北のリフトに向かうんだ。西の方はもう混んでいる。孫よ、急げ!」アダムは息を切らしながら叫んだ。
休む間もなく走り続けながら、エイデンは友人たちが無事に脱出できたかどうかを考え続けた。サイレンが鳴ったとき、両親と一緒に家にいたはずだから、避難できたはずだ。だけど、もしそうじゃなかったら…エイデンは恐ろしい結末を考えないようにしていた。エイデンの疲れた脚は痙攣し始め、走ることが限界になりつつあった。
アダムとエイデンは鉱山の中を素早く通り抜けた。幸いなことに、祖父はすべてのルートと通路を知っていたので、おそらく止まっているか混雑しているであろうケーブルカーを使う必要はなかった。ついに二人は目的地であるトンネルに到達し、目の前にリフトが見えた。
「やった!」エイデンは喜んだ。
「油断するんじゃない」アダムは警告し、孫の手を強く握りながら先頭に急いだ。
祖父の予想通り、特別なホームには人が少なかった。ところが、エイデンたちがトンネルの半分以上を横切ったところで、上から鋭い衝撃が走り、石の天井から巨大な岩が突然崩れ落ちた。あまりにあっという間の出来事だったため、エイデンには何が起こったのか理解できなかった。アダムは渾身の力を振り絞って、エイデンをはるか前方に押しやった。石が耳をつんざくような音を立てて落ちた後、エイデンは祖父とはぐれたことに気づいた。
「そんな…」エイデンは稲妻のような衝撃を受けた。「そんなあああ!」エイデンは絶望を感じながら大声で叫び、手で瓦礫をどけようとしたが、岩はあまりにも大きく、右腕は注射のせいでひどく痛んだ。
それでも身体を限界まで酷使し、激しい痛みに耐えながら、エイデンはひとつの石を動かすことができた。こうして反対側を見れるようになり、大切な人の姿を確認することができた。
「じいちゃん!」少年は涙を流しながら叫んだ。
アダムは石にしがみつきながら、孫の目を見つめた。
「よく聞け、エイデン。何が起ころうとも、両親のもとへ行かなければならん。何よりも大事なことなんだ。両親に愛されてないと思ってるのかもしれないが、それは違う。夫婦は愛し合っていないかもしれないが、お前のことは愛している。頼む、約束してくれ」
「そんな…嫌だ、俺はじいちゃんといたいんだ!じいちゃんを助けるんだ!」エイデンは泣き叫び、狂ったように他の石をどけようとした。「ちくしょう!なんで動かないんだ…」
アダムは涙をこらえきれなかった。「頼む、聞いてくれ、愛する孫よ!私たちの道はここで分かれる。私はもう運命を受け入れたぞ。だから、悲しむことはない。これが自然の摂理だ。変えることはできないんだ」
アダムの背後には霧が見え始め、刻一刻と近づいていた。エイデンはそれを見てさらに大声で叫び、言葉で感情を表現できなくなった。
「少年よ、もう十分だ!」エイデンの背後から低い声が響いた。
エイデンは鉱夫に手を引かれ、出発間際のリフトに運ばれた。最後にエイデンが岩と瓦礫の隙間を通して見たのは、霧に向かって勇敢に歩いていく祖父の姿だった。その後、すべてが黒く染まった。エイデンには目の前が何も見えなかった。発作のせいではなく、トラウマによるものだった。
リフトが上に到達し、人々はみな急いで逃げ出した。日光が少年の視界を再び明るくし、遠くで繰り広げられる戦闘がぼんやりと映った。
それはエグゾナイトの自律戦闘機と、霧に支配された顔のないセラフだった。戦闘が行われている場所は遠く離れていたが、エイデンの視線は瞬時にそこに引き寄せられた。まるで催眠術にかかっているかのようだった。エイデンが望むのは、起こっていることに向かって進むことだけだった。エイデンは何もかもがどうでもよくなっていた。祖父を失い、おそらく友人たちも失った。そして今、エイデンは奇妙な内なる本能にのみ突き動かされていた。
霧はエイデンに呼びかけていたのだ。この死に至る物質に、エイデンは無性に惹きつけられた。幸いなことに、エイデンを地下から連れ出してくれた鉱夫は、エイデンが自殺を犯すことを許さず、戦闘が行われている方向とは逆の方向に連れて行った。エイデンは抵抗しなかった。抵抗できる状態ではなかったが、エイデンの視線は遠く、霧の境界の向こう側にある空を見つめ続けていた。
しばらくすると、男はエイデンを地面に寝かせ、地上に親族はいるかいと尋ねた。エイデンは何も答えなかった。鉱夫は少年の手を握り、穏やかで優しい声で言った。その声は不思議と祖父を思い出させた。鉱夫は少年の手を取り、「おじいちゃんが必死で守ってくれたことを無駄にしてはいけない。おじいちゃんが君の未来を救ったんだ。もし今君が人生を終わらせようとするなら、君は愛していたおじいちゃんを裏切ることになる。君が誰よりも愛していたはずの人をだ」
エイデンの心は深い悲しみのベールで覆われていたが、その言葉はエイデンの中である種の悟りを引き起こし、過去の声が頭の中で繰り返された。「よく聞け、エイデン。何が起ころうとも、両親のもとへ行かなければならん。何よりも大事なことなんだ。両親に愛されてないと思ってるのかもしれないが、それは違う。夫婦は愛し合っていないかもしれないが、お前のことは愛している。頼む、約束してくれ」
「親族か…」エイデンは静かに言った。「親がいる、ゲレホーン地区に」
男は本当に嬉しそうに笑った。「それじゃあ、君を両親の家に連れて行こう」そう言って、エイデンの腕を取った。
2人は出発した。
両親の家に…連れて行ってくれるのか?エイデンは心の中で繰り返した。たくましく広い肩を持つ鉱夫を見つめながら、その顔の特徴は柔らかくないものの、何故か引き寄せられるような優しさがあった。
エイデンの実家に行くには、かなりの距離を移動しなければならなかった。ケイングラッドのほとんど反対側に位置していたからだ。鉱夫と少年は丸一日かけてゲレホーンを目指した。そしてようやく目的地にたどり着いた。エイデンはしばらく第二の故郷を訪れていなかったが、そこに続く石畳の道と、両親が住んでいた家を囲む小さな建物をまだ覚えていた。
「ここかい?」鉱夫が尋ねた。
エイデンは頷いた。男はベルを鳴らし、ドアが開いた。玄関にはエイデンの父が立っていた。父は四十五歳くらいで、肩まで届く長い黒髪と顔には無精ひげがあった。普通の体格で、痩せ型でもなく非常に大きな体型でもなかった。息子を見た瞬間、父は言葉を失い、即座にエイデンを抱きしめた。
エイデンは驚いた。父は誰かを愛するような人ではく、何も期待していなかったからだ。
「エリー、早く来てくれ!」父は呼びかけた。
背が高く、やせっぽちで、おかっぱ頭の女性がドアに駆け寄り、自分の目を疑った。「エイデンなの!」母は叫び、息子を抱きかかえた。
三人で抱き合うと、エイデンは混乱し、灰のようになった心からゆっくりと平穏が湧き上がってくるのを感じた。これはエイデンにとって不思議なことであり、愛おしいことでもあった。エイデンは両親を抱きしめ返した。




