表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ここにいていい ―役立たず転生の私と、無口な騎士団長―  作者: 桜庭 しずく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/2

秘密にしていたい ―王女の私と、騎士団副団長の夏の記憶―


 王女として生まれて、何不自由なく育った――そう言われたら、私はきっと笑ってうなずく。


 甘いお菓子も、季節ごとのドレスも、欲しいものは大抵、黙っていれば手に入った。使用人たちは私に優しくて、転べば手を差し伸べ、眠れない夜には子守歌まで口ずさんでくれた。


 なのに、胸の奥だけが、ずっと空っぽだった。


 理由は、たぶん――分からない。

 分からないから、私はいつも「何かが足りない」だけを抱えて、上手に笑う。


 父も母も、私を見ている。はずなのに、視線が一瞬で通り過ぎる。

 その先には、必ず長兄がいる。王太子。誰もが認める、次の王。


 次兄は、その隣で穏やかに笑う。私はその少し後ろで、飾りの花みたいに微笑む。


 それで、いい。


 そうやって私は、言葉にならないものを、ずっと喉の奥にしまい込んできた。



 その日、私はまた「息が苦しい」気がして、夜の回廊を一人で歩いていた。

 侍女をつけずに廊下を歩くと叱られる。でも叱られるのは、慣れている。私の不在で困る人はいない。


 窓辺に寄ると、遠くに騎士団の訓練場が見えた。松明の火が揺れて、影が踊る。

 あそこだけは、夜でも忙しそうだ。誰かの命を守るための場所。私の世界とは違う。


「……姫様?」


 背後から声がした。軽い調子。けれど、足音は無駄がない。

 振り向くと、騎士団の副団長が立っていた。整った顔立ちなのに、笑みは少しだけふざけて見える。けれど目だけは、いつも周囲を見ている。


「こんな時間に、お散歩ですか。迷子なら抱えて運びますよ」


「……抱えなくていいわ」


 言い返すと、彼は声を殺して笑った。


「はいはい。じゃあ、歩ける姫様には“護衛”が必要ですね」


 護衛。

 その言葉に、私は反射的に肩が固くなった。王女として当然の扱い。なのに、胸の中の空っぽが、いっそう目立つ気がする。


「副団長、あなたはいつも軽いのね」


「軽いのが取り柄です。団長みたいに黙って立ってると、皆、怖がるでしょう?」


 団長――騎士団長レオルト。

 無口で、筋骨のかたまりみたいな人。言葉は少ないのに、そこにいるだけで空気が整う。副団長は、その横でよく笑い、よく場を回している。


「……団長は、怖いのではなくて、強いだけだわ」


「お、姫様、団長の肩持つんですか。珍しい」


「事実を言っただけ」


 副団長は「そういうところ、好きですよ」と言いかけて、途中で飲み込んだ。

 私が眉を上げると、彼はいつも通りの軽い笑みを作る。


「……失礼。姫様に“好き”なんて言ったら、首が飛びます」


「飛ばさないわ」


「団長が飛ばすかもしれません」


 その言い方が妙に現実的で、私は小さく息を吐いた。

 副団長はふと、窓の外を見て言った。


「……湖、見えますね」


「湖?」


「この城からだと、ほら。あのあたり。光が少しだけ反射してる」


 私は目を凝らした。確かに遠く、黒い水面が月を薄く映している。

 心のどこかが、きゅっと掴まれた。


 湖――。


 思い出そうとしたわけじゃないのに、突然、夏の匂いがした気がした。濡れた草、石の冷たさ、陽を浴びた木の匂い。

 そして、誰かの笑い声。


「……副団長、あなたは湖が好きなの?」


「嫌いじゃないです。昔、よく遊んだので」


 言い方が、少しだけ柔らかい。

 ふざけた仮面の下に、別の顔があるのを、私は初めて見た気がした。


「姫様は?」


 問われて、私は答えに詰まった。

 湖が好き、なんて言うほど、記憶がはっきりしていない。だけど――胸の奥が、なぜか痛い。


「……分からないわ」


「分からない、か」


 副団長は、窓枠に片肘をついた。月明かりに横顔が浮かぶ。

 その目が、ほんの少しだけ遠い。


「じゃあ、思い出してみません? 姫様の“分からない”って、だいたい面白い方向に転ぶので」


「失礼ね」


「褒めてます」


 軽口なのに、嫌じゃなかった。

 私の胸の空っぽに、風が通るみたいに。



 それから、私は夜になると時々、同じ回廊へ行くようになった。

 誰にも言わない。言えない。

 王女が夜に抜け出して、騎士と話すなんて。噂になれば、今度こそ監禁される。


 けれど不思議と、怖さより先に――「この時間を失いたくない」が来た。


 副団長は、必ずそこにいた。まるで約束でもしたみたいに。


「姫様、今日は逃げるの早いですね」


「逃げてないわ。散歩よ」


「はいはい。散歩姫様」


 その呼び方に、私は笑ってしまった。

 笑うと胸が軽くなる。その感覚が嬉しい。私はいつから、こんなふうに笑えなくなっていたのだろう。


 ある夜、私は唐突に口にした。


「副団長……あなたの名前、ちゃんと呼んだことがないわ」


「あ。確かに」


「……教えて」


 副団長は一瞬、驚いた顔をして、それから少し照れたみたいに笑った。


「カイです。カイ・ヴァルデン。田舎の男爵家の出で、六人兄弟の長男」


 さらさらと言う。まるで、自己紹介が癖になっているみたいに。

 私は目を瞬いた。


「兄弟が六人も?」


「ええ。下はまだ小さくて。放っておくと、パンをめぐって戦争が起きます」


「……ふふ」


「笑いましたね。姫様、今のは“本物”でした」


 本物。

 その言葉が、胸に刺さった。

 私は今まで、どれだけ偽物の笑顔を使ってきたのだろう。


「カイ。あなたは、どうして騎士になったの?」


「お金です」


 迷いなく言い切るのが、彼らしい。


「家計がね。男爵家って言うと聞こえはいいけど、土地は石ころばっかりだし、冬は雪が深いし。……子どもが六人もいると、笑えないくらいに腹が減る」


 笑いながら、でも目は笑っていなかった。

 私は、胸の奥が少し痛くなる。


「それで、騎士に?」


「ええ。腕があれば食いっぱぐれないって聞いたので。ついでに馬が速かった」


「……自慢?」


「事実です。姫様、今度見ます? 私の全力疾走」


「見ないわ。危ないもの」


「姫様、意外と過保護ですね」


 過保護。

 その言葉に、私はふっと黙り込んだ。


 過保護にされたことはある。使用人に、甘やかされて。

 でも、守られた記憶は薄い。

 守られているのに、心はいつも一人で。


 言葉にできないその感覚が、喉元まで上がってきて、消えた。


 カイは、そんな私を追い詰めるようなことを言わない。

 ただ、少しだけ声を落として言った。


「団長が引き上げてくれたんです。俺みたいな田舎者を」


「レオルト団長が?」


「ええ。無口で怖いって言われるけど、あの人は……ちゃんと見てる。使えるか使えないかじゃなくて、“折れそうかどうか”を」


 その言い方に、私は胸の奥が熱くなった。

 折れそうかどうか。

 そんな見方を、誰かにされたことが、私にもあっただろうか。


「カイは、折れそうだったの?」


「折れてましたよ。兄弟の前で格好つけたくて、笑ってただけで」


 カイは肩をすくめた。

 軽く見える仕草なのに、そこに“長男”の重さが透ける。


「……姫様は?」


 問われて、私は答えられなかった。

 分からない。自分が折れているのか、折れていないのかすら。

 空っぽが当たり前になりすぎて、痛みの形が分からない。


 だから私は、別のことを言ってしまった。


「……湖、あなたが言ってた湖。どこかで見た気がするの」


 カイの目が、ほんの少しだけ大きくなった。


「……え?」


「子どものころ。夏に、別荘に行ったの。避暑で。そこに……湖があった気がする」


 言いながら、胸がざわついた。

 思い出そうとすると、同時に、苦い何かが出てくる。


「……最後の日、約束をしたの。湖で会うって。だけど、私は行けなかった。抜け出したのがバレて、部屋に閉じ込められて……」


 言葉が、途中で震えた。

 ずっと、気にしていたわけじゃない。なのに、今、胸がきゅっと痛む。

 空っぽの底に沈んでいたものが、触れられて浮かび上がってくる。


 カイは、何も言わずに、私を見ていた。

 そして、まるで確かめるみたいに、ぽつりと呟いた。


「……石、投げて遊びませんでした?」


「え……?」


「湖の石。平たいのを拾って、水面を跳ねさせる。……あの夏、俺、すごく上手い子がいて」


 心臓が、どくん、と鳴った。


 私は、思い出した。

 足の裏の泥。濡れた髪。笑いながら石を投げて、上手く跳ねるたび、得意げに胸を張った少年。

 そして、最後の日。私は来られず、窓の向こうで泣いた。泣いていたのに、誰も気づかなかった。


「……あなた?」


 声が、かすれた。


 カイは、黙ったまま、目を細めた。

 軽い笑みが消えて、代わりに、ひどく優しい顔がそこにあった。


「……姫様」


「違う、わよね。だって、あなたは私を王女だって知らなかったって」


「知らなかったです」


「じゃあ……」


「でも」


 カイは、ほんの少しだけ息を吐いた。


「姫様の目、あの子と同じ色だ」


 胸が、熱い。

 それは嬉しさなのか、恥ずかしさなのか、分からない。

 ただ、ずっと空っぽだった場所に、温かいものが落ちてきて、じわじわ広がっていく。


「……私、約束を破ったの。ずっと、悪いことをしたって思ってた」


「俺も、ちょっとだけ悲しかった」


 カイは笑った。今度は、軽い仮面じゃない笑い方だった。


「だから、姫様。……今夜、約束しません?」


「約束?」


「次の休みの日。城から見えるあの湖まで行きましょう。誰にも言わずに」


「無理よ……私は――」


「王女様だから、ですか」


 カイの声は軽いのに、真ん中に芯があった。

 私は言葉を失った。


「姫様。あなた、ずっと“王女”でいる顔しかしてない」


 胸が、きゅっと締まった。

 言語化できなかったものを、彼が言葉にしてしまう。


「……違う」


「違わない。だから、秘密にしましょう」


 秘密。共有。

 その言葉が、甘くて怖い。


 でも私は気づいてしまった。

 怖いのは、秘密じゃない。

 私が“私”でいられる場所を知ってしまうことが、怖い。


「……もしバレたら」


「団長に怒られます」


「レオルト団長に?」


「ええ。めちゃくちゃ怒る。無言で怒る。たぶん一番怖い」


 想像してしまって、私は思わず笑った。

 カイは「ほら、今のも本物」と得意げに言う。


「……じゃあ」


 私は小さく息を吸って、言った。


「約束する」


 カイの目が、ふっと柔らかくなった。


「はい。約束」


 彼は手を差し出してきた。大きくて、騎士の手。

 けれど触れ方は乱暴じゃない。

 私は迷ってから、そっと指先を重ねた。


 その瞬間、胸の奥の空っぽが、ほんの少しだけ埋まった気がした。

 誰かと同じ秘密を持つだけで、世界がこんなに近くなるなんて知らなかった。



 約束の日は、まだ先だ。

 でも私は、その日を待つ間だけでも、心がちゃんと息をするのを感じている。


 父や母の視線が、長兄を追いかけても。

 私はそれを、今までより少しだけ平気で見られる。


 だって、私は知ってしまったから。


 私のことを“王女”ではなく、ただの一人として見てくれる人がいること。

 そして、その人が、私の夏の思い出を大切に抱えていたこと。


 夜の回廊。窓の外の湖。

 カイの軽口と、時々見せる真剣な目。


 この時間は、誰にも見せない。

 見せたくない。


 ――私だけの、そして彼だけの、大切な秘密。


 私は窓辺で小さく笑った。

 次の夜も、きっとここに来る。

 今度は、逃げるためじゃない。

 私が、私でいられるために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ