秘密にしていたい ―王女の私と、騎士団副団長の夏の記憶―
王女として生まれて、何不自由なく育った――そう言われたら、私はきっと笑ってうなずく。
甘いお菓子も、季節ごとのドレスも、欲しいものは大抵、黙っていれば手に入った。使用人たちは私に優しくて、転べば手を差し伸べ、眠れない夜には子守歌まで口ずさんでくれた。
なのに、胸の奥だけが、ずっと空っぽだった。
理由は、たぶん――分からない。
分からないから、私はいつも「何かが足りない」だけを抱えて、上手に笑う。
父も母も、私を見ている。はずなのに、視線が一瞬で通り過ぎる。
その先には、必ず長兄がいる。王太子。誰もが認める、次の王。
次兄は、その隣で穏やかに笑う。私はその少し後ろで、飾りの花みたいに微笑む。
それで、いい。
そうやって私は、言葉にならないものを、ずっと喉の奥にしまい込んできた。
⸻
その日、私はまた「息が苦しい」気がして、夜の回廊を一人で歩いていた。
侍女をつけずに廊下を歩くと叱られる。でも叱られるのは、慣れている。私の不在で困る人はいない。
窓辺に寄ると、遠くに騎士団の訓練場が見えた。松明の火が揺れて、影が踊る。
あそこだけは、夜でも忙しそうだ。誰かの命を守るための場所。私の世界とは違う。
「……姫様?」
背後から声がした。軽い調子。けれど、足音は無駄がない。
振り向くと、騎士団の副団長が立っていた。整った顔立ちなのに、笑みは少しだけふざけて見える。けれど目だけは、いつも周囲を見ている。
「こんな時間に、お散歩ですか。迷子なら抱えて運びますよ」
「……抱えなくていいわ」
言い返すと、彼は声を殺して笑った。
「はいはい。じゃあ、歩ける姫様には“護衛”が必要ですね」
護衛。
その言葉に、私は反射的に肩が固くなった。王女として当然の扱い。なのに、胸の中の空っぽが、いっそう目立つ気がする。
「副団長、あなたはいつも軽いのね」
「軽いのが取り柄です。団長みたいに黙って立ってると、皆、怖がるでしょう?」
団長――騎士団長レオルト。
無口で、筋骨のかたまりみたいな人。言葉は少ないのに、そこにいるだけで空気が整う。副団長は、その横でよく笑い、よく場を回している。
「……団長は、怖いのではなくて、強いだけだわ」
「お、姫様、団長の肩持つんですか。珍しい」
「事実を言っただけ」
副団長は「そういうところ、好きですよ」と言いかけて、途中で飲み込んだ。
私が眉を上げると、彼はいつも通りの軽い笑みを作る。
「……失礼。姫様に“好き”なんて言ったら、首が飛びます」
「飛ばさないわ」
「団長が飛ばすかもしれません」
その言い方が妙に現実的で、私は小さく息を吐いた。
副団長はふと、窓の外を見て言った。
「……湖、見えますね」
「湖?」
「この城からだと、ほら。あのあたり。光が少しだけ反射してる」
私は目を凝らした。確かに遠く、黒い水面が月を薄く映している。
心のどこかが、きゅっと掴まれた。
湖――。
思い出そうとしたわけじゃないのに、突然、夏の匂いがした気がした。濡れた草、石の冷たさ、陽を浴びた木の匂い。
そして、誰かの笑い声。
「……副団長、あなたは湖が好きなの?」
「嫌いじゃないです。昔、よく遊んだので」
言い方が、少しだけ柔らかい。
ふざけた仮面の下に、別の顔があるのを、私は初めて見た気がした。
「姫様は?」
問われて、私は答えに詰まった。
湖が好き、なんて言うほど、記憶がはっきりしていない。だけど――胸の奥が、なぜか痛い。
「……分からないわ」
「分からない、か」
副団長は、窓枠に片肘をついた。月明かりに横顔が浮かぶ。
その目が、ほんの少しだけ遠い。
「じゃあ、思い出してみません? 姫様の“分からない”って、だいたい面白い方向に転ぶので」
「失礼ね」
「褒めてます」
軽口なのに、嫌じゃなかった。
私の胸の空っぽに、風が通るみたいに。
⸻
それから、私は夜になると時々、同じ回廊へ行くようになった。
誰にも言わない。言えない。
王女が夜に抜け出して、騎士と話すなんて。噂になれば、今度こそ監禁される。
けれど不思議と、怖さより先に――「この時間を失いたくない」が来た。
副団長は、必ずそこにいた。まるで約束でもしたみたいに。
「姫様、今日は逃げるの早いですね」
「逃げてないわ。散歩よ」
「はいはい。散歩姫様」
その呼び方に、私は笑ってしまった。
笑うと胸が軽くなる。その感覚が嬉しい。私はいつから、こんなふうに笑えなくなっていたのだろう。
ある夜、私は唐突に口にした。
「副団長……あなたの名前、ちゃんと呼んだことがないわ」
「あ。確かに」
「……教えて」
副団長は一瞬、驚いた顔をして、それから少し照れたみたいに笑った。
「カイです。カイ・ヴァルデン。田舎の男爵家の出で、六人兄弟の長男」
さらさらと言う。まるで、自己紹介が癖になっているみたいに。
私は目を瞬いた。
「兄弟が六人も?」
「ええ。下はまだ小さくて。放っておくと、パンをめぐって戦争が起きます」
「……ふふ」
「笑いましたね。姫様、今のは“本物”でした」
本物。
その言葉が、胸に刺さった。
私は今まで、どれだけ偽物の笑顔を使ってきたのだろう。
「カイ。あなたは、どうして騎士になったの?」
「お金です」
迷いなく言い切るのが、彼らしい。
「家計がね。男爵家って言うと聞こえはいいけど、土地は石ころばっかりだし、冬は雪が深いし。……子どもが六人もいると、笑えないくらいに腹が減る」
笑いながら、でも目は笑っていなかった。
私は、胸の奥が少し痛くなる。
「それで、騎士に?」
「ええ。腕があれば食いっぱぐれないって聞いたので。ついでに馬が速かった」
「……自慢?」
「事実です。姫様、今度見ます? 私の全力疾走」
「見ないわ。危ないもの」
「姫様、意外と過保護ですね」
過保護。
その言葉に、私はふっと黙り込んだ。
過保護にされたことはある。使用人に、甘やかされて。
でも、守られた記憶は薄い。
守られているのに、心はいつも一人で。
言葉にできないその感覚が、喉元まで上がってきて、消えた。
カイは、そんな私を追い詰めるようなことを言わない。
ただ、少しだけ声を落として言った。
「団長が引き上げてくれたんです。俺みたいな田舎者を」
「レオルト団長が?」
「ええ。無口で怖いって言われるけど、あの人は……ちゃんと見てる。使えるか使えないかじゃなくて、“折れそうかどうか”を」
その言い方に、私は胸の奥が熱くなった。
折れそうかどうか。
そんな見方を、誰かにされたことが、私にもあっただろうか。
「カイは、折れそうだったの?」
「折れてましたよ。兄弟の前で格好つけたくて、笑ってただけで」
カイは肩をすくめた。
軽く見える仕草なのに、そこに“長男”の重さが透ける。
「……姫様は?」
問われて、私は答えられなかった。
分からない。自分が折れているのか、折れていないのかすら。
空っぽが当たり前になりすぎて、痛みの形が分からない。
だから私は、別のことを言ってしまった。
「……湖、あなたが言ってた湖。どこかで見た気がするの」
カイの目が、ほんの少しだけ大きくなった。
「……え?」
「子どものころ。夏に、別荘に行ったの。避暑で。そこに……湖があった気がする」
言いながら、胸がざわついた。
思い出そうとすると、同時に、苦い何かが出てくる。
「……最後の日、約束をしたの。湖で会うって。だけど、私は行けなかった。抜け出したのがバレて、部屋に閉じ込められて……」
言葉が、途中で震えた。
ずっと、気にしていたわけじゃない。なのに、今、胸がきゅっと痛む。
空っぽの底に沈んでいたものが、触れられて浮かび上がってくる。
カイは、何も言わずに、私を見ていた。
そして、まるで確かめるみたいに、ぽつりと呟いた。
「……石、投げて遊びませんでした?」
「え……?」
「湖の石。平たいのを拾って、水面を跳ねさせる。……あの夏、俺、すごく上手い子がいて」
心臓が、どくん、と鳴った。
私は、思い出した。
足の裏の泥。濡れた髪。笑いながら石を投げて、上手く跳ねるたび、得意げに胸を張った少年。
そして、最後の日。私は来られず、窓の向こうで泣いた。泣いていたのに、誰も気づかなかった。
「……あなた?」
声が、かすれた。
カイは、黙ったまま、目を細めた。
軽い笑みが消えて、代わりに、ひどく優しい顔がそこにあった。
「……姫様」
「違う、わよね。だって、あなたは私を王女だって知らなかったって」
「知らなかったです」
「じゃあ……」
「でも」
カイは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「姫様の目、あの子と同じ色だ」
胸が、熱い。
それは嬉しさなのか、恥ずかしさなのか、分からない。
ただ、ずっと空っぽだった場所に、温かいものが落ちてきて、じわじわ広がっていく。
「……私、約束を破ったの。ずっと、悪いことをしたって思ってた」
「俺も、ちょっとだけ悲しかった」
カイは笑った。今度は、軽い仮面じゃない笑い方だった。
「だから、姫様。……今夜、約束しません?」
「約束?」
「次の休みの日。城から見えるあの湖まで行きましょう。誰にも言わずに」
「無理よ……私は――」
「王女様だから、ですか」
カイの声は軽いのに、真ん中に芯があった。
私は言葉を失った。
「姫様。あなた、ずっと“王女”でいる顔しかしてない」
胸が、きゅっと締まった。
言語化できなかったものを、彼が言葉にしてしまう。
「……違う」
「違わない。だから、秘密にしましょう」
秘密。共有。
その言葉が、甘くて怖い。
でも私は気づいてしまった。
怖いのは、秘密じゃない。
私が“私”でいられる場所を知ってしまうことが、怖い。
「……もしバレたら」
「団長に怒られます」
「レオルト団長に?」
「ええ。めちゃくちゃ怒る。無言で怒る。たぶん一番怖い」
想像してしまって、私は思わず笑った。
カイは「ほら、今のも本物」と得意げに言う。
「……じゃあ」
私は小さく息を吸って、言った。
「約束する」
カイの目が、ふっと柔らかくなった。
「はい。約束」
彼は手を差し出してきた。大きくて、騎士の手。
けれど触れ方は乱暴じゃない。
私は迷ってから、そっと指先を重ねた。
その瞬間、胸の奥の空っぽが、ほんの少しだけ埋まった気がした。
誰かと同じ秘密を持つだけで、世界がこんなに近くなるなんて知らなかった。
⸻
約束の日は、まだ先だ。
でも私は、その日を待つ間だけでも、心がちゃんと息をするのを感じている。
父や母の視線が、長兄を追いかけても。
私はそれを、今までより少しだけ平気で見られる。
だって、私は知ってしまったから。
私のことを“王女”ではなく、ただの一人として見てくれる人がいること。
そして、その人が、私の夏の思い出を大切に抱えていたこと。
夜の回廊。窓の外の湖。
カイの軽口と、時々見せる真剣な目。
この時間は、誰にも見せない。
見せたくない。
――私だけの、そして彼だけの、大切な秘密。
私は窓辺で小さく笑った。
次の夜も、きっとここに来る。
今度は、逃げるためじゃない。
私が、私でいられるために。




